第114回 M項-5「マセラティ・4」市販スポーツカー

2022年12月27日

第114回 M項-5 「マセラティ・4」(伊) 市販スポーツカー

2007 Maserati Gran Turismo

   <「スーパーカー」と呼ばれた車たち>

1965年生まれの人は2022年の今年は57才になる筈だ。この人たちが小学生だった頃、日本では「スーパーカー・ブーム」という現象が起きていた。それは週刊少年ジャンプに1975年から連載が始まった漫画「サーキットの狼」に登場する高性能で格好良くて滅多に見られない「エキゾチック・カー」に憧れる小学生たちが、カメラを片手に街中で「外車」を追い回す姿だった。ストーリーに登場する本物の「フェラーリ365TG4/BB」「ランボルギーニ・カウンタック」「ランチャ・ストラトス」「マセラティ・ボーラ/メラク」「デトマソ・パンテーラ」などは、街中で出会う可能性はゼロに等しく、「ポルシェ」にしても「RS 2.7」や「930ターボ」は無理で、普通の「911」でも見つければ十分満足だった筈だ。だから、殆どがこれ以外の獲物(外車)を狙うしかなかったと思う。僕も珍しい車を探し回る行動を何十年も続けてきた経験から、そんなに簡単に獲物は見付からないことを身にしみて感じているからだ。

(01)3500 GT > (Tipo101) 1957~64

マセラティ兄弟が去った後を引き継いだ「アドルフォ・オルシ」は市販スポーツカー・メーカーへの転身を目論んでいたが、マセラティ社の体質は依然としてレーシング志向が残っており、就任後10年経っても「A6」シリーズの生産数は約200台に過ぎなかった。遂に1957年限りでワークスとしてのレースへの参戦を止め、スポーツカー・メーカーとして専念すべく登場させたのが「3500GT」(ティーポ101)だった。1957年3月のジュネーブ・ショーでマセラティのブースに2台のニューモデル「3500 GT」が展示された。そのうちの1台が「ツーリング」製で、これが標準ボディとして採用され量産された。エンジンは「350S」がベースで、水冷 直6 DOHC 3485.3cc 220hp/5500rpmとなっているが市販車向けにややデチューンしてある。市販にあたっては「ツーリング」のほか「アレマーノ」「フルア」「ギア」「ベルトーネ」「ヴィニアーレ」など各社がボディを競作したが、2227台中1978台はツーリング製だった。

(写真01-1abc)1963 Maserati 3500 GTI Touring Coupe  (1966-04 港区 青山通りにて)  

写真の車との遭遇は青山通りを自転車で渋谷方面に向かっている時だった。反対側の車線を走っているこの車を見付け、すかさずUターンして後を追った。自転車でスポーツカーを追った経験は何回もある。この当時の渋滞は写真でも見るように相当酷く、隙間をすり抜ける自転車は有利だったからだ。この車は1963年1月第4回外車ショーに出展されていた車そのもので、東京地方では1台しか存在しない貴重な車だった。ショーで提示されていた価格は810万円だったが、同じ会場のVWは95万円、ベンツ220Sでも295万円だった。

(写真1-2abc)1961 Maserati 3500 GT Touring Coupe  (1986-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド)

この希少な車に2度目に出会うまでには20年もかかった。神戸で開かれる「モンテ・ミリア」には関西地区に棲みついている、僕がお目にかかったことのない珍しい車が大挙して集まるイベントで、3年通った。車は「ツーリング」製なので、外見は東京で見たものと変わらない。

(写真01-3a~e)1962 Maserati 3500 GT Touring Coupe(2018-03 京都・二条城/コンコルソ・デレガンツァ)

以前「フェラーリ」の項で話題にした「375 アメリカ/バーグマン・クーペ」は、映画監督のロッセリーニが結婚記念にイングリット・バーグマンに送るため特注した「ワンオフ・モデル」だった。このマセラティも、大女優「エリザベス・テイラー」のために特注された一台だったようだが、フル・カスタムのスペシャルボディではなく、標準ボディにオリジナルにはない「シャンパンゴールド」のカラーを指定した物のようだ。

(写真01-4abc)1962 Maserati 3500 GTI Touring Coupe (2018-03 京都・二条城/コンコルソ・デレガンツァ)

この車は前項の車と全く同じでオリジナルカラーのシルバーに塗装されている。フロントフェンダーにはしっかりと「ツーリング」のバッジが付いている。トランクの右後には三叉のマークにかぶって「T(J)nierione」の文字が見えるが意味不明だ。

(写真01-5abc)1962 Maserati 3500 GT Furua 2+2 Coupe (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

同じ2+2でもキャビンの小さい「ツーリング」と較べると、こちらの「フルア」のほうが屋根が長く、後席の居住性は良さそうで2ドア・セダンに近い。楕円のヘッドライトが特徴の「フルア」製の生産台数はごく僅かといわれる。

(写真01-6abc)1961 Maserati 3500 GT Vignale Spider (1995-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)

ミケロッティがデザインした「ヴィニアーレ」のスパイダーは、ホイールベースが2600mmから2500mmに短縮され、よりスポーティさを強調している。

  (02)5000 GT (Tipo103) 1959~64

1957年「3500GT」でスポーツカーの量産メーカーに変身したマセラティは、2年後の1959年になって、そのシャシーに5 ℓエンジンを載せた「超弩級」のフラッグ・シップ「5000 GT」を発表した。そのエンジンは「450S」がベースで、水冷90°V8 DOHC ボアを93.8mmから98.5mmnに拡大して排気量は4937.8ccとなったが、出力は325hp/5500rpmと低く抑えられている。ボディは「3500 GT」と同じく多くのカロセリアが手掛け「アレマーノ」(24)、「ツーリング」(4)、「フルア」(2)、「モンテローザ」(2)、「ギア」(2)、「ミケロッティ」(1)、「ピニンファリナ」(1)で5年間に36台が造られた。「5000 GT」にオープンモデルは造られなかった。

