第119回 EVとなって甦るかデロリアン

2022年8月10日

新デロリアン(Photo:DMC)

 2022年4月4日、米国のテキサス州サンアントニオにあるデロリアン・モーター・カンパニー(De Lorean Motor Company:DMC)は、新しいEV(電気自動車)の最初のプレビューと公開日を、8月18日(木)にペブルビーチ・コンクール・デレガンスの権威あるアワードランプで行う予定であると発表した。同時にモントレーカーウイークの期間中、デロリアンの過去、現在、未来をテーマにした車両展示を含めたイベントを展開することも発表された。

 そして、2022年5月30日、「デロリアン アルファ5(De Lorian Alpha5)」の名前で外観と内装の写真が公開された。デザインはデロリアンとイタルデザインで行われ、なめらかなライン、古典的なルーバー、そしてデロリアンの象徴的なガルウイングドアを明らかにしている。スペックの詳細は発表されていないが、推定仕様には、300マイル(483km)以上の航続距離、100kWh以上のバッテリー、0―60mph(97km/h)加速2.99秒、155mph(249km/h)の電子的に制限された最高速度が記されている。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの中で、ドク・ブラウンの計算に従ってタイムトラベルを達成するには0―88mph(142km/h)まで加速する必要があるが、アルファ5はわずか4.35秒で到達する。残念ながらアルファ5にはフラックスキャパシター(Flux Capacitor:時間移動するために使う次元転移装置)は付いていない。

暫定サイズは、ホイールベース2900mm、全長4995mm、全幅2044mm、全高1370mmの4シーターで、少し大きめだが、これは急速にEVの最低基準になりつつある、300マイル以上の航続距離を確保するために、大量のバッテリーをパッケージ化する必要があり、長いホイールベースが必要になったためという。

デロリアンを復活させる新DMCについて

1985年、英国リバプール生まれのスティーブン・ウィン(Stephen Wynne)は、デロリアンのオーナーとパートナーシップを組み、南カリフォルニアに「デロリアン・ワン(One)」の社名でデロリアン専用の部品通販とフルサービスを提供する会社を設立した。1995年、デロリアン・ワンのパートナーシップは、会社の方向性について見解の相違があったため、解消された。同時に「DMC」名の権利を取得し、社名を「デロリアン・モーター・カンパニー(DMC)」に改称した。1997年にウィンと彼の率いるDMCは、北アイルランドのデロリアン工場が1983年に清算された直後にオハイオ州コロンバスの会社が取得し、残っていたデロリアンの部品在庫と独占販売権、そして工具、設計図、会社の記録などを手に入れることができた。DMCは現在、カルマ・オートモーティブ(Karma Automotive)の元幹部であるヨースト・デ・ヴリース(Joost de Vries)がCEOとして率いている。

 以下に新デロリアンの画像(デジタルレンダリング)を紹介する。(Photos:DMC)

デロリアン アルファ5の価格、発売時期などは発表されていないが、最初の生産試作というべきモデルは88台予定されており、これは公道走行ができないトラック専用車となる見込み。そして公道走行可能な量産車の発売は2024年と言われている。

オリジナルデロリアン

 ジョン Z. デロリアン(John Z. De Lorean)が生まれたのは1925年1月6日。自動車ビジネスへのかかわりは、1952年にクライスラー。1953年にパッカード。1956年にGMポンティアック・ディビジョンのチーフエンジニア、ピート・エステス(Pete Estes)のアシスタントとして入社。1961年にポンティアック・ディビジョンのチーフエンジニアとなる。1969年にシボレー・ディビジョンのゼネラルマネージャーとなり、1972年にはGMのカー&トラック製造担当副社長に就任する。

 しかし、デロリアンは、1970年代に入ってからのGMの販売戦略を痛烈に批判し、リベートで車を売るという発想に対し「自動車は、ショールームに足を踏み入れた人の目を輝かせるものでなければならない。リベートは、顧客が興味のない当たり障りのない車を買わせるための手段に過ぎない。」と、異を唱えていた。このようなデロリアンが副社長に就くことはGMの幹部にとって耐えがたいことであったようだ。

 1973年4月2日、デロリアンはGMを退社することを発表。GMは退職祝いにフロリダ・キャデラックのフランチャイズを与え、デロリアンはリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson:第36代アメリカ合衆国大統領)とヘンリー・フォード2世が設立した、困っているアメリカ人の雇用を目的とする慈善団体「全米実業家連合(The National Alliance of Businessmen)」の会長に就任した。GMはこの団体への大きな貢献者であり、彼がNABの会長であり続ける間、彼の給与を継続することに同意している。デロリアンは1973~1974年にかけて会長を務めた。

 やがて、デロリアンは多くのアメリカ人が挑戦して失敗している、自身の名前を付けた理想のクルマ造りに挑戦する。生産拠点は英国政府から多くの支援が得られる北アイルランドに決定。

