論評05 マツダのル・マン優勝最大の功労者、大橋孝至さんを偲ぶ


マツダのル・マン優勝最大の功労者

初出場から優勝までのマツダスピードの18年、13回にもわたるル・マン24時間レース挑戦に、いずれも総監督として事前準備からチーム運営、レースの指揮などを行なってきたのが大橋孝至氏だ。挫折を何度も味わいながらも、諦めることなく挑戦を続けた彼のル・マンにかける情熱により、マツダスピードに優れた人材が集結、グローバルなネットワークが構築され、マツダの開発部門を揺り動かして最終的には優勝に導くエンジンの開発も実現した。彼なくしては1991年におけるル・マンでの日本車初の総合優勝はありえなかったといっても決して過言ではない。


大橋さんのル・マン挑戦の発端

その大橋氏とル・マンとの最初の結びつきは、1973年にロータリーエンジン搭載のシグマMC73でル・マンに参戦した加藤真氏との交流に端を発している。大橋氏の回想によると、『’73年11月、私はシグマオートモティブ(現在のサード(SARD)の母体)の代表、加藤真氏とともに岡崎市の寺、高月院にあった。加藤氏は情熱溢れる熱血漢で、二人で日本のモータースポーツ界、そして自動車産業の将来展望、そして私たちが進むべき将来について時が経つのも忘れて語り合った。結果、私たちは己の実力を計るため、世界のモータースポーツを知り、世界と交流することが急務であると結論付けた。―中略―加藤氏のプランは過酷さ、名誉・名実ともに世界最高峰のレース、ル・マンへのチャレンジであった。栄光のル・マン24時間レース。無謀とも思われたが、とにかくいってみようとのことになった。二人で寺の階段を下る際に私は身震いを感じた。』このようなことがあって、翌1974年のシグマオートモティブとの、ル・マン共同チャレンジが実現した。


初期のル・マン挑戦を支えた人たち

大橋氏の志を支えたのは当時のマツダオート東京のマネージメントだった。『当時の混迷する社会情勢は日に日に不安感を増していた。世界を震撼させたオイル・クライシスの影響である。−中略―多くの自動車メーカーは、モータースポーツから撤退すると発表した。しかし、私たちは、むしろこんな時代だからこそ強烈なインパクトが必要だと会社を説得し続けた。反対論は少なくなかった。そんな時、当時のマツダオート東京の磯村本部長は私たちに対し、将来のために不可欠なのであればル・マンへの参加を考えても良いといってくれたのである。当時の状況と環境を考えれば、これは英断であったと思う。この英断がなければ、今日の私たちはありえなかった。』と大橋氏は回想している。1974年、シグマMC74にロータリーエンジンを搭載、彼としてはじめてル・マンに挑戦したが、周回不足で完走すら出来なかった。

『次にル・マン挑戦の機会を得たのは’79年のことであった。この年の参加にあったても賛否両論あったが、時のマツダオート東京社長、伊藤暢英氏の熱意で参加出来たのである。しかし結果はまさかの予選不通過。私たちは挑戦さえできない惨めさと悔しさのためさめざめと涙を流した。−中略―以後私たちは牛歩のごとくステップバイステップで、時には細々と、しかし諦めることなくル・マンの夢を追い続けた。』


諦めずに挑み続けた歴史

このような形で始まったマツダスピードによるル・マンへの挑戦の歴史を以下簡単に振り返ってみると、挫折を何度も味わいながらも、諦めることなく挑戦を続けた様子の一端を読み取れることが出来る。