(写真02-1abc)1962 Maserati 5000 GT Allemano Coupe (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)

「3500 GT」では約90%を「ツーリング」が量産したが、「5000 GT」では「アレマーノ」が3分の2に相当する24台を造っている。大きな楕円のヘッドライトを持ち、四角いグリルの中央には三叉のマセラティのマークがでんと構え高級車の貫禄十分だ。

(写真02-2abc)1964 Maserati 5000 GT Allemano Coupe (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

エンジンは大きくなったがホイールベースは「3500 GT」と変わらないから、サイドビューもほとんど同じだ。「アレマーノ」製はキャビンが小さく引き締まって見える。

(写真02-3ab)1962 Maserati 5000 GT Allemano Coupe (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

この豪華な車は日本にも存在していた。写真が「白黒」ということは相当古いということで、出会った時はこんな豪華な車が日本に? と信じられなかった。

(写真02-4abc)1960 Maserati 5000 GT Touring Coupe  (1999-08ペブルビーチ/カリフォルニア)

「5000 GT」の顔としては、僕はこの「ツーリング」製が一番好きだ。細かい網目を持ちながら堂々とした面構えは貫禄十分で、特にボンネット中央の楕円形の出っ張りは葉巻型フォミュラーカーの象徴としてマセラティに相応しい。僅か4台しか作られなかったのは残念だが、ツーリング社は「3500 GT」の量産が本命だったのだろう。

(写真02-5a~d)1960 Maserati 5000 GT Touring Coupe  (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)

正面から見れば全く変わりがない「ツーリング」製の2台だが、ドアから後はそれぞれ異なる。リア・ウインドの大きさ、形が違い、ウイングは同じモチーフだがデザインは正反対だ。テールランプ、バンパーも異なり、トランクの開口部も同じではない。

(写真02-6abc)1962 Maserati 5000 GT Fura Coupe      (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

「フルア」の場合「5000 GT」のデザインの基本は「3500 GT」とよく似ており、薄く、平べったくなった分むしろ「3500 GT」のほうが迫力があるように感じる。ウエスト・ラインが下がった分、窓が大きくなりクーペの軽快さが失われ、総合的に見てデザインは「ツーリング」や「アレマーノ」には及ばない。

(写真02-7abc)1960 Maserati 5000 GT Monterosa 2+2  (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

「モンテローザ」という、あまり聞きなれない「カロセリア」が造った車で、先入観を除いてもいまいち垢抜けない。フロント全体を縁取ったデザインはどこかで見たようで、何かにヒントを得た発想かもしれないが、風を受け止める空気抵抗の多そうなデザインは高性能車には不適切だ。

(写真02-8abc)1962 Maserati 5000 GT Micherotti Coupe    (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)

数々の優れたデザインを提供している「ミケロッティ」だが、僕はこのデザインには共感できない。この時代の「高級車」→「重厚感」という一般的な通念からは外れており、長いボンネットも間延びしているように感じられる。スポーティさを強調するならば突き出したボンネットの幅を狭く丸みを強調すれば、葉巻型フォミュラーカーのイメージが可能だ。空気抵抗の少ない低いボンネットは時代を先取りした実験モデルだったのかもしれない。

(写真02-9a)1962 Maserati 5000 GT Pininfarina(参考)

(写真20-9b)1959 Ferrari 400 Superamerica Pininfarina Coupe (参考)

「ピニンファリナ」がたった1台だけ造ったマセラティ「5000 GT」は、特別な注文主の為だった。その注文主というのは「フィアット」の社長「ジョバンニ・アニエッリ」で、彼はこれ以前1959年には「フェラーリ400 スーパーアメリカ」を使ってこれとそっくりのボディーを造らせている。オーダーの指示書には「最もフェラーリらしくないフェラーリを・・・」とあったとか。

 (03)セブリング (Tipo101/10) 1963~69

(写真03-1abc)1965 Maserati Sebring 3500 GTIS Vignale Coupe (2018-08 オートモビル・カウンシル/幕張)

「3500 GT」は1964年まで造られたが、その直系の後継車として1963年からは「セブリング」が登場した。「タイプ101/10、3500 GTIS」がその素性を示している。ホイールベースは「3500 GT」のスパイダーと同じ2500mmが採用され、エンジンも圧縮比が8.5から8.8に上がった以外は排気量、出力など変わっていない。1965年からは3694ccと4014ccが追加され、「3700/4000 GTIS」となった。

(04)ミストラル >(ドゥエ・ポスティ)(Tipo109) 1963~70

(写真(04-1ab) 1966 Maserati Mistral Fura Coupe (1988-11 モンテ・ミリア/神戸ポートアイランド)

1963年トリノ・ショーでデビューしたこの車の名前は「ドゥエ・ポスティ」(イタリア語で2座)だった。位置づけは「3500 GT」の直系後継車「セブリング」に対して、それよりホイールベースを100mm短い2400mmまで短縮し、弟分としてよりスポーティさを売りにした2シーターだ。「フルア」製のボディは低く長いノーズで速さを強調しており、開口部がバンパーより上にないボディはマセラティとしては初めて採用され、イメージをがらりと変えた。初期型のエンジンは3500 GTIと同じで、1966年からは「3700/4000」も登場している。海外では英語名「ミストラル」と呼ばれている。

(写真04-2abc) 1965 Maserati Dueposti Fura Spider (2009-03 東京コンクール・デレガンス/六本木ヒルズ)

(写真(04-3ab) 1967 Maserati Mistral Fura Spider (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)

