論評12 マツダのルマン24時間レース優勝への
長き道のり(その1)



「ルマン」か「ル・マン」かに関して一言触れておこう。フランス語では、 "Du Mans"、英語では、"Le Mans"だが、日本語は、人により、出版社により異なる。二玄社、グランプリ出版、NHK出版などは「ルマン」のようだが、「ル・マン」としている出版社も多い。私もケースバイケースで余り気にせずに両方を使ってきたが、今回は「ルマン」としたい。理由は単純で、グランプリ出版から91年12月に出版された、「マツダチームルマン初優勝の記録」という大変よくまとめられた本が、三樹書房と提携関係にあるグランプリ出版から来春再版されることが計画されているからだ。



81年のスパ・フランコルシャン24時間レースで、RX-7で総合優勝を果たしのが、あの91年のルマンでジャガーを率い、マツダと覇を競ったトム・ウォーキンショー氏とベルギー人のジャーナリスト兼レーシングドライバーで、ポール・フレール氏の愛弟子、ピエール・デュドネ氏だった。(車評オンラインの論評11、「右脳にアピールするクルマづくりを」の最後の写真もご覧いただければ幸いだ。)以来、ピエール・デュドネ氏は、84年、さらに86年から91年まで毎年マツダでルマン24時間レースに挑戦、来年のマツダのルマン優勝20周年を記念して、マツダのルマン挑戦史を発刊すべくこのたび取材のため来日した。広島を中心に多くの当時の関係者とのインタビューが行われ、幸いにも大半に同席することが出来た。この本は来春に、英語、フランス語、そして日本語版での出版が予定されている。



日本のモータースポーツの夜明けは、本田宗一郎氏の「レースでの勝利とモータースポーツ普及のためには本格的なサーキットが必要」との確信に基づき、62年11月にオープンした鈴鹿サーキットに負うところが大きい。63年5月に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が鈴鹿サーキットで開催され、市販車を改造したクルマのレースが排気量ごとにクラス分けして行われた。3輪トラックメーカーから総合自動車メーカーへの脱皮をはかるべく、60年にR360クーペ、62年にキャロルを導入、三輪自動車時代からすでにローカルなレースに参画してきた東洋工業、中でも当時の社長松田恒次氏にとって、モータースポーツへの参画には大きな夢があったに違いない。



当初からマツダモータースポーツ活動のかなめの役割を果たしてきたのは、後にユーノスコスモ主査や、商品本部の統括をされた山本紘氏だが、以下はマツダモータースポーツの生みの親の一人ともいえる山本氏の証言だ。『小さい時からエンジンに親しんできたが、大学3年の時にマツダがNSU-WankelとREに関する提携をしたのを知った。卒業論文としてREの設計図を描き、REにあこがれて62年に入社、インタビューワーだった山本健一さんに設計入りを勧められたが、どうしても実験部門に入りたく、実験研究部に入り、まずはレシプロエンジンの実験から着手した。』



『63年の第1回日本グランプリレースにはR360クーペが個人参戦したが、64年からは、メーカー(当時は東洋工業)として、キャロル360、600で参戦することになり、エンジンのチューニングを担当した。しかし水冷4気筒OHVエンジンという軽自動車としては並外れたエンジンだったことにも起因してスバル360に比べて125?も重いキャロル360では歯が立たず、4位に終わった。65年の日本グランプリにはファミリア800で参戦すべく準備を進めたが、レースがキャンセルとなったため、マカオグランプリに出場するつもりで現地入りしたものの、残念ながら排気系のホモロゲーションが間に合わず、65年は結局出走出来なかった。そこで挑んだのが66年と67年、ファミリア800と1000クーペでシンガポールグランプリ、マカオグランプリに参戦、いずれもクラス優勝を飾ることが出来た。』



『67年の5月、待望のRE搭載1号車、コスモスポーツが発売されたが、公衆の面前で信頼耐久性を立証したいという山本健一さんの強い思いが、自分たちのところへ持ち込まれ、真っ先にルマン24時間レースを検討したが、カテゴリー上無理があり、68年のニュルブルクリンク84時間レースを選択した。コスモスポーツが、導入後1年で、直進性改善のためにホイールベースを150mm拡大したことなどは、今では考えられないことだが、レースへの貢献は非常に大きかった。ニュルブルクリンクコースをコンピューターに入力してシミュレーションを行うとともに、三次試験場で84時間テストも行った。68年8月に行われたレースは、ベルギーのリエージェから公道をニュルブルクリンクまで自走し、それからレースに臨んだが、REとしての初戦で総合4位に入賞することが出来、表彰式ではREによる初完走と初入賞が素晴らしい注目を浴びた。』