  • 1967年:(マツダオート東京内にマツダスピードの前身が産声)
  • 1973年:(シグマオートモティブがREを搭載、ル・マン挑戦するもリタイア)
  • 1974年:シグマオートモティブとジョイントでル・マン挑戦するも、周回不足で完走ならず
  • 1979年:前年導入のRX-7をベースとしたマシンで挑戦開始するも予選通過ならず
  • 1980年:(アメリカから出場したマツダRX-7が21位でル・マン初完走)
  • 1981年:前年RX-7でスパフランコルシャン24時間レース優勝したトム・ウォーキンショー氏と契約、しかしマツダRX-7 253は2台ともリタイア
  • 1982年:マツダRX-7 254、14位で完走、(ここまでのマツダ本体の関与は微小)
  • 1983年:(マツダスピードをマツダの子会社化)
  • 1983年:マツダ717C、総合12位、18位で完走、(グループCジュニアー優勝)
  • 1984年:マツダ727C、総合15位、20位
  • 1985年:マツダ737C、総合19位、24位1986年:(マツダ社内のモータースポーツ主管部門を広報部から商品本部に移管)
  • 1986年:(マツダ社内のモータースポーツ主管部門を広報部から商品本部に移管)
  • 1986年:3ローター搭載車マツダ757を投入するも2台ともリタイア
  • 1987年:3ローター搭載車757のうち一台が7位で完走
  • 1988年:4ローターで参戦開始、757(3ローター)が15位、767(4ローター)が17位、19位
  • 1989年:4ローター搭載車767Bが7位、9位、12位で完走


一旦は1990年が出場可能最後の年に

1989年の結果はそれなりのものといえなくもないが、マツダのル・マン挑戦を締めくくるには充分とはいえなかった。そこに降って沸いたのが、ル・マンの規則変更で、3.5Lの自然吸気以外のエンジンが出場できるのは翌年までということになった。マツダ社内でも1990年を最後のル・マン挑戦と受け止め、「エンジン出力を600馬力から700馬力へ大幅アップし、燃費、信頼性も同時に改善、上位入賞を目指せ」という達富商品本部長の大号令のもと、全社挙げて開発に注力した。


1990年ル・マンでの惨敗

ここから、私と大橋氏とのかかわりが深くなった。3代目RX-7担当主査として一連の開発が山場にさしかかっていた1989年秋、私は突然モータースポーツ主査兼務を命じられた。一旦は2足のわらじは無理と断ったが、前任者の健康問題が引き金だったため、引き受けることになり、まずはモータースポーツプログラムの推進に必要な優秀な人材確保に注力した。

また全くのめぐり合わせだが、大橋氏とは中学以来の同窓&同級生だった。学生時代の接点は限られていたが、モータースポーツを引き受けることになった以上は、それまで水と油のような関係だったマツダスピードとマツダ開発部門の連携をいかに図るかが私の最大の役割と判断、周囲に明確に見えるカタチで、彼との2人3脚を始めた。またマツダスピードの社長としてマツダから派遣されていた森丘社長、長年マツダでレース用エンジンの開発に携わり、マツダスピードに技術部長として出向していた松浦さんらとも徹底的な連携活動を開始した。

一方で大橋氏は、1990年ル・マンに向けてジャッキー・イクス氏を含む国際チームを結成、ドライバーには若手F1ドライバーを採用、性能、燃費、信頼性共に大幅に向上したエンジンと新型マシン787に期待をかけつつ1990年のル・マンに臨んだが、結果は、新型は2台ともエンジン以外のトラブルでリタイア、前年のクルマ(767B)がかろうじて20位という結果に終わった。まさに惨敗だった。


正真正銘のラストチャンス

本来なら、マツダのル・マン挑戦はこの無残な結果で終止符が打たれるはずだったが、レース直後にロータリーがもう1年だけ出場可能になった。理由は3.5L自然吸気エンジンだけでは必要な出場台数が確保できなかったからだ。今度こそ正真正銘のラストチャンスとなった。まずは1990年のレース結果を徹底的に分析し、1991年に優勝をめざすための車両、エンジンの改善を含む、80項目近い技術課題をマツダとマツダスピードが連携して抽出し、「勝つ為のシナリオ」を構築した。そしてそれぞれの技術課題に対する関係者、責任者、スケジュールを設定、相互の情報交換を密にするととともに徹底的な開発活動を推進し、1991年春までにはほぼ全ての技術課題をクリアーすることができた。

といっても綱渡りのような場面も何点かあった。レースを数ヶ月に先に控えた春先、ドライバーから指摘されたのはハンドリング上の問題だった。早速マツダ社内で当時活用が本格化してきたスーパーコンピューターによるシミュレーションをRX-7チームに依頼したところ後部車体構造上の問題が判明、急遽補強メンバーの追加を決定した。787Bから採用を決定したカーボンブレーキの温度管理の難しさも考慮、いざというときのために従来システムとダブルで準備した。また排気系のクリップの耐熱性問題が最終段階で判明、対策部品を現地に行く技術者に託してようやく間に合ったなどは綱渡りの一例である。