クーペから4ヵ月遅れて1964年のジュネーブ・ショーで、ミストラルのスパイダー・バージョンがデビューした。スタイルはクーペと全く変わらず屋根を取り払っただけだが、クーペにあったフェンダーのアウトレットが無いところが相違点だ。-

 (05) クアトロポルテ (Tipo107) 1963~71

「セブリング」「ミストラル」は「3500 GT」の後継車だったが、同じトリノ・ショーでデビューした「クアトロポルテ」は「5000 GT」の流れを汲むが、新たに登場したタイプの堂々たるフラッグ・シップだ。名前の「クアトロポルテ」とはイタリア語で「4扉」という意味で、わざわざ「4扉」を車名にしたのには大きな意味がある。マセラティの長い歴史の中で、はじめて登場した「4ドア・セダン」であることを強調したモデルだからだ。それまでに造られた「スパイダー」「クーペ」は全て「2ドア」だったからで、実用性の高い「4ドア」はレース界から手を引いてロードカー・メーカーへと転身を図る「マセラティ」にとっては、どうしても必要なモデルだった。「4ドア・セダン」といえども長年レースで名を馳せた「マセラティ」の名に恥じないメカニズム/動力性能を備え、最高速度は230km/h以上といわれ当時最速の4ドア・セダンだった。

(参考05-00ab)1963 Maserati Quattroporte (角型2灯モデル)

(写真05-1abc)1966 Maserati 4000 Quattroporte  (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)

「クアトロポルテ」のボディは「フルア」が担当した。1963年デビューした当時の角型2灯ヘッドライトを持つ「初期型」は、「フルア」がデザインした「5000 GT」とそっくりだったが、1966年フェイスリフトされ丸型4灯に変わった。ホイールベースは2750mmで「5000 GT」より150mm長く、エンジンは90°V8 DOHCで、排気量は4135.8cc 260hp/5000rpmとやや小さくなり、このエンジンを搭載したタイプは、「マセラティ4000」とエンブレムが表示している。その後ボアを拡張し4719ccとなったモデルと併売された。 

(写真05-2a~d)1969 Maserati 4000 Quattroporte(1968-11 第10回東京オートショー/晴海貿易センター)

僕が最初に撮影した「クアトロポルテ」はこの車だ。1968年11月の第10回東京オートショーだった。第9回、第8回もさかのぼって調べたが見当たらないので、多分一般に披露された最初の機会だったと思われる。C/G85号(1969年1月)にはショーの特集があり、初お目見えの興味ある車をピックアップして解説しているが、不思議なことにこの車は紹介されていない。こんなに高い車だったから関心が無かった筈はないのだが・・・。価格は1,135万円で、フィアット500が56万円、ポルシェ911Tですら375万円で買えた時代の話だ。

・「クワトロポルテ」の記事に関しては1963年10月発売直後、現地からショーのレポートで紹介され、さらに64年12月号「マセラティ特集」ではイタリアでのロードテストが掲載されていたので、「今更」ということだったのかもしれない。(因みに国内にある「クアトロポルテ」に関しては1974年6月号で初めて登場している)

(写真05-3ab) 1969 Maserathi 4000 Quattroporte     (1987-01 TACSミーティング/明治公園)

東京近郊ではおそらく2~3台しか存在していなかったこの貴重な車を、路上で撮影したのがこの写真だ。もしかしたら前項のショーに展示された車かもしれないが確証はない。少数生産だから当然左ハンドルで日本向けの右ハンドルはない。ショーの展示車にはバックミラーが付いていなかったがこの車には当時の基準に従ってフェンダーに付けられている。撮影場所は「路上」と書いたが実はイベント会場のわきの路上で撮影したものだ。

 (06)メキシコ (Tipo112) 1966~73 生産台数482台

(参考06-0)1965 Maserati 5000 GT → 1967 Maserati Mexico

1965年10月のトリノ・ショーで「5000 GT」のニューモデルが登場した。ヴィニアーレのブースに展示されたこの車の中身は「5000 GT」そのものだが、外見は翌年デビューした「メキシコ」そのもので、そのプロトタイプといえるだろう。

(写真06-1ab)1966 Maserati Mexico 4.7 Vignale Coupe (1995-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)

「メキシコ」はウイキペディアによると「1966年(10月)のパリモーターショーにて生産モデルを披露」とあった。僕はカーグラフィックを創刊号(1962/04)から 331号(1988/10)まで全巻保存しており、古い事は同時進行の記事を参考にしているが、66年12号の「パリサロン」には取り上げられていなかった。1か月後の「トリノショー」にも記事は見当たらなかったが、このどちらかでデビューしたと思われる。「5000 GT」の後継車は「3500 GT」の時と同じように、直系の2+2「メキシコ」と、よりスポーティな2シーター「ギブリ」の2本立てだった。「メキシコ」は「5000 GT」の後継車だが、実際には「クワトロポルテ」がベースとなっている。ホイールベースは110mm縮めた2640mm(5000GTは2600mm)で、エンジンは「クワトロポルテ」が途中から採用した4719cc 290hp/5200rpmがそのまま転用され、ボディはミケロッティがデザインし「ヴィニアーレ」が製作した。(デビュー時から「4.2」と「4.7」があったとの説もあるが、1969年から「4.2」が加わったとの説が有力だ。)

(写真06-2abc)1968 Maserati Mexico 4.7 Vignale Coupe (1978-01 第4回TACSミーティング/東京プリンスホテル)

(写真06b-2a))1969 Maserati Mexico  (1969-11 ’70 東京オートショー)

2+2といってもノッチバックの箱型は堂々たる存在感がある。四ツ目のヘッドライトとグリルが同一面になってデザインが一歩前進した。プログラムには1969年マセラティAM112 (4710cc)とあった。

