1941年東京に生まれる。
1963年大学卒業と同時に東洋工業(後のマツダ)に入社。
1963-1971年ロータリーエンジン(RE)の開発に携わりたくて、就職先として迷うことなく東洋工業を選択、幸いにも入社と同時期(1963年4月)に設立されたRE研究部に配属され、以来8年間、REの実験研究に従事。
1972-1976年北米市場に導入されたRE搭載車の市場問題の解決、商品評価などのために米国に駐在。(破竹の勢いで販売台数が拡大した70年代前半だが、第一次エネルギー危機後販売が激減、東洋工業も経営危機に陥る。)
1976-1984年帰国直後に広報へ異動、海外広報担当として欧米を中心に各種新型車の海外市場導入と企業イメージの回復に挑戦、中でも78年、初代RX-7の米国市場導入によるアメリカ市場におけるマツダおよびREのイメージ回復は忘れられない出来事。
1984-1986年8年間の海外広報経験後開発部門に復帰、まずは一年半ほど各種新型車の商品性評価を担当。
1986-1992年86年初めRX-7(スポーツカー)の主査となる。半年前に導入された2代目RX-7の育成(∞モデル、カブリオレ、マイナーチェンジモデルの開発、それに引き続き3代目RX-7の開発を担当、目指したのは「REベストピュアースポーツ」(REでしか実現できない最良のピュアスポーツ)91年秋に導入、第一回RJCカーオブオブザイヤー受賞。
1989-1992年RX-7開発たけなわの89年秋、モータースポーツ担当主査兼務となり、ルマン、世界ラリー選手権などマツダのモータースポーツ全般を統括、RE出場可能最終年(のはずだった)90年のルマンでは惨敗を喫する。レース後幸いにももう一年の出場が可能となり、91年のルマンに向けてマツダ、マツダスピードの総力を結集、幸いにも日本車初のルマン24時間レース総合優勝達成。
1992-1994年2年間広報本部長として東京をベースに国内、海外広報、IRを統括。
1994-1996年2年間デザイン本部長としてマツダデザインを統括。
1996-2000年北米向け商品のデザイン、商品企画、商品評価などを担当。(Mazda North American Operations副社長)
2001年3月退職。
2002年5月RJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)会員、モータージャーナリストとして第2の人生を歩き始める。
2003年11月
-2005年11月
米国Road and Track 誌“Letter from Japan”を担当。
2004年1月米国 Road and Track 誌Contributing Editor。

    出版書籍
『マツダ/ユーノスロードスター 日本製ライトウェイトスポーツカーの開発物語』
『マツダRX-7 ロータリーエンジンスポーツカーの開発物語』
『車評50 私たちが選んだクルマ50台』
『車評 軽自動車編』