三樹書房
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第87回  H項-4 「ホンダ・1」
2020.2.27

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・日本が世界に誇るオートバイ・自動車メーカーで、僕の大好きな「ホンダ」を紹介する順番が回って来た。撮影した種類や量についてはかなり多いので、この後何回か続くことになるが、ホンダの歴史を語るには「2輪車」を避けることが出来ないので、今回に限り第1部「創成期」(戦後の「バタバタ」から「オートバイ」への成長過程)、第2部「2輪で世界制覇」(レーシング・バイクのながれ)と、以下進行に応じてテーマ別に取り上げていきたい。
・この項を構成するに当たって、僕自身が街中で2輪車は殆ど撮影していないので、主に「ホンダ・コレクション・ホール」の展示車に頼っている。しかし、そこも完全に揃っている訳ではなく、創世記のモデルの変化を知るにはアルファベット順の各モデルを網羅する必要があったので、止むなく年鑑資料から一部補填した。

   < 第1部・創成期(2輪車の進化)> 1946~
・社員からも「オヤジ」と呼ばれた「本田宗一郎」は、1906年 (明治39) 静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)で、鍛冶屋と自転車屋を営む「儀平」の長男として誕生した。
・1922年、16歳にとき親父が購読していた「輪業世界」という雑誌に出ていた東京・神田の「アート商会」の広告を見て、自動車・オートバイの修理工場に「丁稚奉公」に入る。
・1924年(大正13)、 数年前から社長「榊原郁三」の弟「真一」を中心にレース活動を始めていた「アート商会」では3台目のレーシングカー、飛行機のエンジンを載せた「アート・カーチス号」を完成させたが、宗一郎もこのレーサー造りに参加している。
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  1924 Art-Kurtis Racer

・1928年(昭和3)22歳で丁稚奉公を務めあげるとその実力を認められ、暖簾分けが許され「アート商会浜松支店」を名乗って独立した。
・1935年(昭和10) 修理工場から物を造る「メーカー」への脱皮を図り小さくても金額の張る「ピストンリング」に目を付け「東海精機(株)」を設立する。しかし製品が安定せず、材質の成分について浜松高専(現・静大工学部)に教えを請い、特別聴講生になったエピソードは有名。金属分析の結果シリコン、カーボン不足が原因と判り問題は解決した。その後時代は戦時特需に入り終戦を迎える。
・1946年(昭和21) 東海精機をトヨタに売却し、「本田技術研究所(非法人)」を設立、最初は「織物機械」を造った。(「トヨタ」も「スズキ」も源流は織機メーカー)そのほかにも色々な生活品で糊口を凌いでいたが、この時期運命的な出逢いがあった。それが陸軍の「6号式無線機」の発電用小型エンジン(2サイクル50cc)だった。これを見付けたときに、自転車に付けて「走る乗り物」を造ろうというアイデアが閃(ひらめ)いたのは、応用の天才「宗一郎」の面目躍如たるところだ。これらの補助エンジン付き自転車は、その排気音から「バタバタ」とか「ポンポン」と呼ばれた。
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(写真01-abc) 1946 本田技研 自転車用補助エンジン

・1947年(昭和22年)12月、「A型エンジン」(2ストローク50cc 0.5hp)が完成し、「ホンダ」としては最初の市販1号車「A型」が発売された。自転車は別で「エンジン・セット」の値段は16,000円だったが、これは平均月収の8倍に相当した。
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(写真02-abc)1947 Honda Model A 補助エンジン

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(写真03a) 1948 Honda Modele B

・1948年(昭和23)9月、資本金100万円で「本田技研工業(株)」が設立された。
この年「B型」(90cc )に次いで、補助エンジンではない本格的なオートバイ「C型」が発売された。
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(写真04abc) 1949 Honda Model C

・1949年(昭和24)8月発売された「D型」には新しく「プレス・フレーム」が採用され、愛称「ドリーム」が始めて使われた。
(写真05a) 1950 Honda D Dream
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(写真05b) 1951 Honda Dream D
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・この年10月、「宗一郎」の生涯のパートナー「藤沢武夫」がホンダの経営陣に加わり、技術は本田、経営は藤沢の「二人羽織」でバランスの取れた運営が始まった。この年資本金を200万円に増資する。
・1951年初めての4ストローク・エンジン「E型」(OHV 146cc 5.5hp) が完成し、D型のフレームに搭載した「ドリームE」は箱根越えのテストにも成功し初期の大ヒットとなった。
(写真06a)1951 Honda Dream E
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(写真06b)1953 Honda Dream 3E
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・1952年(昭和27)4月本社を東京・八重洲に移転し、資本金を600万円に増資した。
この年、初期の「バタバタ」をより洗練した自転車用補助エンジン「カブF型」が登場した。2ストローク50cc 1hpのエンジンは真っ赤なカバー付きで、白く真ん丸なガソリンタンクとのコンビネーションも印象的だった。この販売網は全国の自転車屋さんが対象で、5万5千軒のアンケートから3万の回答があり、その中の1万3千軒で販売網を作り上げた。発売後半年で月産7千台という驚異的な数を送り出し、同じく好調の「ドリームE」と合わせるとオートバイ業界全体の月産量の8割を「ホンダ」が占める勢いでトップメーカーとなった。
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(写真07a~e)1952 Honda Cub F(補助エンジン)   反対側から見れば自転車にしか見えない

