三樹書房
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indy500
第2回 日本メーカーとインディの意外な関係 
2018.4.17

 日本にモータースポーツが広まったのは1960年代半ば以降のことだ。国全体が高度成長期に突入し、一般庶民にも乗用車が買えそうな雰囲気が広がり、マイカー・ブームへと向かうまさにその時期に当たる。
 それ以前にも、例えば大正時代には一部の自動車好きが競走大会を催した記録があるし、1936年には東京と神奈川を隔てる多摩川の河川敷に多摩川スピードウェイが完成したり(詳細は『日本の自動車レース史--多摩川スピードウェイを中心として』杉浦孝彦著・三樹書房2017年刊を参照)、戦後の1950年代後半には2輪の浅間火山レースが人気を博したという史実もある。しかし、どれも継続性に乏しく、真の意味では、62年秋、三重県に誕生した鈴鹿サーキットの完成によるところが大きい。自ら多摩川スピードウェイでのレース経験もある本田技研の創設者・本田宗一郎が、自社製バイクの開発及び国際舞台制覇後の凱旋の場として、日本で初めて本格的サーキットを作ったのだ。

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1964年5月、第2回日本GPのT-Ⅵレースは、前年惨敗したプリンス・グロリア勢が圧勝、雪辱を果たした

 完成翌年の63年5月初旬には4輪車による「第1回日本グランプリ」が盛大に催され、自動車に興味を持ち始めた若者たちは、その行方を見守った。クラウン/コロナ/パブリカの3車種すべてが排気量別クラス優勝を遂げたトヨタはレース直後に大々的に宣伝を打ち、それが売れ行きに直結することが分かると、各自動車メーカーは一年後の64年「第2回日本グランプリ」制覇に向けてワークス・チームを結成、選手養成やマシーンのチューニングアップに精力を注ぐことなる。日本国内レースでのメーカー対決の図式はこれ以後69年末までエスカレートの一途を辿る。

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1968年春、ニッサンの「怪鳥」R381は当初、クローズド・ボディだった。この形での実戦参加はない

 鈴鹿サーキットを作った当のホンダは、まだ4輪乗用車すら生産し始めていなかったこともあり、また2輪の国際レースで大活躍し始めていたこともあって、国内での異様な4輪メーカー対決には加わらず、その代わり、64年夏から4輪レースの最高峰F1GPレースに参戦し始めた。もちろんこれが日本車として初めてのF1挑戦となる。社内技術者たちが見よう見真似で作った最初のホンダF1は西欧の最新鋭F1と比べるといかにも不格好だったが、2輪経験を生かしたV型12気筒エンジンは一般的な8気筒よりパワフルかつ快音を発し、それを横置きミドシップとする特異さとで注目を集めた。独自性を追い求めるホンダの社風が大いに発揮されていた。

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1964年8月、ニュルブルクリングでのドイツGPでいよいよデビューした日本製F1、ホンダRA271

 未経験の連続の中、悪戦苦闘と可能性の繰り返しの末、デビューからわずか15ヵ月後、65年10月24日のメキシコGPにおいて、ホンダF1は初優勝を遂げる。ドライバーは優勝未経験のアメリカ人、リッチー・ギンサーだった。日本人でF1に乗れるような、国際舞台で活躍する者は、まだ誰もいなかった。日本のレース界はまだまだ未熟であり、でもそれゆえ熱気に満ち溢れ、危うさをはらんだ魅力的な時代でもあった。
 ホンダの4輪車としては、まだS600やS800といったスポーツカーしか存在せず、軽自動車のヒット作N360の誕生は67年まで、空冷乗用車の1300は69年まで、2ボックスFF大衆車シビックの誕生は72年まで待たなければならない。先発4輪メーカーであるトヨタ/ニッサン/三菱/いすゞ/マツダ等からは大きく後れを取っていたホンダは、ゆくゆく市場となるのはアメリカであると判断し、64年ホンダF1デビューの時点で、そのドライバーとして無名のアメリカ人ドライバー ロニー・バックナムを起用していることも面白い。西海岸のSCCAアマチュアレースで頭角を現していた男ではあったが、いざF1デビューとなった際には西欧の既存F1選手たちから「待った」が掛かるほど無名だった。そして65年になり、ギンサーとバックナムの二台体制となる。
 2輪世界GPではすでに世界一に君臨していた本田宗一郎は、4輪でもヨーロッパだけでなくアメリカにも等しく目を向けていた。64年8月ドイツGPデビューの2ヵ月ほど前、5月末のインディ500にはわざわざ観戦しに出向いている。インディ車両を興味深く見入る姿も写真に残っている。