・僕は国内で「メキシコ」を4回撮影している。最初は1969年11月の「’70 東京オートショー」で、この年のヨーロッパ車は半年または1年遅れの新車が展示されていたというから、この車は1968年輸入されていた車の可能性が高い。ということは色は違うが、もしかしたらその車と同じ可能性もある。(新東洋企業から正規輸入されたのはこの1台だけだが、ほかにも2~3台が国内に存在したらしい)

(写真06-3ab)1968 Masrati Mexico 4.2 Vignale Coupe  (2017-07 ブレシア見学会/宇都宮)

時々仲間内のグループで「クルマの見学会」が行われるが、この時は「ブレシア」(宇都宮)と「ブガティク」(今市)を訪ねた。その時偶々捉えたのがこの写真だ。この時は何気なくリアサスペンション周りが見えるのが参考になるかな程度に撮影しただけだったが・・・。

(写真06-4a~d)1968 Maserati Mexico 4.2 Vignale Coupe (2018-04 ジャパンク・ラシック・オートモビル/日本橋)

この車には経歴が展示されていた。それによると、日本に輸入されたのは1973年とあったので最初に撮影した車ではない。読み進むと2017年「ブレシアにて整備」とあった。ということはまさしくあの修理中だった車のお化粧直しした晴れ姿だったのだ。

・1969年からは弟分として「4.2 ℓ」が誕生したが、これも「クワトロポルテ」からの転用だった。というのが定説として知られているが、この車の製造年月日はメーカーの公式記録で1968年2月13日となっており矛盾する。どちらが正しいのかは確認できなかった。

 (07)ギブリ (Tipo115) 1966~73

「ギブリ」は「5000 GT」の後継として1969年11月の「トリノ・ショー」でデビューした。「メキシコ」の2+2に対して、2シーターでスポーティさをセールスポイントにし、最速の市販車をめざして「フェラーリ75GTB」や「ランボルギーニ・ミウラ」をライバルとした車だ。スーパー・スポーツとしては見た目も大事だが、それをデザインしたのは当時ギアのチーフ・デザイナーだった「ジョルジェット・ジゥジアーロ」で、ホイールベースは2550mmとなり、高さも1160mmと極端に低いファストバックからいかにも早そうな印象を受ける。エンジンは「メキシコ」と同じV8 4709cc だが、強化モデル「ギブリSS」では4930.6ccとなり335hp/5500rpmで最高速度についてはいろいろなデータがあるが一番早いのが265km/hだった。

(写07-01a~d)1971 Maserati Ghibli SS Coupe by Ghia     (1985-01 TACSミーティング/明治公園)

僕が最初に撮影した「ギブリ」がこの車だ。路上に停まっているが、この場所はクラシックカーのミーティングが行われている明治公園の脇道で、街角で偶然見つけたものとは言えない。しかし、こんなスーパーカーに街中で出会う機会など滅多にないからラッキーだった。その後「ギブリ」にはいろいろなイベントで、11回も出会っている。どの角度から見ても美しいフォルムだ。

(写真07-2abc)1971 Maserati Ghibli SS Coupe by Ghia (1989-10 モンテ・ミリア/神戸ポートアイランド)

神戸のポートアイランド市民広場で開かれるこのイベントは、ミッレ・ミリアを模したイタリア車を中心としたミーティングで会場が真っ赤に埋め尽くされる。東京を中心に活動している僕にとっては見たこともない関西在住の珍しい車に出会える有難い機会だった。

(写真07-3ab)1971 Maserati Ghibli SS Spyder by Ghia (1989-10 モンテ・ミリア/神戸ポートアイランド)

1969年オープンモデルの「スパイダー」が登場する。そして翌70年には発売当時の4709ccだったエンジンのストロークを85mmから89mmに伸ばし4930.6ccとした高性能版「ギブリSS」が誕生した。

・モンテミリアでは同じ会場に「クーペ」と「スパイダー」が2台並んだかなり珍しい写真を撮影した。幌をあげてもスタイルに破綻はない。

(参考07-4ab)1970 Maserati Gibli (4.7ℓ) Spyder by Ghia (2019-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)

「ギブリ」には ① 4.7ℓ「ギブリ」,② 4.9ℓ「ギブリSS」があり、それぞれに「クーペと「スパイダー」がある。識別はトランク後ろの右側の「Ghibli」の文字の後に「SS」が有る無しで見分ける。

 (08)インディ (Tipo116) 1969~74

(参考    08-0ab) 1968 Vignale/Maserati Mexico 4200  (1968-10 トリノ・ショー)

「Tipo116」の開発ナンバーを持つ「インディ」は1968年のトリノ・ショーでデビューした。と言われているが結果的にそうなったので、68年のトリノ・ショーでこの車は「ヴィニアーレ」のスタンドに展示され、メキシコの次期モデル扱いだった。従来型のメキシコと並んだこの車は「ヴィニアーレ/マセラティ・メキシコ4200」とされていた。データによるとホイールベースの2640mmは「メキシコ」と同じで「インディ」とは違うので、中身も「メキシコ」だろう。結果的にはこのボディは翌年のニューモデル「インディ」が頂く事になり、「メキシコ」は1973年までモデルチェンジは無かった。

・と部外者の僕が推測で書いたが、もう一つもっと現実的な筋書きを考えれば、次期「インディ」となるモデルのボディは既に「ヴィニアーレ」に決まっていて、ショーのために既存の2+2シャシー(メキシコ)を便宜上使っただけかもしれない。ショーの時点では「インディ」という名前はまだ決まっていなかったのだろう。

・「マセラティ」は1965年頃より自社のエンジンに関心を持つ「シトロエン」と接近していたが、1968年株式の60%を譲渡し「シトロエン」の傘下に入っている。

(写真08-1abc)1971 Maserati Indy Vignale 2+2 Coupe (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)