・1953年8月発売された「ベンリイJ」は、大型車用の高級エンジンだと思われていた「4ストローク」を採用し89cc 3.8hp nのエンジンを持つ小型実用車だった。この排気量は前年から実施された「道路交通取締施行令」の改正で「原動機付自転車」は4サイクル90cc、2サイクル60cc以下は「免許」ではなく、審査だけで取得できる「許可制」となったのでここを狙ったものだ。
(写真09a) 1954 Honda Benly J(90cc)
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(写真09b) 1954 Honda Benly JA(140cc)
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(写真09c)1955 Honda Benly JB(125cc)
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(写真09e)1957 Honda Benly JC(125cc)
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(写真10ab)1959 Honda Benly C92(124cc)
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・この年12月にはすでに1500万円になっていた資本金を一気に6000万円まで増やし、翌年からは東証で株式を公開した。

   < 第2部・ホンダのレース活動・1>
・1949年入社した17歳の「大村美樹雄」は「C型」100ccのエンジンの完成後の試運転を担当していた。その年9月に浜松でオートバイ・レースがある事を知って秘かに計画を練る。自分のオートバイは持っていないから、会社の連絡用の1台に試運転で一番調子のいいエンジンを載せ替えて出場する、という案だ。問題は社長の許可を取る事だったが、なかなか言い出せないうちにレース当日になってしまい、意を決して無許可で出場してしまった。予選から勝ち続け、決勝でもだんとつの速さで優勝した。表彰を受けた大村のもとにやって来た「宗一郎」は「おまえ、なかなか速いな」と興奮して声をかけ、「お前にレーサーを造ってやるよ」といったのが「ホンダ」のレース活動の原点だった。
(写真11a) 1949 Honda Modele C
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この後大村は本社工場の試作係に転属され、たった一人でレーシング・オートバイの開発を進めるが、専門知識のない新人には判らない事ばかりで宗一郎、弁次郎、河島喜好らの指導を受け開発を進めた。実は大村のレーサー造りは口実で、本当は宗一郎自身がやりたかったのだろう。大村自身のレース活動はその後も続き、1949年7月多摩川スピードウエイで開催されて日米対抗レースでは七級レースで優勝している。
・1950年「プロ選手権」と称して船橋オートレース場で、車券を売るギャンブル対象のレースが始まると、大村はホンダの社員でありながら社長の「ヤレ」の一言で全国各地を転戦し実力を評価された。この当時のレース活動は会社が本腰を入れていたわけではなかったから、ライバル他社を圧倒するほどの強さは無く勝ったり負けたりの状態だった。

・1954年「ホンダ」初の海外遠征はブラジルで開催された国際レースで、マシンはドリームE型の150ccを125㏄に改良した「R125」OHV 6hpが造られ、ドライバーは「大村美樹雄」を送り込んだ.
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(写真12abc) 1954 Honda RC125
元々勝てるとは思ってもいなかったが、彼我の持つポテンシャルの差は想像以上で、「井の中の蛙」だったことを思い知らされた。優勝したイタリアの「MVアグスタ」は、同じ125ccながら馬力は2.5倍の15hpもあり,ミッションもホンダの2速に対して5速、アルミ製の軽量リムとハブ、それに冷却フィン付きの大型ドラムブレーキ付きで、レースでの平均速度160キロはホンダより40キロも速かった。よほど悔しかったと見え、この時優勝した「MVアグスタ」はコレクション・ホールに並べて展示されている。
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(写真13abc) 1954 MV Agusta 125 Sport Competizione

