三樹書房
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第1回 戦前の小型商用車
2013.1. 7


 通常、クルマというと「乗用車」をいう場合が多い。いわゆるトラックなどの運送手段に使われる車両は、これまで時代の最先端をいっていなかったといえるが物流時代の近年ではハイブリッド車などの普及によってクローズアップされてきている。

 いわゆる自動車系紙媒体の最盛期のはじまりとされたのは1970年前後とされ、自動車雑誌の創刊ラッシュでもあったが、今日のようにトラックやバスなどの商用車を扱う雑誌や書籍類は極めて少なかった。大型トラックやバスの情報を得るには整備関連のいわゆる理工書や、工学雑誌、自動車ガイドブック程度しかなかった。昔はトラックやバスのディーラーにカタログをもらいにゆく人も少なかったのであろう。訪ねてゆくとどっさりと数cmもの厚さでくれたりしたものだ。

 だが小型トラックやライトバン、ピックアップともなると1960年代までは乗用車よりも「売れ筋」だったといえ、特に巷の商店では乗用車を購入するよりも、まずはトラックを購入する場合が多かった。戦前から1950年代までは商店向けには小さな大衆向トラックとして安価な三輪トラックや小型四輪が多く存在していたが、その大きさは今日の軽自動車よりも小型かつ簡易だった。

 そこでこの新連載では日本の商店をささえてきた「国産小型商用車」の道程を追ってゆくことにしたい。マニアックな人には少し物足りないないかもしれないが、国産小型商用車の歴史の一端として捕えて頂ければ幸いである。

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 1904年に誕生した山羽式蒸気自動車は前年の大阪で開催の第5回内国勧業博覧会に展示、試走した米国車を参考にしたとされる。アメリカも自動車は全部で55,000台の保有台数しかない頃で、まだ蒸気自動車=ロコモティブからガソリン車への変革期といえた。岡山で電気修理工場を経営していた山羽虎夫は、岡山の実業家だった楠健太郎と森房三の義兄弟二人から自動車製作の依頼を受けた。
 幸いにも山羽の兄が神戸のC・ニッケル商会に勤めており蒸気および電気自動車を輸入展示していた。神戸に出向いた山羽はイタリア人マンシン氏に自動車の説明を受けて、どうにか蒸気自動車を完成させることができた。

 しかし完成度は低いと疑問を持った警察に「危険だと」指定され、運転許可を得た岡山の旭川沿いを10km程走ったにすぎない。その理由はタイヤにあり自作のソリッド式のリムはめこみボルトどめタイヤが変形してしまったことによる。しかも製作費がかさみ、タイヤ製作などの開発についてはそれまで以上の出費を実業家が断念したことによってバスとして運用されることはなかった。それでも2気筒の蒸気機関はしっかり動いたとされる。山羽式は10人乗りのバスとされるが、構造的には同時代の海外製バスのように屋根もないため、ここではトラックに近い自動車として紹介するものである。

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 デザイン的に当時、輸入されていた蒸気自動車の多くが「馬なし馬車」的スタイルで、山羽式のような恰好は、このアメリカのランカシャー製トラックなどの写真を参考にしたと思えなくもない。

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 1907年誕生の国産第一号ガソリン自動車は有名な「タクリー号」である。東京市京橋区木挽町(現在の銀座松坂屋から昭和通にかけての場所)にあった修理工場の東京自動車製作所が有栖川宮殿下の注文で第一号車を納入したもので、ガタクリと走る姿からタクリー号と呼ばれた。
 日本で最初に自動車の構造や修理を会得した内山駒之助と吉田真太郎の設計により、米国製水平対向SV(サイドバルブ)2気筒1837ccエンジンを範として3号車以降は内山式国産12馬力ガソリンエンジンを国産シャシーに搭載、そのうち、この4号車のみがトラックで大日本麦酒に納入。サッポロビールの看板を掲げていた。
 ただこのトラックの画像は残されているが当時の東京都内登録車322台の中には含まれてなく、トラックゆえに無登録で走ったともいわれている。

