第120回 初代トヨペット・クラウン

2022年8月27日

 2022年7月15日、16代目となるクラウンが発表された。クラウンは1955年1月に初代が発売されて以来、常に「革新と挑戦」というスピリットで進化を続け、「いつかはクラウン」のカタログコピーとともに登場した7代目によって、クラウンは日本のステータスシンボルとなり、8代目では歴代最高の販売台数(1990年に約24万台)を記録した。しかし、1989年にトヨタは、レクサスの最上級車「LS」を「セルシオ」として日本に導入したことにより、「いつかはクラウン」の立ち位置が変わってしまった。その後、クラウンの販売台数は右肩下がりに減少し、2021年には約2.2万台にまで減少して最盛期の10分の1となってしまった。

 そして、迎えた16代目。日本の歴史に重ね合わせれば、徳川幕府の江戸時代も15代で幕を閉じている。しかし、豊田喜一郎の発案で生まれたクラウンの名前を葬ることは考えられず、「何としても、クラウンの新しい時代をつくらなければいけない」という豊田章男社長の決意と覚悟のもと、クラウンの起死回生を図るべく、「明治維新」にたとえられて登場したのが16代目クラウンであった。従来のキープコンセプトを排し、まったく新しい発想のもと、性格の異なる4つの製品群をクラウンシリーズとして売り出す。従来のクラウンは国内市場主体で販売されたが、16代目クラウンは約40の国と地域でグローバルに販売され、シリーズの販売台数は年間20万台規模を見込む。

 今秋に左端の「クロスオーバー」(販売価格:消費税込み435~640万円)を発売し、残り3車種、左から「スポーツ」「セダン」「エステート」は1年半の期間で順次発売される。(撮影:三橋仁明/N-RAK PHOTO AGENCY)   

 今回は16代目発表を機に、初代クラウンのカタログをファイルから引き出し懐かしむこととした。

16代目クラウンの発表会で紹介された初代トヨペット・クラウン・デラックス。

初代クラウンの開発は1952年1月にスタート。R型エンジンを前にした左端の人物が、クラウンの開発にあたり、トヨタ初の車両開発主査(プロジェクトリーダー)となった中村健也。中央は中村のアシスタントを務めたボディー設計課の係長であった長谷川龍雄。右端はマスターの主査を務めた薮田東三。中村主査は車体工場の次長であり、エンジン、シャシーなどの機構面には精通していなかったが、当時トヨタはボディー架装を関東自動車、中日本重工業(1952年5月、新三菱重工業に改称)などに外注しており、クラウンがボディーを含めて社内で一貫生産する初の試みであり、ボディー生産の成否がプロジェクト成功の鍵であることと、中村主査の統率力を見込んでの決定であった。

1955年1月7、8日の両日、東京虎ノ門にあった東京トヨペットのショールームにおいて実施された、初代トヨペット・クラウンの発表会。左奥には同時に発表されたトヨペット・マスターが見える。

 発表会の1カ月前の1954年12月、第一次鳩山内閣は閣議において、国産品愛用運動の一環として、各省庁の新規購入の自動車は、国産車とすることを決定。クラウンの発表時期はベストタイミングであった。2日間の来場者は各界の知名人もまじえ約1万8000人。当時の新車発表会としては大変な盛況であった。発売直後、通産省から一括20台を受注している。

 クラウンの発売は、わが国の自動車産業の方向に少なからぬ影響を与えたと言えよう。1953年のわが国の乗用車市場に占める輸入車(新車+譲り受け中古車)の比率が68%に達した状況から、国産車不要論を唱える者まで現れ、当時、「外車依存か国産車育成か」の議論はなお流動的で、国産乗用車育成を擁護する立場にあった人々も、大半はわが国の外貨事情をその根拠にしており、決して自動車業界の技術力を評価していたわけではなかった。ところがクラウンの完成によって、国産車擁護論に、技術水準の向上という決定的な論拠を与え、その後の自動車産業行政を国産車有利に導いた。

 その後、規制の強化、国産乗用車の品質向上、価格の引き下げなどの努力により、1953年をピークに輸入車の比率は急激に落ち、1960年には2%になってしまった。

1955年1月発売されたトヨペット・クラウン(RS型)

