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第114回 マツダ欧州レースの記録 (1968-1970) その2
2020.4.27

前回の車評オンラインでは、書店への配本が完了した三樹書房からの新刊『マツダ欧州レースの記録(1968~1970)』のご紹介(その1)として、山本健一ロータリーエンジン(RE)研究部長(当時)の「長距離耐久レースでREの性能と耐久信頼性を立証したい」という要請に基づき、1968年のニュルブルクリンクにおける84時間レースに挑戦、コスモスポーツが4位に入賞したことをご紹介したが、マツダは1969~1970年も欧州レースへの参戦継続を決定し、出場車はL10BコスモスポーツからM10Aファミリアロータリークーペ(輸出名R100)にバトンタッチした。1969年には、前年に引き続き「マラソン・デ・ラ・ルート84時間レース」への挑戦に加えて、「スパ・フランコルシャン24時間レース」への参戦を新たに加え、1970年にはイギリスのシルバーストーンサーキットにおけるRACツーリスト トロフィーレース、ニュルブルクリンクサーキットにおけるツーリングカー グランプリレースを前哨戦と位置づけ、スパ・フランコルシャン24時間レースにおける優勝を狙って参戦した。(その2)では1970年のスパ・フランコルシャン24時間レースをメインにお話をすすめたい。

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写真は1970年の英国シルバーストーンサーキットにおけるRACツーリストトロフィーの際のカットで、前列右側のR100のドアに手をかけているのが山本紘さん。

1968年のコスモスポーツによる「マラソン・デ・ラ・ルート84時間レース」では、サイドポートとペリフェラルポートを組み合わせたコンビ吸気ポートを選択、長距離耐久レースのため出力は128psに抑えた。(装着を決めた冷却ファンが14ps消費したため実質出力は142psだったが) 1969年からのR100による欧州レースへの挑戦では、当時の同クラス車両のレシプロエンジン規則でシリンダーヘッドやカムシャフトの変更が許されたことと対比して、量産R100のサイドポートをペリフェラルポートに変更、シンガポールGPで優勝した仕様は190ps/8,500rpmだったが、耐久性に配慮、185ps/ 7,500~8,500rpmに抑え、それでも前年のコスモスポーツの128psに比べてかなり高い出力となった。

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1969年のスパ・フランコルシャン

1969年のスパ・フランコルシャン24時間レースは7月26日から27日にかけて行なわれ、3台のR100が出場、予選は15、17、28位だったが、不幸なことにスタートから3時間あまりたったころ、30号車のハンドルを握っていた 「エルデ」というニックネームだったレオン・デルニエ氏(リエージェのプジョーディーラーの社長で当時57歳)がマスターコーナー(下りのコーナー)でポルシェにぬかれたあと、ガードレールに接触、クラッシュして死亡する事故が発生した。レース切り上げも視野に入れて広島本社に連絡したところ、村尾時之助専務から「最後まで走り切れ」と電話で叱咤激励され、レース後、レース関係者が事故現場に出向き、冥福の祈りをささげたという。この24時間レースでは残りの2台が5位と6位でフィニッシュ、8月20日から23日まで行なわれたマラソン・デ・ラ・ル。ート84時間レースでは1台が64時間後リタイヤするが、もう一台が5位でフィニッシュした。

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1970年のRAC ツーリストトロフィー

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1970年のツーリングカーグランプリ

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1970年のスパ・フランコルシャン

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1970年のスパ・フランコルシャン

スパ・フランコルシャン24時間レース(1970年7月25~26日)
以下は山本紘さんの『マツダのモータースポーツを振り返る』の中で1970年のレース、中でもスパ・フランコルシャン24時間レースに関する部分だ。(小早川が選択と細部まとめ)

『1970年には私自身がFIAのチーム監督になるために必要なライセンスを取得、英国シルバーストーンでのRACツーリスト・トロフィーレース(2時間+2時間の2ヒートレース)、ニュルブルックリンクのADACツーリングカー グランプリレース(6時間耐久レース)、そしてスパ・フランコルシャン24時間レースと、短中長距離レースに挑戦し、いずれもそれなりの成績を獲得して(小早川注: RACツーリスト・トロフィーレースでは8-10-12位、ADACツーリングカー グランプリレースでは4-5-6位)"東洋のMazda RE侮りがたし"の評価を受けることができたが、以下私の最も深く記憶に残る1970年のスパ・フランコルシャン24時間レースでの出来事をご紹介したい。

前年優勝のポルシェ911がGTカテゴリーに移され、マツダ、アルファ ロメオ、BMWなどにチャンスありというのが前評判になっていた。事前に行った走行シミュレーションからも、うまく行けば優勝と3台の走行距離合計で競うボードワン国王杯(チーム賞)も夢ではないと考え、4台体制で臨むことにした。

車検を通過し第1次予選もタイムは想定通り...とすすんだところで、オフィシャルから「マツダR100のオーバーフェンダーは出すぎている。本番までに修正せよ」という指示が...当時のイエローブックには「車体全幅より片側50mm出してもよい」と書かれており、それに従って対応したのだが、R100の全幅はドア付近で、前輪の車軸上に移すと70mmくらい出ている勘定になった。競技委員長はその場でこの規則は車軸上で50mmだと言い張り、FIA役員でもある同氏は「自分がルールブックだ」と言わんばかり...裏で某チームのアピールがあったとの噂も聞こえてきたが、やむなくフェンダーを叩きフロントタイヤをワンサイズ下のものに替え出走することにした。