このニュルブルクリンク84時間レースに関連して、もう一人、マツダのモータースポーツといえば知らない人がない松浦國夫氏にも登場してもらおう。『64年に生産部門からRE研究部に移り、初めは基礎開発に従事したが、65年頃からモータースポーツ用エンジンの性能開発を開始、67年からは翌年のニュルブルクリンク84時間レースにむけてのレース用エンジンの開発を行った。レース監督からは10万キロ走れるエンジンにしろという指示が出されたが、三次での84時間シミュレーションテストで次々と壊れたので、フルに回せば180psは出るエンジンを128psにディチューンしてレースに臨むことになった。68年のニュルブルクリンク84時間レースには2台のコスモスポーツが出場し、日本人ドライバーの乗った18号車は81時間目にドライブシャフトが破損し、残念ながらリタイアとなったが、もう一台の19号車が総合4位でフィニッシュした。18号車のドライブシャフト破損の原因は、データーレコーダーに記録するためのストレインゲージをドライブシャフトに穴をあけて貼り付けたためという人災ともいえるものだった。』



ちなみにこのレースは1週28.29km、標高差350mのサーキットを3人のドライバーが4時間交代で84時間(三日半)走るため、自動車マラソンという別名で呼ばれた世界最長のレースであり、REの信頼耐久性を立証するにはまたとないレースだった。1968年の出走車はポルシェ、ランチア、BMW、プジョー、オペル、ルノー、フィアット、MGなど59台で、1位、2位はポルシェ、3位がランチャフルビア、4位がコスモスポーツ、5位がポルシェ、完走は26台だった。このニュルブルクリンク84時間レースには翌69年にもファミリアロータリークーペ3台が挑戦し、2台はリタイアを喫するものの1台が総合5位に入賞している。



その69年8月のニュルブルクリンク84時間レースのひと月前の7月、スパ・フランコルシャン24時間レースにも3台のファミリアロータリークーペが出走している。1台はクラッシュでリタイアしたものの、総合で5位と6位に入賞、1か月後のニュルブルクリンクの結果と合わせ、REの信頼耐久性は再び公の場で立証された。翌70年のスパ・フランコルシャン24時間レースには4台のファミリアロータリークーペが出場するが、山本氏はこのレースを以下の様に回想している。『70年のスパ・フランコルシャン24時間レースでは21時間目まで1、3、5位を維持したが、その直後にエンジン内部の固定ギアが破損し次々にエンジンブロー、最後の1台はフィニッシュラインの手前で55分間も止めさせ、24時間直前にフィニッシュラインを超えることにより、かろうじて5位をキープしたが、この最後の1台もすでに固定ギアにクラックが入っていた。原因はオーバーフェンダーに対する解釈にオフィシャルからクレームが付き、レース直前にフロントタイヤを幅の狭いものに変更せざるを得なかったため、コーナリングスピードが低下、それをカバーするために直線走行時のエンジン回転数を上げさせたのが原因だった。21時間目のポジションに勝利を確信した宣伝関係者が、勝利のPRのためのセスナ機も離陸させたあとだったのが、彼がセスナを降ろせと叫んだのが忘れられない。』

68年、69年のニュルブルクリンク84時間レース、69年、70年のスパ・フランコルシャン24時間レースの経験は、その後始まるルマンへの参戦や、初代RX-7によるデイトナ24時間レースでの79年、82〜93年の12年間連続GTUクラス優勝、82、83年のGTOクラス優勝、81年のスパ・フランコルシャン24時間レース総合優勝などの大きな礎となった。



71年以降、マツダのモータースポーツ活動は大きく国内にシフトする。そのあたりについて山本氏は、『71年はベルギーのボードワン国王杯をめざして準備を進めてきたが、「マツダはスカイラインが怖くて、欧州ばかりに行っている」というあらぬ噂もたっていたし、国内営業部門からの強い要望もあり、目標を変えて国内レースに挑戦することになった。』という。71年に前半はファミリアロータリークーペ、カペラロータリーで鈴鹿、富士のレースに挑戦、クラス優勝は果たすがスカイラインGT-Rとの一対一の勝負ではなく、12月の富士ツーリストトロフィーで10Aエンジン搭載のサバンナが初めてスカイラインGT-Rを下した。さらに翌年のはじめに公認を受けた12Aエンジン搭載のサバンナRX-3が躍進、ワークスチーム、マツダスピードチーム、その他のチームなど多くのチームが活躍し、76年には国内での100勝目を記録する。このころからマツダスピードによるREによるルマンへの挑戦が始まるとともに、78年に導入された初代RX-7がデイトナ24時間レースを皮切りにアメリカのレースで大活躍をはじめるのだが、このあたりは次回にご紹介してゆきたい。



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