 1955年1月発売されたトヨペット・クラウンは、トヨタがまさに総力を結集し、社運をかけて開発したクルマであった。政府の指導によって、外国メーカーとの技術提携ブームが始まる前に、独自技術によって開発をスタートしている。クラウンは自家用車として設計され、当初の販売方針では販売先を自家用に限定し、自家用市場の開拓を推進すべく、東京トヨペットの乗用車部に自家用向け販売を専門とする自家用車課が新設された。

従来の乗用車がトラックシャシーにボディーを架装したものであったのに対し、クラウンではシャシーそのものから純然たる乗用車として設計され、従来の国産車の水準をはるかにしのぐ新技術が盛り込まれていた。エンジンはR型1453cc直列4気筒OHV 48hp/4000rpm、10kg-m/2400rpmエンジン+3速MT(2、3速シンクロメッシュ付き)を積み、ファイナルドライブには国産乗用車で初めてハイポイドギヤを採用。最高速度100km/hであった。サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーン+コイルスプリングの独立懸架、リアは3枚リーフスプリングのリジッドでテンションシャックルの両端にはグリースアップ不要のラバーブッシュが採用された。ブレーキはフロントがツー・リーディング・タイプ、リアはリーディング・トレイリング・タイプ。方向指示器は「アポロ」の通称で呼ばれていた腕木式がBピラーに埋め込まれていた。サイズは全長4285mm、全幅1680mm、全高1525mm、ホイールベース2530mm、トレッド前1326mm/後1370mm、最低地上高200mm、車両重量1210kg、タイヤサイズ6.40-15 4P、乗車定員6名。価格は101万4860円。当時の大卒初任給は1万3000円弱であったから、78カ月分に相当し、まさに高根の花であった。

クラウンと同時に発売されたトヨペット・マスター(RR型)

 クラウンが発売された1955年当時は、わが国の道路事情も悪く、未舗装の悪路も多く存在し、過酷な運転をするタクシーにはクラウンは耐えられないのではないかと危惧し、保険として、営業用向けにトヨペット・マスターをクラウンと同時発売した。しかし、その後ハイヤー・タクシー会社からクラウンを営業用にも販売して欲しいと強く要望され、さらに、クラウン自体、営業用の酷使に十分耐えうる性能を持っていることが実証されたこともあり、1956年11月にはマスターの生産を打ち切り、クラウンを営業用としても販売することになった。マスターは合計7403台生産され、2年足らずの短命に終わっている。

マスターの開発はクラウンより1年9カ月遅れて、1953年10月にスタートしている。開発主査は薮田東三であった。エンジン、トランスミッション、ファイナルドライブなどの駆動系およびブレーキはクラウンと同じ、サスペンションは前後とも5枚リーフスプリング+リジッドであった。サイズは全長4275mm、全幅1670mm、全高1550mm、ホイールベース2530mm、トレッド前1317mm/後1370mm、最低地上高200mm、車両重量1210kg、タイヤサイズ6.00-16 6P、最高速度100km/h、乗車定員6名。価格はクラウンより10万円安い91万4860円。なお、マスターのボディーは内製でなく関東自動車で架装されている。

1955年10月に発売されたトヨペット・クラウン・デラックス(RSD型)

 1955年12月9日、クラウンデラックスを発売。主としてクラウン(スタンダード)を営業向けに、クラウンデラックスを自家用向けに販売する方針がとられた。価格は121万9860円で、同時にクラウン(スタンダード)は4.5万円値下げされて96万9860円となった。

 さらに、1956年8月13日、乗用車の値下げが実施され、クラウンはー7.5万円(89万4860円)、クラウンデラックスは―5万円(116万9860円)、マスターは―5万円(86万4860円)となった。

 1956年4月30日、朝日新聞社主催のトヨペット・クラウン・デラックスによる「ロンドン-東京5万キロドライブ」でロンドンを出発。帰国は同年12月30日であった。

 1957年8月21日~9月8日、第5回豪州一周ラリーに国産車として初めてクラウンが出場、参加車両102台、完走52台中47位、クルマ、ドライバーが豪州以外から選ばれる「外国賞」3位を獲得した。