「インディ」は2+2のスペックから見て「メキシコ」の後継車としての位置づけだが、実際には「ギブリ」の2+2バージョンと言えなくもない。ただしエンジンは「メキシコ」の4.2ℓ と同じものが使用された。ホイールベースは「ギブリ」を50mm延ばしただけの2600mmで、2+2の室内スペースを確保できたのはエンジンを車軸の真上まで大きく前進させたお陰だ。足回りも含め殆どのメカニズムは「ギブリ」を踏襲しているが、タイヤはやや小径となっている。「ギブリ」の流れを汲む頭の低いボディは「ジョバンニ・ミケロッティ」のデザインで「ヴィニアーレ」が製造した。

(写真08-2a~d)1969 Maserati Indy Vignale 2+2 Coupe (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

「インディ」はノッチバックの箱型をした「メキシコ」に比べると、流れるようなファストバックの2シーター「ギブリ」の流れを受け継いでいる。2+2のシートを確保しつつもよりスポーティさを求める客層を狙ったもので、それが証拠により乗用車的なスタイルを好む顧客の為には「メキシコ」も1973年まで併売している。

  (08b)シムン 1968

(写真08b-1a)1968 Ghia/Maserati Prototype Simun by Giugiaro (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)

殆ど知られていないこの車は「インディ」に成り損なった車だ。1968年の「トリノ・ショー」で「ギア」のスタンドに展示された車で、ベースとなったシャシーは「メキシコ」が使われている。仕様は2ドアの2+2クーペだから「メキシコ」の後継車を狙って造られたプロトタイプだった。しかし同じショーに展示されていた「ヴィニアーレ」の「マセラティ/メキシコ4200」のほうに軍配が上がり、そちらが後継車「インディ」となって市販された。

 (09)<ボーラ> (Tipo117) 1971~79、

(写真09-1a~d)1975 Maserati Bora Coupe by Giugiaro(2010-07第4回 東京コンクールデレガンス/お台場)

「ボーラ」は「マセラティ」の市販車としては初の「ミッドシップ」方式を採用した車だ。車格としては「5000GT」の流れを汲む2シーター「ギブリ」の派生モデルといえる。レース界では重量物のエンジンを中心近くに置くことで慣性モーメントが減り、操縦性に好い結果をもたらすことから、1958年「クーパーT43」がアルゼンチンGPで優勝して以来、59~60年にかけて急速に普及し殆どが採用していた。しかしロード・ゴーイングカーでは、居住スペースの確保という問題もあり「フェラーリ」と共に「マセラティ」は最後までフロントエンジン/リアドライブにこだわった。しかし同じスーパーカーのライバルはいち早くミッドシップのスポーツカー「ランボルギーニ・ミウラ(1966)」や「デ・トマソ・マングスタ(1966)」を発売していた。「マセラティ」としても時流に乗り遅れてはならじと、1971年のジュネーブ・ショーで発表したミッドシップ・スポーツカーが「ボーラ」(Typo117)だった。V8 DOHCのエンジンは既存のものでコクピットの後ろに縦置きされている。排気量の4709ccはデビュー時の「ギブリ」と同じで、1976年には「ギブリS」と同じ4930.6ccに強化されている。ボディに関しては「カロセリア・ギア」を退職し「イタル・デザイン」を立ち上げたばかりの「ジョルジュエット・ジウジアーロ」が担当した。「 ギア」時代に「ギブリ」のデザインを担当したのも「ジウジアーロ」だったから、どこか似た雰囲気を感じる。

 (10)<ブーメラン>(試作実験車)1972

(写真10-1ab)1972 Maserati Boomerang by Giugiaro       (2002-02 レトロモビル/パリ)

「ジウジアーロ」がデザインしたこの車は「ボーラ」のシャシーとエンジンを用いた、デザインのための習作(試作験実験車)で、市販を前提にしない思い切ったデザインを可能としている。鋭い鋭角がメインテーマとなっている。

 (11)メラク/メラクSS (Tipo122/122 SS) 1972~77/1975~82

「メラク」はマセラティ2番目のミッドシップで「ボーラ」の弟分として1972年パリ・サロンに登場した。エンジンはV6 DOHC 2965.4cc をコクピットの後方に縦置きで搭載された。「ボーラ」の2シーターに対して「メラク」は狭いながらも2+2仕様で、そのためホイールベースは「インディ」「ボーラ」と同じ2600mmあった。V6が採用されたのはエンジンをコンパクトにして+2シート分を稼ぎ出すためだが、元々このエンジンは「シトロエンSM」の為のもので、初期設計時に予定されていた4気筒分のスペースに収まるよう開発された小型エンジンだ。(シトロエンは税制の関係から2670cc)3リッターを切る排気量は、スポーツカーのメーカーとなった1957年の「3500GT」以来初めて登場した最小モデルだ。1975年強化モデル「メラクSS」が造られ馬力は190hpから220hpとなったが、その際も排気量は変わらず圧縮比を上げ、効率の良いキャブレター を採用して対応している。スタイルは「ボーラ」と同じく「ジウジアーロ」が担当したが、ボンネットからフロント・ウインドにかけてはそっくり同じだ。ただ後ろ半分は「ボーラ」のファストバックに対して、「メラク」は実質ノッチバックだが、ルーフ後端からリアにかけて左右に1本ずつバーが渡され一見ファストバック風に見せ軽快さを演出している。

(写真11-1ab)1975 Maserati Merak SS (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)

カリフォルニアで撮影したアメリカ仕様のこの車には、分不相応な「ごつい」バンパーガードがつけられている。アメリカの保安基準に合わせるため多くのヨーロッパ車は完成した美しさを壊されていた時代だ。