微笑んでくれた女神

そして臨んだ1991年のル・マン、19位という地味なポジションからのスタートだったが、1時間後には11位、4時間後には7位、8時間後には4位、12時間後には3位、14時間後に2位と着実にポジションを上げた。それでも55号車の前を走るメルセデスC11には4周の差を付けられ、このまま進めばメルセデスの優勝かと思われたが、ゴール3時間を前にメルセデスが突然ピットイン、動かなくなった。マツダに女神が再び微笑んでくれたのだ。

マツダがメルセデスを抜いてトップに躍り出たときのグランドスタンドの興奮は今でも忘れられないし、最後の3時間はわが一生で最も長い3時間だった。テールトゥノーズで迫るジャガーを追い越させたのも、最終スティントを、ジョニー・ハーバート氏に連続でハンドルを握るよう指示したのもジャッキー・イクス氏だった。結局55号車は24時間一切のトラブルなしに走りぬき、日本車としての始めての栄誉を獲得、もう1台の787Bが6位、前年マシンの787が8位で全車完走することが出来た。


ル・マン村に溶け込んだ貧乏チーム

優勝にいたるまでの18年間は決して豊富な予算を駆使しての挑戦ではなかった。限られた予算ゆえに、スポンサー獲得も大橋氏自身が中心になって独自に行なった。優勝した1991年の年間総予算ですら近年のF1年間予算の数%にも満たない額だ。「貧乏チームマツダスピード」は、医師からコックさんにいたるまで多くのボランティアに支えられていたし、つつましいが故に「ル・マン村」の村人として温かく受け入れられ、ル・マンオーガナイザーとの家族的な関係を築き上げてきたが、そのいずれもが大橋氏の大きな功績である。


グローバルなネットワーク

彼の長年の経験と国際的なネットワークにより、車両開発、チーム編成、レース運営などを常に適切、かつ戦略的に行なうとともに、国際モータースポーツ界における発言権も確保してきた。ジャッキー・イクス氏を1990年からコンサルティングチームマネージャーとして起用したのも彼だ。イクス氏は、ル・マン優勝6回の記録を持つル・マンの神様的存在だが、数多くの貴重なアドバイスを与えてくれたと共に、優勝トリオにとってもジャッキー・イクス氏の一言、一言は非常に有効なものだったはずだ。

また優勝チームのF1ドライバートリオはもちろん、757から優勝車に至る車両の設計を担当してくれたナイジェル・シュトラウド氏、フランスのレーシングチーム、オレカの社長、ヒュー・ドシャーナック氏、長年マツダでル・マンに挑戦し続けてくれた寺田氏、片山氏、従野氏、ピエール・デュドネ氏、デイビッド・ケネディー氏、そしてマツダスピードやマツダにおいて、勝てるマシン、エンジンの開発に寝食を忘れて頑張ってくれた人たちなどの貢献も決して忘れることが出来ない。

大橋氏はまたRX-7で1980年にフランコルシャン24時間レースレース優勝を果たしたトム・ウォーキンショー氏と1981年マツダのル・マン挑戦で契約を結んだ。ウォーキンショー氏はその後ジャガーのル・マンチームを率いることになるが、マツダのル・マン参戦を陰になり日向になりサポートしてくれた。1991年ル・マンにおける最後の3時間のマツダとジャガーの闘いの後、マツダの優勝を我が事のように喜んでくれたのが印象的だった。こうした一連の人脈構築はメーカーのモータースポーツ関係者が一朝一夕に出来るものではなく、大橋氏が長年かけて築いてきた何物にも代えがたい財産だった。


今こそ原点に返った挑戦が必要

冒頭で引用した大橋氏の回想の中にある『日本のモータースポーツ界、そして自動車産業の将来展望、そして私たちが進むべき将来を考えること』や、『世界のモータースポーツを知り、世界と交流すること』は、今こそ改めて真剣に考えなくてはならない視点であり、さもないと日本の自動車産業、自動車文化が遠からず韓国や中国の後塵を拝することになることは間違いない。