 1957年8月にはアメリカへ初めてクラウンのサンプル輸出を行った。これは国産車の対米輸出第1号であった。

クラウンデラックスでは淡青色付き1枚ガラスのウインドシールドが採用され、ボンネット前面には「TOYOPET」のネームプレートとマスコット、ボディーサイドにはモールディング、リアフェンダー上部にはクロームのフィンが追加された。シート地と内装には高級毛織モケットが採用され、フロアにはじゅうたんが敷かれた。ホワィトサイドウォールタイヤ、フォグランプ、バックアップランプは標準装備。車両サイズはクラウン(スタンダード)と変わらないが、車両重量は30kg重く、1240kgとなった。

クラウンデラックスでは時計、ラジオ、ヒーターが標準装備された。ヒーターはエンジンルーム右側に装着され、コントローラーはインストゥルメントパネルの右端下側に付く。リアシートの両サイドにはアームレストが装着されている。

R型エンジンは圧縮比を6.8から7.2に上げることなどによって、7hpアップの55hp/4400rpm、10.5kg-m/2600rpmに強化され、最高速度は10km/hアップの110km/hとなった。サスペンションではスプリングレートの変更は無く、クラウン(スタンダード)と同じであった。

1958年10月、マイナーチェンジしたクラウンデラックス(RS21型)

 わが国初のオーバードライブを標準装備。フロントサスペンションのキングピンを廃し、ボールジョイント方式が採用された(クラウンデラックスのみ)。カークーラーがオプション設定された。タイヤが15インチから14インチに変更された。価格は据え置き。変わったオプショナル部品として電気カミソリと電気掃除機が設定されており、当時クラウンデラックスを手に入れることができた人たちの心理状態を想像してしまう。

1958年10月6日、クラウンデラックスはマイナーチェンジしてRS21型となった。前後フェンダーの上縁を直線的に前後に伸ばし、ヘッドランプの位置も若干高くなり、リアフェンダー後端は控えめだが当時はやりのテールフィンを意識した形状となっている。フロントグリルも変更され、サイドモールディングも新しいデザインとなった。リアウインドーは3分割から1枚ガラスになり、トランクリッドのヒンジは外側に露出していた簡素なものから、スプリング開閉式に変更された。方向指示器は腕木式からフラッシャーランプ方式に変更されている。Bピラーの方向指示器があった場所にはサイドフラッシャーランプが付く。室内ではメーター類が大幅な変更を受け、ドライバー正面に横長のスピードメーターを配し、従来丸形のスピードメーターがあった場所には、時計、水温計、燃料計、オイルとチャージの警告灯を組み込んだコンビネーションメーターが収まる。

エンジンは圧縮比を8.0:1として58hp/4400rpm、11kg-m/2800rpmとなった。トランスミッションは従来と変わらぬ3速MTだが、新たにギア比0.7のオーバードライブが標準装備された。最高速度は110km/h。サスペンションではフロントのキングピンを廃し、ボールジョイント方式を採用(クラウンデラックスのみ)、コイルスプリングの線径×中心径×巻き数を16.5φ×120φ×10から16.8φ×120φ×6に、リアのリーフスプリングの板厚×枚数を8mm×1+7mm×2から7mm×1+6mm×2に変更されている。リアブレーキにデュオサーボ方式が採用された。サイズは全長と全幅が若干大きくなり、全長4365(+80)mm、全幅1695(+15)mm、全高1540(+15)mm、ホイールベース2530mm、トレッド前1326mm/後1370mm、最低地上高210mm、車両重量1250kg、タイヤサイズは7.00-14 4P。

1958年10月、マイナーチェンジしたクラウン(スタンダード)(RS20型)

 クラウンデラックスに準じたデザイン変更が施されたが、オーバードライブの採用、キングピンの廃止、14インチタイヤの採用などは見送られた。価格は据え置かれた。

クラウンのエンジンは圧縮比7.5:1だが出力はデラックスと変わらず58hp/11kg-mであった。サスペンションのスプリングはデラックスと異なり、フロントはコイルスプリングの線径×中心径×巻き数を16.5φ×120φ×10から16.5φ×120φ×7.5に変更されたが、リアのリーフスプリングの板厚×枚数は8mm×1+7mm×2で変更されていない。フェンダーミラーは付かず、時計、ラジオ、ヒーター、ウインドーウォッシャーなどはオプションであった。