結果的には、このレースで負けたことが国際レースへの挑戦に火を付ける事になった。3月20日付で「世界制覇を目指す」という途方もない目標を「宣言」し、手始めに来年の「マン島TTレース」へ挑戦すると発表した。
・この年6月開催される「マン島TTレース」を現地視察するため「宗一郎」はイギリスへ向かった。レースに参加する車の敵情視察と情報収集が目的だったが、リッター100馬力を目指していた「ホンダ」に対して、「NSU」は144馬力、「MVアグスタ」は156馬力をすでに持っている、この現実に開発目標はさらに高くなった。10月には「埼玉製作所」内に「TTレース推進本部」を設け本腰を入れて開発に取り組むことになった。高性能エンジンの開発方針は、後年「ホンダ」の特徴となった「高回転」と「完全燃焼」に活路を見出す事であった。しかしこれらが短期間で完成するのは無理で、1955年の「マン島TTレース」の参加は見送らざるを得なかった。

・この海外遠征と同じ時期、ホンダ初のスクーター「ジュノオK型」が満を持して発売された。凝りに凝った高級スクーターだったが3千台しか売れず財政悪化のホンダの足を引っ張る形になってしまった。(トヨペット・クラウンが発売されるまでは、僕の勤務先の支店長はこれで通勤していた程の高級スクーターだった)
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(写真08a~d) 1954 Honda Juno K Scooter

・1955年10月には「第1回 全日本オートバイ耐久ロードレース」が開催されることになった。「浅間火山レース」と呼ばれた歴史的イベントだ。これに先立って7月には「富士登山レース」が開かれ、125ccクラスには「ベンリイ」2台、250cccクラスには3台の「ドリーム」で完全制覇を狙ったが、125ccクラスでは伏兵「ヤマハYA-1」に優勝をさらわれた。
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(写真14a)) 1955 Yamaha YA-1 (赤とんぼ)

本番の「浅間火山レース」では、1日目注目の第1レース250ccクラスは「ライラック」が優勝し「ホンダ」は2位と6位に留まった。続く125ccクラスも「ヤマハ」が1~4位を独占し、改造し過ぎた「ホンダ」は次々とリタイヤし9位がやっとだった。2日目の350ccと500ccクラスでは優勝したものの、125cc/250ccという本命レースでは惨敗であった。このあと更なる強化を目指し「技術部第2研究課」を新設し社内体制を整える。
・1957年 第2回「浅間火山レース」が開かれたが今回も完走できず低迷が続く。

・1959年 第3回「浅間火山レース」で遂にホンダの「RC160」(250 cc)が優勝し念願を果たした。
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(写真14b) 1959 Honda RC160 (250cc)   第3回「浅間火山レース」の優勝車(鈴木義一)

   < 第3部・「神社仏閣」と「スーパー・カブ」>
・少し遡るが1957年には市販車の傑作として歴史に残る車が誕生した。それが「ドリームC70」で初のOHC 2気筒247㏄のエンジンを持ち、最高時速は130キロが可能だった。この車の性能もさることながら、そのデザインに特徴があり、海外模倣の殻を破った日本独自の角ばったスタイルは「宗一郎」が奈良・京都で得たヒントからデザインされ「神社仏閣スタイル」と呼ばれた。

(写真15a) 1955 Honda Dream SA(246cc) 以下は「神社仏閣」になる以前のドリーム・シリーズ
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(写真15b) 1955 Honda Dream SB(344cc)
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(写真15c) 1957 Honda Dream ME(250cc)
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(写真15d) 1957 Honda Drean MF(350cc)
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以上は「神社仏閣」以前の「ドリーム・シリーズ」で、 以下「Cシリーズ」以降がわが国独自のスタイルに変わった。
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(写真16a) 1957 Honda Drean C70  ホンダにとっては歴史を変えた重要なモデルだと思うが、僕が訪問した時はコレクションホールに展示されていなかったのか撮影していない。

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(写真16b) 1960(1958) Honda Dream C71

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(写真16bb)1959 Honda Dream CR71 Super Sport