(写真11-2a~e)1975 Maserati Meraku SS (2018-11 トヨタ・クラシックカーフェスタ/神宮絵画館前)

前項と同じ年式で、同じ左ハンドルのこの車はヨーロッパ仕様のオリジナルで、すっきりしたスタイルだ。注目のエンジンルームにはV6が縦置きに配置されているが、その後ろに補器類が多くの場所を占めており、トランク・スペースはない。

 (12)カムジン (Tipo120) 1973~83

「カムジン」の開発ナンバーはTypo120だが、デビューしたのはTypo122の「メラク」より6か月遅い1973年のジュネーブ・ショーだった。「ボーラ」「メラク」とミッドシップを採用したマセラティだったが、「5000 GT」「ギブリ/メキシコ」と続くトップ・モデルの後継車として登場した「カムジン」は、伝統を継いだフロントエンジン/リアドライブだった。(性能は「ギブリ」、居住性は「メキシコ」)しかしブレーキ、ステアリングに関しては基本的に「シトロエンSM」と同じパワーアシスト方式を採用している。ホイールベース2550mm、エンジンは「ギブリSS」と変わらないがV8 DOHC 4930.6cc 320hp/5500rpmと出力は低く抑えられている。内装が豪華になった分重量が増えたにもかかわらず最高速度が275km/hとなっているのはサスペンションの変更による結果だろうか。ライバルは「フェラーリ・デイトナ」辺りだろう。ボディは「ベルトーネ」が担当している。

(写真12-1ab)1977 Maserati Khamsin 2+2     (1977-01 東京外車ショー/晴海貿易センター)

日本に初めて輸入されたのは1974年のようだが、僕が初めて目にしたのは1977年1月の「外車ショー」だった。この当時フィルムの感度は「ASA(ISO)100、200」が常用で、現代のデジタル・カメラのように感度が5,000、10,000当たり前という時代ではなかった。レンズ開放 (f 1.8)で 1/25秒(手持ち限度)では露光不足で、三脚を持ち込んで、スローシャターを切ったこともあったが、機動性に欠け、周りにも迷惑をかけるので一度で止めた。以後ストロボに頼ることになる。当時は「KAKO」というメーカーがほぼ独占していた。形態としては4種類あり①グリップの上に発光部がありカメラの左に設置するので左上から投光し影が大きく出る(光量大)、②カメラのアクセサリークリップに装着するのでレンズとのずれが少なく影が気にならない(光量中)。③「リングライト」レンズの先端に装着、発光部がリング状で影が全く出ないので接写等に適す(光量小)。④「カメラ内蔵型」便利さは1番。よりレンズに近いのでずれは少ないが光量は少ない。ストロボの場合近くは露出オーバーで、遠くは露出不足(光の減衰は距離の2乗に反比例する/距離が2倍になれば光量は1/4になる)という欠点を持っている。後年はこの欠点を補うため、車を斜め位置で撮影する場合は光軸の中心を車体の中央部分にずらして対応した。

(写真12-2a~d)1975 Maserati Khamsin 2+2   (2019-04 ジャパンクラシックオートモビル/日本橋)

「カムジン」は2+2だから機能的には「メキシコ」の後継車だが、ホイールベースはそれよりも90ミリ短い2550ミリで2シーターの「ギブリ」と同じだ。ファストバックの外見もそっくりだが、デザイナーは別人だ。誕生から50年近くたっているが新車当時と変わらない素晴らしいコンディションだ。

(13a)<幻のクアトロポルテⅡ> (Typo121)  1971

(写真13-1ab)1971 Maserati Quattroporte Prototype by Frua (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)

この車に関しては詳しいことは判らないが、初代の「クアトロポルテ」は「フルア」のデザインだったこと、その生産がそろそろ終了する時期から見て、次期「クアトロポルテ」を想定して造られたものだろう。しかし「マセラティ」が「4扉セダン」の製造そのものを中止してしまったので生産車として日の目を見ることはなかった。

(13b) <クアトロポルテ Ⅱ> (Typo123) 1974~

(写真13-2a~e)1974 Maserati QuattroporteⅡ4seater (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

クアトロポルテⅡ」が誕生した1974年当時「マセラティ」では4種類の車を販売していた。

・「ボーラ  (M/R)2シーター V8 4930cc

・「メラク」 (M/R)2+2     V6 2965cc

・「インディ」(F/R)2+2     V8 4930cc

・「カムジン」(F/R)2+2     V8 4930cc2シーター

「ギブリ」の後継車「カムジン」が2+2となって純2シーターはミッドエンジンの「ボーラ」だけになり、残りは全部2+2となったがその中でも「インディ」だけが1976年まで長命だった。その理由は、同じ2+2 でもインディだけは4シーターに近いスペースを持っており、1972年姿を消した初代の「クアトロポルテ」の代役を務めてきたためだろう。2年のブランクを埋めて登場したのが「クアトロポルテⅡ」だ。2シーターに乗っていた若者が結婚して子供が出来て2+2のオーナーとなったが、子供は大きくなり、本人の社会的地位も上がり落ち着いた車の似合う年頃になって「4ドア・セダン」の需要が増えた、と考えるのは単純すぎるだろうか。いずれにしても、「マセラティ」は再び「4ドア・4シーター」の生産を企画した。この車は高級ラグジュアリーという位置づけで、ホイールベースは初代の2750mmより320mmも長い3070mmと過去最長となった。重量は1600kgまで増加したが、エンジンは意外なことにV8ではなく小さい方のV6 2965cc が採用された事から、この車に期待される比較的おとなしい性格が推測できる。エンジンルームの後方一杯におかれたエンジンは前方に5段ギアボックスを置き前輪を駆動する「F/F」を採用している。「マセラティ」にとっては初めての試みだが、実はこの車のメカニズムは、「シトロエンSM」がそっくり転用されていたのだ。市販化が検討されていたのに実現できなかったのは親会社に原因がある。経営悪化した「シトロエン」は「プジョー」に身売りし、「プジョー」は「マセラティ」を必要としなかったから、シトロエンとの契約は解消されてしまい「クアトロポルテⅡ」の生産は不可能となってしまった。6灯ヘッドライトの顔はカバーを付ければ「SM」とそっくりだ。ボディは「ベルトーネ」が担当し全体で13台造られている。