1959年7月、エンジンのパワーアップ

 2バレルキャブレターの採用によってエンジンのパワーアップが図られた。価格は、8月15日に、月産1万台をめざす新価格が発表され、クラウンデラックス(RS21型)103万円、クラウン(RS20型)81万円となっている。

クラウンデラックスのエンジンは、圧縮比8.0:1で62hp/4500rpm、11.2kg-m/3000rpmを発生。

クラウン(スタンダード)のエンジンは、圧縮比7.5:1で60hp/4500rpm、11.0kg-m/3000rpmを発生。

1959年10月に発売されたクラウン・ディーゼル(CS20型)

 1958年10月10日~10月20日に東京の後楽園で開催された第5回全日本自動車ショウに、乗用車用小型ディーゼルエンジンを積んだクラウン・ディーゼルの試作車が出展され、翌1959年10月19日に発売された。

 なお、クラウン・ディーゼルに搭載された「自動車用小型ディーゼル機関(C型)」は、当時世界最小の乗用車用ディーゼルエンジンとして、その独創性と優秀な性能が評価され、1958年度の日本機械学会賞(製品の部)を受賞している。

クラウン・ディーゼルに搭載のC型ディーゼルエンジンは、1491cc(ボア×ストローク:78×78mm)直列4気筒OHV圧縮比19:1で40ps/4000rpm、8.5kg-m/2400rpmを発生する。3速MT(2、3速シンクロメッシュ付き)とファイナルドライブのギア比はガソリン車と同じであった。最高速度はガソリン車よりも15km/h低く、95Km/h。サイズはガソリン車と同じだが、車両重量はガソリン車より35kg重い1260kg。サスペンションもクラウン(スタンダード)と同じであった。価格は88.5万円。

1960年10月、マイナーチェンジした1.5Lクラウン

 1960年10月20日、クラウンデラックスおよびクラウンスタンダード(この時点で初めてスタンダードと記載されるようになった)がマイナーチェンジされた。この時点で、スタンダードにもフロントサスペンションのキングピンを廃してボールジョイントが採用された。初めて「ご希望によってトヨグライド(流体式トルクコンバーター)を装備することができます」と記載された。タイヤがデラックス、スタンダードとも13インチ(7.00-13 4P)に変更された。

マイナーチェンジされたクラウンデラックス。フロントグリル、サイドモールディングのデザインが変わり、エンブレムは三角おむすび型から四角いものに変更された。内装も変更され、インストゥルメントパネルも大きく変更され、上面は柔らかなパッドでおおわれており、ドライバー正面のメーターユニットにスピードメーターのほか、すべての情報が集約されている。ステアリングホイールも3本スポークから2本スポークのスマートなものに変更された。エンジンは62ps/11.2kg-m、トランスミッションは3速MT(2、3速はシンクロメッシュ付き)+オーバードライブを標準装備する。デラックスのエンジンにはファンの回転を自動的にコントロールするサイレントファンが装着された。サイズは若干長くなり、全長4410(+45)mm、全幅1695mm、全高1530(-10)mm、ホイールベース2530mm、トレッド前1336(+10)mm/後1380(+10)mm、最低地上高205(-5)mm、車両重量1250kg。価格は96.5万円。

マイナーチェンジされたクラウンスタンダード。外装、内装は簡素化されてはいるが、デラックスに準じた変更が実施されている。60ps/11.0kg-mエンジン+3速MTを積み、MTのギア比は3.647/1.807/1.000でデラックスと同じだが、ファイナルギア比は初めてデラックスの5.286に対し4.875に変更されている。サイズはデラックスと同じだが、車両重量はデラックスより50kg軽い1200kg。価格は77万円であった。

 ボディーカラーも多数設定されており、デラックス、スタンダードにそれぞれ標準色4色に加えて、オプショナルカラーとしてデラックスに5色、スタンダードに6色が用意されていた。

1960年10月、追加設定されたクラウン1900デラックス(RS31型)