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(写真16c) 1960 Honda C72


・同じ1957年「ホンダで一番の孝行息子」、T型フォードも抜いた「世界的大ヒット」で「ロングセラー」を続ける「スーパー・カブC100」が誕生した。このタイプのバイクを造ろうという発想は技術担当の「宗一郎」ではなく、経営・販売担当の「藤沢」から生まれたものだ。鉄道網の発達している日本では交通手段として大型バイクで長距を移動する必要は少ない。一方、小型で簡単に乗れるモペットなら、商品配達、通勤・通学と用途は広いから、今後安定した数の販売が見込める。輸出対象としても、モペットの普及している「ヨーロッパ」、小型オートバイ未開の「アメリカ」、自動車が高根の花の「開発途上国」のいずれにも十分可能性がある、と見た。ただ、具体的にどんな形かは全く白紙で、そのイメージを固めるため二人でヨーロッパの町を見て回った。そして何処にもない新しいものを目指した。その構想は「蕎麦屋の小僧は配達の時片手でそばをかつぐから、右手1本と両足で運転できる事」だった。左手を開けるために「オートマチック・クラッチ」が採用された。エンジンは4サイクル単気筒OHV 49ccで、9500回転までスムースに回り4.5馬力を発生させた。(リッター当たり92馬力相当はレーシングカー並みの高性能だ)「スーパー・カブ」が出現するまでは50ccは僅かで、ミニマムは90ccだったのは「免許不要」だったからだが、この後各社とも50ccが取り入れられた。スクーターを除いてはみな「オートバイ」タイプで女性が乗れる代物ではなかったが、1960年になると「ヤマハ」「ヤマグチ」「カワサキ」からレッグ・シールド付きのそっくりさんが登場した。発売した年は約9万台を売ったが、翌年はなんと41万台も売れてしまった。その後世界進出も順調で、発売15年で1500万台を生産し、長期間にわたって「ホンダ」の財政を安定させた「孝行息子」なのだ。
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(写真17ab) 1957 Honda Super Cub C100

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(写真17cd) 1958 Honda Super Cub C100

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(写真18abc) 1960 Honda Sports Cub C110

・主要輸出先となったアメリカは、バイクと言えば「ハーレー」に代表される大型バイクで、特殊な人たちの乗り物というマイナスイメージが定着していた。しかし「ホンダ」が「スーパー・カブ」を売り込んだことで社会通念を変えてしまった。最初の年は170台しか売れなかった「スーパー・カブ」だったが、アメリカ人から見ればオートバイではなく「可愛い玩具」と映ったようで、3年目には年間1万台を超え、4年目の62年には年間4万台以上が販売された。イメージを変えるキャンペーンとして有名なポスターとレジャー用の「ハンター・カブ」がこれだ。
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(写真19a) 「善い人が乗る乗り物」というイメージを植えたタポスター。

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(写真19b) 1963 Honda Super Cub C105H 釣りやハンティングのお供用にアレンジされた。

・ホンダがアメリカで大成功した話で「二人の靴のセールスマン」のエピソードを思い出した。発展途上の国で国民は皆「はだし」だった。それを見たセールスマンAは「こりゃ駄目だ、だれも靴は買わないよ」といった。しかしBは、「こりゃ凄い、全員が見込み客だ」。まさに「スーパー・カブ」をアメリカに売り込んだ「ホンダ」はセールスマンBだった。 

・1960年三重県鈴鹿市に10万坪を越える主力工場を建設した。決め手となったのは誘致側の鈴鹿市の誠実な態度に好感を持ったからだ。何年か後、鈴鹿市が江戸時代「本多家」の領地だったという縁もあり、「市名を本田市に変更したい」との打診が有ったが即座に辞退したと言われている。「宗一郎」はこういう事が大嫌いだったのだ。(「トヨタ」は拳母市を豊田市に変えている)
  

   < 第4部・マン島TTレースへの挑戦から世界制覇へ>
・1959年6月、遂に念願の「マン島TTレース」への挑戦が始まった。この伝統あるレースにアジアから参加するのは初めての事なので注目を浴びると同時に、お前らに何が出来るもんかという後進国に対する蔑視と偏見の目で見られていた。日本製のオートバイで参加することが信じられないという程度の評価だったのだ。挑戦初年度は「125cc」クラス1本に絞り、5人のライダーに、6台のレーシングマシン「RC141」と、練習用に10台の「ベンリイSS」が送り込まれた。コースは1週17.36キロでコーナーの数は71あった。テスト走行で操縦性とブレーキ性能が十分でない事、6速のギア比がコースに適合していない事、バンク角が浅すぎることなど、現地で体験して初めて認識した。レース本番では「鈴木義一」「鈴木淳三」「谷口尚己」の3人は、メーカー・チームとして後から空輸されてきた4バルブDOHC の高性能版「RC142」が与えられ、「田中禎助」と「ビル・ハント」は「RC141」で個人参加として出場した。ハントは2周目で転倒リタイヤしたが、最終的には「谷口」6位入賞、「鈴木義」7位、「田中」8位、「鈴木淳」11位となり、初出場で入賞し貴重な「1点」を獲得した。「ホンダ・チーム」としては参加したライダー3人が揃って上位で完走したので「チーム賞」獲得という快挙を達成した。

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(写真20a~d) 1959 Hond RC142 (125cc) 6位に入賞でGPで初得点を挙げた車(谷口尚己)