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1965年インディ500ではホンダ・スーパーカブが場内パトロールで活躍

 今まで全く話題になったことがないが、65年インディ500の際にはホンダのスーパーカブが大量に提供され、広大なパドックエリアをパトロールするのに関係者たちから重宝がられたらしい。
 ホンダはこの時点ですでに、F1と同時にインディも視野に入れていたのだろう。遡ること30年前の多摩川スピードウェイを自作レーサーで走った本田宗一郎が、インディ500の存在を知らなかったわけがない。多摩川スピードウェイの推進者だった藤本軍次は1922年までアメリカで自動車関連の仕事に従事し、帰国後、インディを夢見ながら日本での自動車レースの浸透に尽力した人物で、若き日の本田との親交も大いにあったと思われる。
 ホンダの第一期F1活動は68年に一旦閉幕するが、同年秋の最終戦メキシコGP終了後、3リッターF1マシーン「ホンダRA301」をインディアナポリス・モーター・スピードウェイに持ち込んで試走しているという事実も実に興味深い。F1マシーンとインディカーとでは使い道も車両規則も全く異なるので、同じようなフォーミュラカーの形こそしているものの、競争力の比較など出来るものではない。それでも、本田宗一郎社長および中村良夫レース監督としては、インディで走らせてみたいという誘惑を排除しきれなかったのだろう。66年末にF1チームをクビにしたロニー・バックナムをわざわざインディのコースに呼び出して(彼はホンダから離れた後、自力でインディ・ドライバーへと成長していた)試走させる辺りも、何か人間臭い彼らの信頼関係を感じさせる。

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1968年インディ500に出場したロニー・バックナム。マシーンはイーグル・フォード

 F1のひとつ下、66年ヨーロッパF2戦ではホンダ1リッター・エンジン搭載のブラバムが連戦連勝するが、その時のチーフメカが後に社長となる川本信彦だ。86年には旧友ジャック・ブラバム及びジョン・ジャッドとの関係からインディ・エンジンを共同製作したことがある。どうやら、「ホンダ社が」と言うより「川本個人が」という色合いのプロジェクトだったようで、間もなくジャッド・エンジンへと改名されるが、94年からのホンダ・インディ参戦に向けてのプロローグとはなった。94年インディ500では屈辱的な予選落ちを味わうものの、95年では最初にチェッカーを受け(スコット・グッドイヤーがレース終盤最後のリスタート時にペースカーを抜いてしまったため5周分が無効とされ優勝を逃した)、CARTシリーズでは最強エンジンとなり、CARTからIRLに転向後は2004年にインディ500初優勝、06〜11年にかけてはワンメイク・エンジンとしてインディカー界を支えるまでになる。

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1994年5月、ホンダとして初のインディ500挑戦は「予選落ち」、ほろ苦いものとなった

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1991年、日本人初のインディ500決勝進出ドライバーが誕生、ヒロ松下(松下弘幸)

 91年には日本人初のインディ500出走ドライバーが誕生する。ヒロ松下は日本での参戦歴がなく、アメリカのレース界で実績を挙げ、インディカーに到達したが、残念ながら優勝争いには絡めなかった。インディ500の最上位は10位。それでも先駆者としては立派な戦績と言える。F1GPの先駆者たる中嶋悟にしても優勝争いには全く無縁だったのだから。
 インディカー・シリーズ運営組織の勢力争いの歴史もなかなかに複雑だ。日本のメディアにとって、この分かりづらさもネックとなっているのかもしれない。
 70年代末に従来のUSAC(US Auto Clubの略)から分離独立したCART(Championship Auto Racing Teamsの略)。しかしインディ500だけはUSAC系残党による特別な一戦として留まり、CARTシリーズには含まれなかった。スター選手いっぱいのCARTと、閑散としたUSACシリーズ。後者は79年一杯で事実上消滅する。CARTはその後次第に国際色を強め、日本の自動車メーカーもエンジン供給を始めるようになって日本国内でも知名度が上がるが、そのことでかえってアメリカ人選手減少を招いてしまう。「アメリカ人選手中心にオーバルトラックでのレース再興を」とIMS(Indianapolis Motor Speedway)の若きトニー・ジョージ代表が96年にIRL(Indy Racing League)シリーズを新設、これは旧USAC路線の復活とも言え、既存CARTとの対立図式が再度顕著になった。