案の定第2回プラクティスではコーナリングスピードが落ち、想定タイムを割り込み、対応策を松浦国夫さんとも協議、直線部分の回転リミットを500rpmアップとすることにした。本番スタート後は順調にラップを重ね、17時間目では1-3-4-8位、18時間過ぎた時点でも1-4-5-8位をキープしたが、その後1台がリタイヤ、残る3台が1-4-5位をキープし周回を重ね(2位はBMW2800CS)、"1位とチーム賞の両方を獲れる"と思い、欧州ディーラーの人達の「君が代とシャンペンの用意を」という声や、「祝Mazda R100」の吹き流しを引っ張るセスナを離陸させるという話を耳にした。

ところが21時間10分ぐらいのところで1位の片山車(No. 31)がエンジンバーストでリタイヤの報告が入り、3時間ほど前にリタイヤした外人ドライバーの、「自分のドライブミスではない。エンジンが突然バーストした」という必死の訴えと、そのクルマがADACの6時間レースに出場した車両であったことを思い出し、直ちに3位走行中の片倉選手をピットインさせ、回転数ダウンの指示を出したが、このクルマも間もなくエンジンバーストによりリタイヤしてしまう。

最後の1台にすべてを賭けるべく、残り1時間を切ったところでピットに入れ、約30分間ピット前に停車させた。(1ラップ1時間超過は失格のルールがあったがめ)私は多くのメディアや記者に囲まれたがノーコメントを通し、次のドライバーのJ. ハインにゴールライン手前で待ち、1位が通過しチェッカーフラッグが降られたらゆっくり1ラップするように指示、彼はその通り忠実に実行してくれ、長いピットストップにもかかわらずかろうじて5位入賞を果たすことができた。全滅では退職も...との私の思いを消してくれたのである。しかし+500rpmの判断ミスが命取りとなり、エンジンバーストという大きな代償を払うハメになった記憶に残るレースとなった。翌年のFIAのイエローブックは「車軸上で+50mm」と書き換えられていた。

翌1971年こそはと思い準備を整え、船積み直前まで進めていたが、当時国内で無敵、大暴れのスカGを叩いて欲しいとの国内営業部門の強い要望により、国内活動へと大きく舵を切ることになった。その秋の鈴鹿レースに向けて準備をしたが、R100のFIAグループ2規定のオーバーフェンダーは許されず、翌年に向けて改造規定の合意を取り付け、合わせて12Aエンジンを搭載していたアメリカ向けRX-3のホモロゲーションも取得、1972年の日本グランプリで箱スカ(スカイラインGT-R)を叩き、以来RX-3が主役となり、1976年には通算100勝を達成した。』

以下は松田信也氏のサマリーからの抜粋だ。

マツダワークスチームの出場車とドライバー
No. 31:片山義美、武智俊憲
No. 32:片倉正美、C.ベイカー
No. 33:R.エネヴァー、J.ハイン
No. 34:Y. ドゥプレ、P.Y.ベルタンシャン

予選結果
No. 31:6位 
No. 32:13位
No. 33:22位
No. 34:17位

2時間目:4-10-11-13位
4時間目:6-7-8-11位
8時間目:2-3-4-8位
12時間目:1-3-4-8位
17時間目:1-3-4-8位
18時間目:1-4-5-8位

決勝結果
No. 31:21時間11分 リタイヤ
No. 32:22時間40分 リタイヤ
No. 33:総合5位 4057.736km、169.072km/h
No. 34:18時間35分 リタイヤ

ちなみにスパ・フランコルシャン24時間レースは1924年に始まり一時中断はあるものの1964年からは毎年開催されてきた市販車改造車レースの最高峰と呼ばれるレースで、もしマツダが1971年に国内にシフトせずもう一度挑戦していたらと思うところだが、1981年に初代RX-7で優勝をはたすことが出来た。マツダ車以外にこれまでに優勝した日本車は1991年のスカイラインGT-Rだけだ。

「マツダ欧州レースの記録」を振り返って
以上の記録を振り返ってみると、山本健一RE研究部長(当時)の「長距離耐久レースでREの性能と耐久信頼性を立証したい」という要請に基づき山本紘さんを中核としてこのように対応してきた当時の欧州レースへの挑戦が、その後のマツダのREに対する飽くなき挑戦の継続、ル・マン24時間レースへの長年の挑戦、欧州におけるマツダブランドの高揚、そしてマツダの商品戦略などにとって代えがたいものとなったかがお分かりいただけると思う。モータースポーツ活動にはこのような効果があり、改めてその大切さを実感する反面、近年マツダに限らず日本メーカーのモータースポーツ戦略を鑑みるとき、必ずしもその目的と長期戦略が見えてこないと感じる。『マツダ欧州レースの記録』(1968-1970)は、そのような視点からも示唆に富んだ記録であり、改めて本書の刊行にご協力いただいた山本紘さん、松田信也さん、更には出版を決断された三樹書房に心から感謝したい。

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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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