 (14)<キャラミ> 1976

(参考14-1ac)1976 Maserati Kyalami

(参考14-1b) 1971 De Tomaso Longchamp Coupe

絶体絶命に陥った「マセラティ」を救ったのは同じイタリアの「デ・トマソ」だった。1975年8月正式に契約を交わし「マセラティ」は「デ・トマソ」の傘下に入った。新体制になって初めての車が「キャラミ」で、1年足らずの1976年4月のジュネーブ・ショーに「メキシコ」の後継車として登場した。その秘密は、「キャラミ」のベースとなった車で、「デ・トマソ」にはうまい具合に「メキシコ」や「インディ」と同等のクラスで2+2の「ロンシャン」があった。これを使って、「フルア」の手で、フロント、リア周りをマセラティらしく化粧直ししたが、それ以外のボディ、シャシーは「ロンシャン」と共通だった。ただエンジンは「デ・トマソ」伝統のフォードV8ではなく、「インディ」とおなじ「マセラティ」のV8 4135.8cc 255hpに変えられている。

 (15)<クアトロポルテⅢ/ロイアル> 1976~86/86~90

(参考15-1a)1976 Maserati QuattroporteⅢ  (1976-11 トリノ・ショー)

「マセラティ」が「デ・トマソ」の傘下に入ってすぐ、いち早く「キャラミ」を発表し市販を開始したが、それに続いて秋の「トリノ・ショー」では「クアトロポルテⅢ」を発表した。「マセラティ」としては4ドアでゆったりと乗れる豪華大型車を必要としていたのに、発売寸前にあった「クアトロポルテⅡ」が「シトロエンSM」をベースとしていた為、シトロエンとの契約解消によって実現不能となってしまったからだ。今回は「デ・トマソ」が持つ4ドア・セダン「ドービル」のシャシーを流用し、ボディは「ジウジアーロ」が新しく作った。これは、ジウジアーロのコンセプトカー「メディチⅡ」のアイデアを大きく取り入れたものといわれる。エンジンは「キャラミ」と同じマセラティ製のV8 4930.6ccが搭載され、ホイールベースこそ異なるが足回りとエンジンは「キャラミ」と共通である。四角い四つ目のヘッドライトを持つグリル周りのデザインは、この後登場する「ビトゥルボ」シリーズに引き継がれた。

(15‐b)< メディチⅡ > 1976

(参考15b-1ab) 1976 Maserati Medici Ⅱ4dr Sedan

「クアトロポルテⅢ」の原型といわれる車。ジウジアーロによるコンセプトカーで、後席は対面シートとなっている。

 (16)<ビトゥルボ> 1981~

「デ・トマソ」の現行モデルを衣替えした「キャラミ」「クアトロポルテⅢ」で当座をしのいでいた「マセラティ」だったが、創立記念日にあたる1981年12月14日、報道関係者を招き新型車を発表した。それは「2ℓ エンジンの中型2ドア・クーペ」と、誰もが予想しないものだった。「ビトゥルボ」と名付けられたこの車は、名前の通りターボチャージャーを2基備えており、すべてが従来の「マセラティ」「デ・トマソ」の影響を受けない全く新しい構想の下に造られた車だ。新しく経営者となった「アレッサンドロ・デ・トマソ」は自身のこれまでの経験上、経営を安定させるためには特殊な顧客を対象とするスポーツ志向の車ではなく、量販が可能なオーソドックスな一般向けのモデルが必要と考えていた。「キャラミ」と較べると全長は短くなったが、オーバーハングが短縮されたためで、逆に室内は4/5シートが確保されている。内装は最上級の「クアトロポルテ」並みの材質が使われ、「エアコン」「パワーアシスト」などもフル装備された。エンジンは新設計のSOHC V6 1996.2cc 180hp/6000rpm Twin Turboが用いられたのは、2ℓを境に変わるイタリア税制の為で、より購入し易くするための方策だ。(ターボがあっても税制には関係なかった)「ビトゥルボ」の出現は一般ユーザーに好評で、1982年総売り上げの83%に相当する1888台、翌83年には5000台以上 が売れた、という事は見事に読みが当たった訳だ。このあと「マセラティ」の中心となる「ビトゥルボ」には、次々とニューモデルが登場し紛らわしいが、大別すれば ①2ドア・クーペ(2 ℓ/2.5 ℓ)、②4ドア・セダン「425」(2.5 ℓ)、③スパイダー(2.5 ℓ) の3種である。

(写真16-1abc)1983 Maserati Biturbo 2.5 ℓ Coupe (2.5 ℓ)   (1985-11 SCCJ30周年/筑波サーキット)

この車は筑波サーキットで撮影したものだがイベント参加車ではなかったので、プログラムから素性の確認はできなかった。2ℓ モデルはイタリア国内向けという事なので輸出されたこの車は2.5 ℓと推定したが、「3ナンバー」なので2 ℓ 以上と確信した。顔付きだけは「クアトロポルテⅢ」をそっくり引き継いでいる。

(写真16-2ab)1988 Maserati Biturbo 425i 4dr Berlina (1988-11 4thモンテミリア/神戸ポートアイランド)