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 1912年(大正元年)頃から自動車車登録制度がスタートしたが、そのナンバープレートの1番がこの明治屋のキリンビール宣伝車である。それ以前、日本に最初に登場した商用車は1903年に三井呉服店が配達用に導入したフランス製クレメント製バンとされる。
 明治屋製のトラックはウイスキーを輸入していた同社が、英スコットランドのアーガイル(Argyll)製トラックを1909年に直輸入、ただちにビール型ボディを載せたものである。この画像は出来上がったばかりのものだが警視庁から「異常だ」と運行許可されずに前部を切断してようやく許可されたエピソードがある。
 そのPR効果はすさまじく横浜で誕生したキリンビールは明治屋が一手に販売権を得てゆく。その後は瓶型ボディを取り去り、通常のバン型ボディ運搬車に換えられた。明治屋のナンバー1はその後フォードT型を経てシボレーの1929年型、戦後シボレー1949年型ずっと継承されたが、ナンバー継続制度が廃止され1959年の廃車で半世紀の歴史の幕を閉じた。

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 1922年に誕生したのがゴルハム4輪トラックだった。自動車の普及により免許制度が1919年に制定されたが、同時期にアメリカ人ウイリアム・ゴルハムがハーレーダビッドソンJ型を分解、前1輪の3輪車を製作してゴーハムの仕事を手伝った櫛引弓人に贈ったのが「クシカー」だった。
 そのクシカーの原理を応用して三輪トラック型にしたのが大阪の実用自動車製造(後の日産)で150台を生産した後に4輪になり100台程を生産した後にリラー号へバトンタッチされた。ゴルハム式は三輪の面影を残してハンドルが1本バーだったがリラー号は丸ハンドルだった。
 搭載エンジンは同じもので10ps/2000rpm、48km/hの性能。ゴルハム式はホイールベース/トレッドが1828/914mmと小型だったがリラー号は2133/965mmと大きくされた。しかし経営は思わしくなく親会社の久保田鉄工の下請け、また大阪発動機=ダイハツ製三輪車の部品製作なども行なった。

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 1924年、橋本増治郎による快進社自動車工場製のダット号41型750kg積甲種軍用保護自動車検定合格車である。快進社は東京・麻布(現在の広尾5丁目)で創業、第一号車は鋳物不良で失敗。第二号車はV型2気筒でこれがDAT号としての1号車になる。DATは創業者3名から命名されたもので詳細は日産のHPで知ることができる。その後に豊島区長崎に移転、この41型は4号車を意味するもので初期から3号車までの2気筒車に比べて4気筒セル始動の近代的メカニズムであった。 だがまだ知名度が低く41型乗用車は家族の足やバスなどに改造された。まだ個人がクルマを持つことは夢のまた夢の時代だった。販売不振の打開策として採られたのが「補助金の出る軍用保護自動車への転換」だった。軍用審査ではボルトが米SAE規格でなく不合格、だがそれはおかしいと抗議、そこで軍部も折れてねじ規格を受理、審査合格した。
 当初の41型は1トン車だったが2年後にこの4分の3トン=750kg積になった。もっとも生産台数は定かでなく5台とも数10台ともされるが納入先は12社に及んだ。だが関東大震災によって多くの人達は「国産車よりも部品など補修の利く輸入車」に需要が流れ、無傷の工場ではあったが注文が来なかったのである。
 軍用保護自動車は他に大阪のダイハツが軍の図面支給で奥村電機とともに製造、神戸の川崎造船は米パッカード型を製造、東京瓦斯電気工業も大森工場を建設。石川島造船とダットも加わり後のいすゞに。また神戸の三菱造船も着手した。

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 1927年に日本セネラルモーターズ年の広告(岩手みちのく記念館所蔵)である。関東大震災後フォードが横浜市子安海岸の横浜ドッグ(現みなとみらい地区)の倉庫街でT型フォードにて稼働開始、シボレーは大阪湾沿いの大阪市大正区鶴町に大工場を建設、いずれも当時の日本市場を席巻したとされる。貨物自動車は米国同様に「コマーシャル・シャシー」にボディを架装する方式だった。

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 1927年式の米本国での「コマーシャル・シャシー」広告。価格は395ドルで日本では1525円で3.8円/ドルの価格設定だった。乗用車やピックアップトラックなどは完成車で販売されおおよそ500ドル前後、4人乗りになると750ドルにハネ上がった。