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長くインディ・コースオーナーを務めたトニー・ハルマン(左)と孫のトニー・ジョージ。1961年のショット

 当時、ヨーロッパや日本はCARTチャンプカーこそアメリカを代表するオープンホイール・レースと考えていたが、いつしかIRLの方が活況を呈する事態に変わっていく。主要チームも次第にIRLへと鞍替えし始めた。03年にはホンダとトヨタもIRLへと転向。CART系シリーズは07年を最後に消滅し、IRLの方が生き残った。現在の名称はIRLとは呼ばず2011年以降「インディカー・シリーズ」だ。
  F1のように一極集中、脅かす存在なし、という状況ではないところが、アメリカ・レース界の不安定さ・弱さである一方、支持者(ファンやチームやコースオーナーや)意見優先で流れが変わる民主的フィールドと言い換えることもできなくはない。「インディ500」という他に比肩しうるものがない大看板を持つシリーズの方が結局は生き残るのだという前例を、CART vs IRLの20年戦争は教訓として残した。間接的に「インディ500」の偉大さを思い知らされることになった。

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ツインリンクもてぎのオーバルではCART/IRL戦が競われ、2008年にはダニカ・パトリック嬢が優勝

 ホンダはCART時代での全盛時、栃木県にツインリンクもてぎを作った。日本初のバンク付き本格オーバルコースとして、98年からインディカー・レースを開催、日本でのアメリカン・オートレーシングの啓蒙に励んだ。しかし真には根付かぬまま、2011年の東日本大震災によりコースにダメージを被って閉鎖されてしまったのは実に惜しい。周囲からの修復開催を望む声が少なかったのは、90年代初頭F1ブームを経た後の国内レース関係者や日本人ファンの意識、つまりF1至上主義にも問題ありか。ホンダ派遣の日本人インディカー選手たちも、最初からインディカーに憧れていたわけではないのは明らかだった。

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1966年10月には、開設間もない富士スピードウェイの左回りコースで「日本インディ」が催された

 一方、そんなアメリカのレースを20年以上も積極的に取材してきた日本人記者やカメラマンは少なからずいる。しかし彼らの記事や写真が専門誌に掲載されるか否かは、媒体メディアの編集方針次第。編集長がもしアメリカン・レースに大して興味を持っていなければ(そういう世代であるならば)、日本人選手の奮闘記がせいぜい載る程度だろう。それではいつまで経っても、アメリカ・レース界の魅力が日本に知れ渡るはずがない。専門誌にしてそうなのだから、元来他人任せ・人気任せの新聞社やテレビ局やメーカーやスポンサーやドライバーが見向きもしなくて当り前かもしれない。
 インディ500とその周辺環境が日本で正しく報道されてこなかったツケは、だから今になって残念なほどに大きくなってしまった。

写真:IMS(Indianapolis Motor Speedway)/日産自動車/本田技研工業/富士スピードウェイ

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執筆者プロフィール

1955年(昭和30年)東京杉並生まれ。1974年明治大学入学と同時にモータースポーツ専門誌『オートテクニック』の編集アルバイトを開始。1981年に『F1GP 1950-80全342戦完全記録』を自費出版。グランプリ出版社員を経てフリーランスに。1986年『レーシングオン』誌創刊スタッフ。その後、主宰するGIRO名義で執筆&編集を2004年まで担当。2006年『日本の名レース100選』を創刊。現在は『F1速報』誌にコラムを連載中。著書に『サーキット・ヒーロー』(光風社、1988年)、『時にはオポジットロック』(ニューズ出版、1993年)、『F1戦士デビュー伝説』(ベストブック、1994年)、『F1全史』(1~10巻まで、ニューズ出版)、『富士スピードウェイ最初の40年』(三樹書房、2005年)等がある。

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