・1960年2回目の「マン島TTレース」挑戦は、125ccクラスに5台、250ccクラスに3台を参加させた。しかし125ccクラスは6位から10位、250ccは4位から6位と期待したほどの成績は上げられなかった。(これでもなかなかの成果ではあるが・・) この年は「マン島」を手始めに、ヨーロッパ各地を転戦する「GPレース」への参戦を決めていた。「オランダ」「ベルギー」「ドイツ」「イタリア」などが予定されていたが、「ドイツGT」ではコーチ役のオーストラリア人ボブ・ブラウンがプラクティス中に接触事故で死亡するアクシデントに見舞われ、ホンダのレース史上最初の犠牲者となった。しかし決勝では「田中健二郎」が3位に入賞し、日本人として初めて表彰台に上がり日の丸を揚げた。シーズンが終わった時点で年間のメーカー得点では「125ccクラス」は1位「MVアグスタ」24点、2位「MZ(東独)」16点、3位「ホンダ」7点、「250ccクラス」は1位「MVアグスタ」32点、2位「ホンダ」19点、3位「MZ」100点と、早くも「MVアグスタ」を射程距離手前まで近づけた。
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(写真21abc) 1960 Honda RC161 (250cc)    マン島TTレースで5位に入賞した車(北野元)

・1961年は「125cc」「250cc」クラスの11戦にフル・エントリーしワールド・チャンピオンを視野に入れたレースプランが組まれた。ところがライバル「MVアグスタ」がレース直前「引退宣言」し不参加を表明した。その真意は不明だが「宗一郎」は「敵前逃亡」と受け取っている。前年「MVアグスタ」に乗って世界チャンピオンとなった「ジョン・サーティース」が「良いライダーを乗せたら来年は「ホンダ」が世界チャンピオンになるだろう」と予想した事が影響したとは考えられないが、実力が評価されて来ている事は確かだ。その「ホンダチーム」は、250ccクラスのNo.1ドライバーに「マイク・ヘイルウッド」を獲得し、125ccクラスには昨年から好調の「トム・フィリス」が担当した。この年の「ホンダチーム」の快進撃はいきなり第1戦の「スペインGP」から始まった。まず125ccで「トム・フィリス」がホンダ初の「グランプリ優勝」を挙げた。
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(写真22a~d) 1961 Honda 2RC 143 (125cc)  マン島TTレース優勝車(マイク・ヘイルウッド)


続く「ドイツGP」では250cで高橋国光が日本人初の優勝を飾り、ホッケンハイムの森に日の丸が上がり、君が代が流れる感動的シーンを齎(もたら)した。
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(23b)09-11-15_171 1961 Honda RC162  西ドイツGPで日本人初優勝.JPG

(23c)09-11-15_172.JPG (写真23abc)1961 Honda RC162 (250cc)    ドイツGPで高橋国光が日本人初優勝を挙げた車

第3戦フランスGPも勢いは止まらず、125/250両クラスで優勝、第4戦「マン島TTレース」を迎えた。結果は予想をたがえず125cc,250cc両クラスで1位から5位迄独占する完全優勝だった。この年の総合成績はドライバー2人のワールド・チャンピオン、メーカーは125cc,250ccクラスの世界選手権制覇、GPレースで18回優勝、15回のコースレコード更新、19回のレース平均速度記録の更新と、実績の上で過去の記録を上回り、「MVアグスタ」の欠場で拾った優勝ではないことを証明した。(サーティースの予言が現実のものとなったので「MVアグスタ」は参加しなくてよかった?)

・1966年には50ccから500cc迄の5クラスすべてで優勝し「世界グランプリ完全制覇」を達成し全盛期を迎えた。
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     (24b)09-11-15_038 ⑪は第1回全日本ロードレース(鈴鹿)優勝車*.JPG

     (24c)09-11-15_037 1962 Honda RC112 (50cc).JPG
(写真24abc)1962 Honda RC112(50cc)

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     (25c)(1962)09-11-15_043は世界選手権で6勝したルイジ・タペリの車.JPG

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(写真25abc) 1962 Honda RC145(125cc)

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(写真26abc) 1962 Honda RC163(250cc)

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(27b)(1962)09-11-15_048 1962 Honda RC171ジム・レッドマン鈴鹿優勝車.JPG
(写真27ab) 1962 Honda RC171(350cc)

オートバイによる世界制覇の夢を達成すると、次の「宗一郎」の夢は自動車メーカーとなり「F1グランプリ」への挑戦だった。

・今回は2輪車について長々と説明した。町工場から「世界のホンダ」に駆け上がる過程は2輪車の時代を除いては語れないからだ。併せてレースへの挑戦もかなり細かく説明したのは、その後のF1挑戦の伏線と考えたからだ。次回から4輪の時代に入る予定です。

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第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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