2ドアながら4/5シーターの売れ行きが好調だったのを見て、このクラスにも4ドアがあればもっと売れると考えたのだろう。1984年誕生した「ビトゥルボ」シリーズの「4ドア・バージョン」が「425」だ。勿論4ドア、2.5リッターを示しているが、もはや「4ドア」は車名にするほど特別な存在では無くなっていた。1986年には「ビトゥルボ」シリーズすべてのパワーユニットに電子制御燃料噴射装置が導入され、後部トランクの「425」のバッジにインジェクションの「i」が追加された。因みに「425」の後継車は1987年に登場した3ℓエンンを持つ「430」だが、この車からは「228」同様、数字だけの車名で、「ビトゥルボ」は付いていない。

 (16b)< 228 > 1984~

(参考 16-3ab)1986 Maserati 228

1984年発表されたこの車の名前は「228」で、「425」の時と同じように2ドア、2.8リッターを示している。ホイールベースは「425」と同じだが、ボディは一回り大きく、ツインターボでありながら「ビトゥルボ」シリーズには属さず独立した「228」シリーズだ。新しいエンジンは、水冷 V6 SOHC 3バルブ ツインターボ付き94×67 2790cc 255hp/6000rpmとなっている。

 (17)カリフ 1988~

(写真17-1ab)1991-Maserati Kalif       (2017-10 日本自動車博物館/小松市)

(参考17-2a) 1988 Maserati Karif

1975年「デ・トマソ」傘下となり、「キャラミ」(2ドア・2+2)、「クアトロポルテⅢ」(4ドア・4シーター)の新型車の販売を始めると、効率化のため徐々に車種の縮小が始まった。唯一の2シーター「ボーラ」は1979年で生産が中止されていたから「カリフ」は実に9年ぶりの「2シーター・スポーツ」だ。ホイールベース2400mmの「ビトゥルボ」系の「スパイダー」がベースとなったが、エンジンは「228」と同じ2790ccと一回り大きくなっており、トランスミッションはオートマから5段マニュアルに替えられ、スポーツカーとしての運転が楽しめる。全体の印象は角ばっており旧作「ビトゥルボ スパイダー」に屋根を付けた感じだ。

 (18)<シャマル> 1989~

(写真18-1a~e)1991 Maserati Shamal  (2017-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)

1981年12月14日の創立記念日に「ビトゥルボ」を発表したマセラティ社は、1989年も同じ日に新型車「シャマル」をデビューさせた。「カリフ」の高性能モデルという位置づけだった。エンジンは久々に登場した90°V8で、DOHC 4バルブ ツイン・タ-ボ 3216cc 325hp/6000rpm 6段マニュアル・トランスミッション付きで、最高時速は260km/hと公表された。ホイールベースは2400mmと変わらないが、ボディは性能に相応しい新しいものが「カウンタック」や「ランチャ・ストラトス」で知られる「マルチェロ・ガンディーニ」の手によってデザインされた。全体に丸みがあり、大きく膨らんだ前後のブリスター・フェンダーは凄みを増す。リアがハイ・デッキとなった分「くさび型」が強調され、視覚的にはノーズが低く感じる。よく見ないと気付かないが、ウインド・スクリーンの前にスポイラーが装着されているのも珍しい。

   マセラティ経営母体の変遷

100年を超えるマセラティの財政は常に豊かではなかった。スポーツカー・メーカーが次々と姿を消していった中で何とか生き残って来れたのは、優れた性能と伝統のネームバリューへの愛着だろう。その苦闘の歴史を最後に振り返ってみよう。

1914年 マセラティ社設立。

  1938年 アドルフ・オルシに買収される。(1947年、創立者マセラティ兄弟退職) 

  1968年 シトロエンの傘下に入る。

  1976年 デ・トマソに救済され傘下に入る。

  1993年 フィアット・グループの一員となる。

  1997年 フェラーリの子会社となる。

  2005年 アルファロメオと統合。

・最後に街中で捉えた2000年以降の車3台を「オマケ」に添付しました。

 (19)3200GT  1998~2001

(写真19-1abc)1998 Maserati 3200GT   (2010-07 ポーツマス市内/イギリス)

宿泊したイギリスのホテルの駐車場で見つけたもの。1997年フェラーリの傘下となって最初に登場した車で、丸みを帯びたスポーツ・クーペは「ジウジアーロ」が手掛けたものだ。テールランプに特徴があり、その形から「ブーメラン」と呼ばれたが、当時としては斬新で一部には抵抗もあったようだ。エンジンは「シャマル」と同じ90°V8 DOHC 32バルブ3216cc ツインターボ370hp/6250rpmが搭載されている。

 (20)<クアトロポルテ・5代目> 2004~12

(写真20-1abc)2006 Maserati QuattroporteⅤ Sport GT DuoSelect (2006-06 銀座みゆき通り/松坂屋横)

先代が2001年で生産を終了していたから、3年ぶりに「クアトロポルテ」が復活した。当時は「フェラーリ」の傘下にあったため各所にその影響が見られ、4ドアのフェラーリと呼ばれたりした。ボディは50年ぶりに「ピニンファリナ」が手掛けたが、デザイナーは奥山清行氏だった。最高速度275km/h、エンジンはV8 DOHC 32バルブ4244cc 400hp/7000rpmで「フェラーリF430」と同系のものが搭載されていた。

 (21)<グラン・ツリズモ> 2007~19

(写真21-1a~d)2007 Maserati Gran Turismo            (2013-03 銀座・交詢社通り)

2007年ジュネーブ・ショーでデビューした「グラン・ツリズモ」は、2ドア・クーペだがベースとなったコンポーネンツは「5代目クアトロポルテ」だ。4シーターのボディは「ピニンファリナ」のデザインで、2005年発表したコンセプトカー「バードケージ75th」にヒントを得ている。

   ―― 次回はマクラーレン、メッサーシュミット、ミカサ、他の予定です ――

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