 1960年9月1日、道路運送車両法が改正され、小型車の気筒容積が1500ccから2000ccに引き上げられたのを受け、クラウン1900デラックスが発売された。

1960年10月20日に発売されたクラウン1900デラックス。3R型1897cc(ボア×ストローク:88×78mm)直列4気筒OHV圧縮比8.0:1、90ps/5000rpm、14.5kg-m/3400rpmエンジン+3速MT(2、3速シンクロメッシュ付き)+オーバードライブを標準で積み、オプションで「トヨグライド」2速ATも選択可能であった。3速MTのギア比は1.5L車の3.647/1.807/1.000とは異なり、3.059/1.645/1.000に変更された。ファイナルギア比はMT車では1.5Lスタンダードと同じ4.875だが、AT車には4.375が装着されている。サイズは1.5Lデラックスと同じだが車両重量は15kg重い1265kg(AT車は1270kg)。最高速度は140km/h、価格は119.5万円。

1961年4月、追加設定されたクラウン1900(RS30型)の英語版カタログ

 クラウン1900デラックスが発売されてから約半年遅れで、クラウン1900(スタンダード)が発売された。同時にクラウン1900デラックスは20.6万円値下げされ98.9万円となった。1.5Lクラウンも1.5~3.5万円値下げされた。内容が全く同じ日本語版と英語版が発行されており、ここには英簿版を紹介する。

1961年4月1日に発売されたクラウン1900。3R型1897cc(ボア×ストローク:88×78mm)直列4気筒OHV圧縮比7.7:1、80ps/4600rpm、14.5kg-m/2600rpmエンジン+3速MT(2、3速シンクロメッシュ付き)を積む。3速MTのギア比は1900デラックスと同じ3.059/1.645/1.000だが、ファイナルギア比は1900デラックスのAT車と同じ4.375が装着されている。サイズは1900デラックスと同じだが車両重量は50kg軽い1215kg。最高速度は135km/h、価格は79万円。

1961年4月、クラウン1900発売と同時に発行された1900デラックスのカタログ

 内容が全く同じ日本語版と英語版が発行されており、ここには英簿版を紹介する。スペックは1960年10月に発行されたカタログと同じであった。ただし、このカタログで初めて「トヨグライド」ATをオプション扱いではなく、AT車を一つの車種として扱うようになった。

クラウン1900のカタログ(発行年月は不明)

 スペックは1961年4月に発行されたカタログと同じだが、このカタログにはボディーカラーに関する記述が無い。

初代クラウンの最終カタログ(1962年7月発行?)

 1961年4月発行のカタログとスペックは同じだが、このカタログでは「スタンダード」の表記がされている。

これはクラウン1900デラックスのMT装着車(RS31型)。フロントシートは前後スライドに加え、前後に傾斜させることはできたが、リクライニングシート装着には至らなかった。

これはクラウン1900デラックスの「トヨグライド」AT装着車(RS31-C型)。左側Bピラーにラジオのコントロールボタンがあり、後席から押すだけで放送の選局ができた。

デラックスの運転席周りの装備。クーラーはオプションであった。スタンダードではラジオ、時計、ヒーター、ウインドーウォッシャー、フェンダーミラーなどもオプションであった。

1900デラックスに搭載された90ps/14.5kg-mエンジンと3速MT+オーバードライブと「トヨグライド」2速AT。

これはクラウン1900スタンダード(RS-30型)。スタンダードには80ps/14.5kg-mエンジン+3速MT(オーバードライブは付かない)が積まれていた。

初代クラウンの登録台数推移

 表中、商用車とあるのはクラウンベースのマスターライン。1962年の台数には10月に発売された2代目を含む。

 初代トヨペット・クラウンの価格は、1955年の発売当初1.5Lデラックス121万9860円、1.5Lスタンダード101万4860円であったが、企業努力や量産効果も出て値下げされ、最終的には1.5Lデラックス72.9万円、1.5Lスタンダード64.9万円、1.9Lデラックス98.9万円、1.9Lスタンダード79万円となり、1962年の大卒初任給も1万8000円+となっていたので、月給の36~55カ月分まで下がり、徐々に高根の花ではなくなっていき、やがてマイカーブームがやってくる。当時は今と違って、その後も初任給は上昇を続け、1972年には5万4000円、1982年には13万2000円に達し、クルマがどんどん身近なものとなってきた。

 次回はマスターラインについて紹介する予定。

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