 1974年10月24日、DMC設立。1975年にイタルデザインとデザインについて契約。1976年に最初のプロトタイプ完成。1977年2番目のプロトタイプ完成。1978年9月、グループロータスと機構面の開発について契約。1981年1月21日、最初の生産車完成(価格は2万9825ドル)。1982年2月19日、DMCは1億7500万ドルの負債を抱え、ダンマリー工場は管財人の管理下に入る。1982年5月31日に工場閉鎖。1982年10月19日にデロリアンがコカイン密売の容疑で逮捕される(後に無罪)。1982年10月25日にDMC破産。1982年12月24日に最後の生産車が組み立てられた。

上の2点は、DMCから送られてきたプレスフォトの一部。生産台数は推定8987台。価格は2万9825ドル。

これは「United Mainliner」誌1981年2月号の表紙を飾った、自宅でくつろぐジョン&クリスティーナ・デロリアン。絶頂期と言いたいところではあるが、ジョンはすでに資金繰りに頭を悩ませていたのではないだろうか。彼はクルマが完成する前にお金と時間を使い果たしてしまった。そして彼の理想のクルマは、人々にとっては必ずしも理想のクルマではなかったようだ。

上の6点はデロリアンのカタログの一部。エンジンはプジョー・ルノー・ボルボの共同開発による、2.85L V6 OHC Bosch K-Jetronicメカニカルフュエルインジェクション130hp/5500rpm(SAEネット)、21.2kg-m/2750rpmで、駆動方式はRR。トランスアクスルは3速ATまたは5速MT。バックボーンフレームにフロントがダブルウイッシュボーン、リアはトレーリングアームでスプリングはコイル。ボディーはグラス・レインフォースド・プラスチックのアンダーボディーにブラッシュドステンレススチールのアウターパネルで構成される。サイズはホイールベース2408mm、全長4267mm、全幅1988mm、全高1140mm。0―60mph(97km/h)加速9.0秒、最高速度130mph(209km/h)。

デロリアンの生産拠点「De Lorean Motor Cars Limited」。北アイルランドのベルファースト郊外、ダンマリー(Dunmurry)に建設された。リリースには、広大な野原が2年半たらずの間に近代的な6万5000平方メートル(東京ドームの約1.4倍)の屋根付き工場を持つ自動車生産拠点となった。従業員約3000人。年間3万台の生産能力を持ち、1982年には2.5万台生産の予定で、輸出金額は約5億ドルを見込み、北アイルランドで最大の輸出企業になるだろうと記されていた。

これは「朝日新聞」1982年10月26日の夕刊記事で、「スポーツカーとともに転んだ英雄」「出世物語、麻薬で幕/夢を託した工場も閉鎖」のタイトルをつけて、デロリアン逮捕までのいきさつを紹介している。

「消えゆく品種デロリアン」「1983年型デロリアンの新車が、ステッカー価格から1万3000ドル引き!」のキャッチコピーで登場した広告は衝撃的だった。続くコピーは「オハイオ州コロンバスのコンソリデーテッド・インターナショナル社は、1983年型デロリアンの世界全在庫を取得し、ステッカー価格の1万3000ドル引きで提供しています!」。コンソリデーテッド・インターナショナル社は、どこかに至急売らなければならない在庫があったとき、まとめて買い取って売りさばいてくれることで知られている。

 1982年3月から4月にかけて、コンソリデーテッド・インターナショナル社は1391台のデロリアンを1台1万2500ドルで買い上げ、その後残りの在庫も買い上げて2万1007ドル(定価は3万4007ドルに値上げされていた)で販売された。契約ではデロリアンの業績が回復した場合には1台1万3500ドルで買い戻すことができた。もちろん、売れ残っていればの話だが。

「コレクターなら一台は持っていたいものです。」のキャッチコピーと「この素晴らしい車は、すでに生産中止となっており、今後価値が上がることが確実なクラシックカーとして評価されています。当社は、英国ロンドンのデロリアン・モーター社から1983年型デロリアンの世界全在庫を購入し、これまでに1200台以上を販売、残りは300台以下となっています。また、新品のデロリアンには5年/50,000マイルの保証が付いています。この素晴らしいステンレス車の定価は3万4007ドルです。当社の特別販売価格は2万995ドルです。」のコピーが続く。前の広告とは明らかに違うアプローチをしており、将来、希少車としての価値が上がると訴求している。

 ジョン・デロリアンは、2005年3月、脳卒中の合併症で亡くなっている。80歳であった。亡くなる前の数年間、デロリアンは自動車会社の復活を計画し、DMC2という新しい車について説明するインタビューにも答えていた。家族によると、彼は晩年、この新事業のために多くの時間を費やしたという。その資金を集めるために、彼は高級時計をデザインし、「デロリアン・タイム」という名でインターネットを通じて販売していた。

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