第1回 片山豊の渡米とスポーツカーへの想い

2022年10月27日

ダットサン240Z(Zカー、日本名:フェアレディZ)は日本より一年遅れの1970年にアメリカ市場に投入され、たちまち大人気となった。値段がポルシェの約半分の3000ドル台(当時のレートで3000ドル=108万円)、高性能、軽量で時速100マイル(時速160キロ)がでたからである。日本では月に1000台も売れれば上等、と思われていたがアメリカでは納車まで6か月待ち、8か月待ちがざらで、プレミアムのつく値段で売られる始末だった。1974年と75年にはアメリカ人が一番欲しいクルマとなるなどその人気は絶頂に達した。国内での生産も最盛期には月産1万台に達したという。

Zカーはその後も改良を重ね2000年まで製造され、当時世界で最も売れたスポーツカーとしてギネスブックに登録された。片山豊の売るダットサンは、Zだけでなく、セダンの510(日本名:ブルーバード)もライバルのフォルクスワーゲンを凌駕し、1975年にはダットサンが全米輸入車で一位という記録を打ち立てた……

片山豊は当時米国日産の社長を務め、ダットサンの名を全米に轟かせた人物である。この連載の主人公、片山豊については、Zカーの父「ミスターK」の愛称で親しまれるように、Zカーとは切り離せない関係にある。この連載の筆者は、片山豊の次男として生まれ、1961年から1969年までの期間を米国で父とともに過ごし、”家業“である日産車の販売の手伝いに動員されたりもした。この連載では、父から聞いた様々なことや残された資料、父を支えてくださった方々の証言、そのほかの資料などに当たりながら、片山豊の生涯に焦点をあてて記してゆきたいと考えている。

片山豊が米国に赴任したのは1960年である。1962年にはフェアレディは1500㏄のエンジンを搭載し、Xメンバーにより補強されたフレームを持つ、当時のMGやトライアンフとほぼ同格の物になっていた。フェアレディという名前はスポーツカーのもつ男性的なイメージには適切でないと考えた片山は、ダットサンSPL310として米国マーケットに投入した。このモデルは後に2000ccのエンジンを搭載することになったが、リアサスペンションがリジッドであったため、当時先端のスポーツカーとの競合が難しくなりつつあった。

アメリカでは一旦ツーリングに出ると1000キロ以上走ることは当たり前で、いくら天気の良いカリフォルニアでもオープンのまま走り続けると風と日差しでくたびれてしまう。片山は次のスポーツモデルには屋根が必要だと強く思っていた。1964年ごろにはアメリカでも欧州の高級スポーツカーの中でグラン・ツーリスモと呼ばれる、屋根の付いた旅行用の高性能車がもてはやされつつあった。

片山はこの頃から日本に行くたびに新しいスポーツカーのコンセプトを設計部門やデザインスタッフに話し、そのデザインを模索していた。当時比較的安価(フェラーリなどの約半値の6000ドル)で、素晴らしいデザインを誇示していたのはジャガーのXK-Eだった。6気筒エンジンをフロントに積み、長いエンジンルームの後ろに比較的立ったウインドウとルーフを備えたこの優美なモデルは当時の最先端デザインだったが、メカトラブルが多く、実際にこれで長距離ツーリングするのはなかなか大変だった。片山は次のスポーツモデルはジャガーのような長いフードと屋根付きのキャビンを持ち、四輪独立懸架式サスペンションを備えた安価な、しかもトラブルのない大衆のためのモデルでなければならないと決めていた。しかしそのデザインが問題だった。

一方で国内でも次期スポーツモデルの検討が始まっていた。設計部長の原禎一は6気筒エンジンを積める高剛性のボディと四輪独立懸架サスペンションを持つ安価なモデルの検討を始めていた。デザイン部門にいた松尾良彦は独自に各種のスポーツモデルのデザイン検討を進めていた。1967年に片山が日産本社を訪問し、原設計部長と次期モデルについて議論をしている時、松尾のデザインが目に飛び込んできた。片山は、「このクルマ買った!」と叫んだと伝えられている。

スポーツカーに強い想いのある片山は、米国日産においてモータースポーツ活動の推進にも目を向けていた。新しいスポーツモデルを推進する一方で、片山はアメリカ国内のスポーツカークラブによるアマチュアレースに力を入れていた。メーカーとして参戦するのではなく、アマチュアの自動車ファンに安価で改造しやすい基本モデルを提供し、レースへの参加を援助するのである。そのための部品供給やサービスは他のモデルと同様抜かりは無かった。熱心なディーラがダットサンを改造して地域のレースに参加するのも援助した。初めてアメリカスポーツカークラブ(SCCA)のナショナルチャンピオンになったのは自身がダットサンディーラーであるボブ・シャープが乗るSPL310で1967年だった。少し遅れてセダンの510がSCCAツーリングカーチャンピオンになったのは1971年でジョン・モートンが主なドライバーだった。

片山豊の生きた時代はスポーツカーの時代であったといえる。子供の頃、通り過ぎた自動車の排気ガスの匂いを嗅ぐのが好きだったのは他の子供と同じだったが、衝撃的な自動車との出合いがあった。藤沢駅前に停めてあったBriggs & Stratton Flyerである。すのこのような木製のボディの四隅に車輪を付け、真ん中に二つの座席を載せ、そのうしろに第五の駆動輪を付けたその自動車は、自走するために必要な最小限度の装備を持つものであった。そこにニッカーボッカーを着た紳士が現れ、軽くエンジンを起動して視界から走り去っていった。片山は、これなら自分でも作れる、と強く思ったと同時に、将来自身が携ることになるスポーツカーに必要な要素を感じ取っていたのだろう。

走行に必要な最小限度の装備を持つ自動車とは、スポーツカー以外にないと考えた片山は、戦後日産自動車が生産を再開した時にまず作ろうとしたのがスポーツカーだった。トラックのシャシーを流用し、MGを想わせるロードスターを当時日本で有数のコーチビルダーだった太田祐一氏に依頼し、ダットサンDC-3として1951年12月に1号車が完成した。

スポーツカーとしては余りにも非力で、快適に走るのは難しかったが、オープンカーの軽快さを世に広めるには十分だった。その後日産は各種のスポーツモデルを試作し、フェアレディと呼ばれた一連の日産車の始まりはFRP製ボディを載せた二座席オープンカーだった。筆者も父の運転するDC-3に何度も乗せられ、あまり快適とはいえないドライブを経験した思い出がある。

Zカーの米国での成功は、片山が藤沢駅前でBriggs & Stratton Flyerを偶然発見してから50年近くの時間が流れていた。片山が米国で日本の自動車を売り始めたとき常にアメリカ人に語ったのは、これを見た時の衝撃であったという。皮肉なことにこのアメリカ製のクルマはアメリカ国内ではほとんど知られておらず、これを聞いたアメリカ人はよっぽどの自動車通以外、きょとんとしていた。

1971年頃 米国日産ビル建設中の様子を見る

1984年頃 米雑誌『エスクワイヤ』に掲載された写真

1998年 米国自動車殿堂表彰式の会場前にて

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