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 1931年製の米国ハーレーダビッドソン三輪車で、通常の二輪車の後部を取り去り、荷台付きリアカー部分をボルトオンしたものである。ハーレーは1912年から大倉財閥系の日本自動車で国内販売され、ゴルハムなどのクシカーに転用された。しかし補修部品の注文がないことや三共系の興東貿易によって並行輸入されていたことにいぶかしがった米本社が調査、東洋代理人のアルフレッド・チャイルドが1924年に来日、三共と組んで「日本ハーレー販売所」を設立した。
 免許制度があったものの排気量350cc以下の車両で積載量225kgまでの定員1名乗り車両は無免許で乗れたことからこのクラスが1919年以降に普及。1930年には2サイクル350、4サイクル500ccまでに拡大された。これにより4サイクル500ccの英国や米国製二輪車が輸入拡大、特にインディアンとハーレーでは3輪車に力を入れてゆく。ドイツのDKWも前輪駆動の三輪トラックを日本に送り込んで、日本では空前の三輪トラックブームが到来。
 日本ハーレーでは日本陸軍に薬品を納入していた関係から1934年に米国から機械設備一切を輸入して三共品川工場で国産化を開始、その後の陸王の前身となる。ハーレーの三輪も500、750、1200ccの3種が生産され、日本各地の商店で配達用に愛用され、ダットサンやオオタに影響を与えることになった。

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 1932年に戸畑鋳物自動車部時代に生産されたダットサン10T型小荷物運搬車である。1934年から日産自動車製になるが基本型はほぼ同じ。トラックはホイールベースがA型ショートおよびB型ロングがあり1935年にはBベースのライトバン(当時はライトヴァン)が生産された。
 初期型はボンネットが乗用車なみに長いものだったが1935年以降短くなって荷物室長を稼ぐ工夫がされた。無免許三輪トラックの普及に影響され、大型車をダット号、小型車を息子のDATSONと命名したがソン=損に結びつくと、ダットサンとなったのは有名な話である。全長2710、全幅1175mm、495cc、10ps/3700rpm、65km/hの性能で定員1ないし2名だった。

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 ダットサンの後部。なお翌1933年より無免許小型の排気量が750ccまで拡大されたため、ダットサンも747ccとなり全長2800、全幅1200mm、747 cc、12ps/3000rpm、73km/hに向上した。また三輪トラックも750ccまで拡大され二輪、三輪、四輪ともに500cc超えの車両がラインナップされた。

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 1932年製ながら何ともスタイリッシュな「やしま号」499cc。ダットサンの生産に影響されて日本各地で500cc級乗用および商用車が生産された。電気医療器や自動車電機部品製造の東京電気工業の京三号は2050台生産後に部品メーカーに特化、ライト、国益、ダイハツなどであった。
 このやしま号は三井家による三井物産造船部宇野小工場製で、ボディは大阪の板金業者に発注、乗用車とこのトラックが2台ずつ試作されたもの。だが水冷4気筒エンジンが開発途中のためパワー不足で箱根超えに失敗したため、月産1000台という計画も頓挫、生産されずに終わった。
 他方、東京の神田岩本町で太田祐雄氏率いるオオタは、やしま号の試作とは異なる系列で、三井物産本社の資本を受けた日本高速機関が1935年に設立され、東品川に新工場を建設して稼働を開始した。

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 1936年のダットサン15T型商業車専門販売会社の広告である。ダットサンはダット自動車製造が不振で、戸畑鋳物がダットの株を取得して経営権を得るとともに自動車部を設立、翌月にダットと協力関係にあった石川島自動車がダットの清算を決めて合併会社の自動車工業を設立。翌月、戸畑鋳物が横浜工場建設に着手し自動車工業が戸畑鋳物にダットの営業権を渡した。
 そして横浜工場は3カ月後には自動車製造となり、半年後の横浜工場完成後に日産自動車となるのである。急ピッチで経営体系が変化していったのも小型車のライバル車が無数に多くあり、ダットサンを沢山製造して世の中に定着させるためでもあった。

 こうして750ccの無免許車が二輪、三輪、四輪のすべてに渡り世の中に多く普及してゆくわけだが、新興勢力も多く沢山の会社が自動車造りに進出するのも事実だった。従ってこの商用車のストーリーも多くを割愛したものとなっているので、ご容赦いただきたい。
 同時に軍部も第二次世界大戦をにらんで多くの製造会社に兵器生産を実施させたが、それを得た資金で自動車製造に着手する会社もみられた。(この項続く)

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』(三樹書房)など多数。

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