昨年後半以来の経済低迷が、多くの日本自動車メーカーのモータースポーツ撤退を促進しているが、1970年半ばにも『多くの自動車メーカーは、モータースポーツから撤退すると発表した。しかし、私たちは、むしろこんな時代だからこそ強烈なインパクトが必要だと会社を説得し続けた。』そしてそんな時、『将来のために不可欠なのであればル・マンへの参加を考えても良いといってくれた』経営者がいた。今日ほど日本の自動車産業界全体に、一旦決めたら絶対に逃げ出さない熱い心と、夢の実現に向けての意思決定の出来る経営者が求められている時はないといっても過言ではない。そろばん勘定だけでは日本の自動車産業は絶対に生き残れないことは明白である。


大橋さん、本当に有難う

大橋氏は、優勝時に『苦しいときがあり、挫折感を幾度と味わいながらも、諦めることなく挑戦を続けてきたからこそ、この栄誉の感慨はひとしおである。そして苦悩の時代に私たちに勇気を与えてくれた人々、そして愚直なまでの私たちの継続参加を認め、支持を続けてくれた方々、熱烈なご声援を送り続けてくれたファンの皆様をはじめ、多くの人々の温かいご協力がなければ、この感慨を味わうことは出来なかったと思う。』と述べているが、彼に本当に感謝しなくてはならないのは我々だろう。

彼は、マツダスピード解散後もトヨタチームサードの監督として、あるいはトヨタモータースポーツのアドバイザー、JAFのモータースポーツ審議委員として活躍されてきたが、今後も天国から日本のモータースポーツを、クルマづくりを厳しく見守ってほしい。

本稿は以下の報告で結びたい。それは彼の葬儀の一週間後にセブリングで開催されたアメリカル・マンシリーズ第1戦に参加したマツダ車、ならびにこのレースの各種サポートレースに出場した70台を超えるマツダ車全てに「Takayoshi Ohashiの功績を偲ぶステッカー」が貼られたことだ。現在アメリカのユーザー参画型モータースポーツではマツダが断然他メーカーをリードしているが、その原点は大橋氏のル・マンへの挑戦に代表されるモータースポーツへの熱い思い入れにあることをアメリカのマツダファンは良く知っている。大橋孝至氏のご冥福を心からお祈りします。


ル・マンに挑戦したマツダ車群
1991年までにル・マンに参戦した全てのマツダ車。マツダスピードとしての参画は1974年から。当初は2ローターだったが、757からは3ローター、767からは4ローターロータリーエンジンが搭載された。


R26B型4ローターエンジン
1991年ル・マン用エンジン。エンジンの内部寸法は量産エンジンと同じだが、吸気はペリフェラル方式で、吸気管長が無段階に可変、点火系は3プラグ、アペックスシールはセラミック製、出力は700馬力。


優勝マシン787Bの透視図
ナイジェル・ストラウド氏に設計を委託したのは757からだ。その後767、767B、787と進化した。787からカーボンシャシーに変更、1991年のル・マンに投入したのが787Bだ。787Bからはカーボンブレーキを採用。


快調に周回を重ねる787B
19位と地味なポジションからのスタートだったが、1時間後には11位、4時間後には7位、8時間後には4位、12時間後には3位、14時間後に2位、20時間後にも2位と着実にポジションを上げた。


ピットストップも全て順調
24時間のレース中、55号車は一切のトラブルなしに走りぬき、日本車としての始めての栄誉を獲得した。ピットストップは燃料補給、タイヤ交換、ドライバー交代などのみ。2550Lの燃料規制も余裕をもってクリアー。


表彰台に立つ大橋氏
表彰台の大橋氏(サングラス姿)。向かってその左がジャッキー・イクス氏、小生、マツダスピード森丘社長。もう一人の優勝ドライバー、ジョニー・ハーバート氏は気の毒にもこの時は脱水症状で医務室にいた。


カップを手にする大橋氏
『苦しいときがあり、挫折感を幾度と味わいながらも、諦めることなく挑戦を続けてきたからこそ、この栄誉の感慨はひとしおである。』と述べているようにこの優勝は大橋氏にとってまさに格別な思いがあったに違いない。


アメリカで大橋氏の功績を偲ぶステッカー
大橋氏の葬儀の一週間後に開催されたアメリカル・マンシリーズ第1戦に参加したマツダ車、ならびにこのレースの各種サポートレースに参加した70台を超えるマツダ車全てに大橋氏の功績を偲ぶステッカーが貼られた。


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