三樹書房
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第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ
2019.12.27

     (00)(98-09-30) 1935 Hispano-Suiza J12 Pillarless Berline by Vanvooren of Parisのコピー.jpg
    1935 Hispano-Suiza J12

(01)<日野自動車> (日)

日野自動車と言えば昔から大型トラック、バスのメーカーとして知られ、今も変わらず大型車のメーカーだ。この会社の生い立ちは「いすゞ自動車」の前身「ヂーゼル自動車工業」の日野製造所が戦時中の1942年(昭和17)分家して出来た「日野重工業」からスタートし、当時は装甲車やトラックなど大型軍用車両を製造していた。戦後1946年(昭和21)3月「日野産業」、1948年12月「日野ヂーゼル工業」と社名を変えて、大型車部門で着実にシェアーを確保して行った。1953年(昭和28)には乗用車部門に進出すべく、その技術習得のためフランスの「ルノー公団」と契約を結び、小型車「4CV」のノックダウン生産(完成部品を輸入し国内で組み立てる)を開始、最終的には部品の完全国産化を経て、独自のモデルを造るまで成長した。この技術を基に1961年から市販された「コンテッサ」が生まれたが、乗用車に関してはこのシリーズだけに終ってしまったから、ルノー公団との提携は何だったのだろう。しかし得意の大型車に専念したお陰で、今でもすれ違う大型車の半分は「H」マークの付いた日野製だ。

(写真01-1ab) 1953 Hino-Renault 4CV(PA・初代モデル)     (1956静岡市内/追手町市役所前)
(01-1a)013-351953 Hino-Renault 4CV.JPG

(01-1b)013-34* 1953 Hino-Renault 4CV (初代モデル).JPG

(参考) 1954 Renault 4CV (フランス仕様) バンパーが車と密着している
(01-1c)(075-07) 1954 Renault 4CV (フランス製・バンパー延長なし).jpg 
写真の車は日野自動車が、フランスで造られた完成部品を使って国内で組み立てた最初期の「4CV」だ。すべての部品がフランス製だから本国製のように見えるが、右ハンドルなので日本製だ。もう一つ、本国製と違うのはバンパーに張り出しを付けて全長を伸ばしている事だ。当時の「道路交通取締法施行令」では全長が3.8メートル以下の場合、最高速度を10キロ引き下げられてしまうため、54年からは張り出しバンパーで全長3610ミリを3845ミリに伸ばしていた。53年型のこの車はそれに準じて改造したものと思われる。6本ヒゲは日野自動車が組み立てを開始した1953年迄で54年からは3本ヒゲになるので希少モデルだ。

  (写真01-2abc) 1955 Hino-Renault 4CV (PA55)            (19559年 静岡市内)
(01-2a)(040-31) 1954 Hino-Renault 4CV (PA55).jpg

(01-2b)(040-32) 1954 Hino-Renault 4CV (PA55).jpg

(01-2d)(003-01 1954-57 Hino-Renault 4CV(1958年・静岡信金裏/城代橋、教育会館) .jpg
静岡市内で撮影したこの写真は、このコーナーのタイトルで使用されているのでお馴染みの物だ。左の交差点を渡った2軒先が当時の勤務先で、写っているカメラ屋さんはこの写真の現像もお願いした店だ。昭和30年代前半はまだ映画全盛時代で、街角のあちこちにポスターが張り出されていたころの懐かしい風景だ。1954年ヒゲが3本となり、「PA54」となったが、54年型はグリル中のエンブレムが丸型なので菱型のこの車は55年型だ。

    (写真01-3ab) 1957 Hino-Renault 4CV (PA57)     (1958年 静岡市内)
     (01-3a)(006-03) 1957-63 Hino-Renault 4CV(PA57) (2).jpg

     (01-3b)(039-11) 1958 Hino-Renault 4CV.jpg
これまでに全部品の国産化が完了し、1957年のモデル・チェンジに際しては日本独自のアイデアを加えた本国とは別の物となった。最もわかり易いのはグリルで、外周が繫がっているのは日本仕様の特徴で、本国製は最後まで3本ヒゲのままだった。このモデルからリアウインドが拡大された。

(写真01-4ab)1959 Hino-Renault 4CV              (1981-05 筑波サーキット)
(01-4a)(81-07a-12) 1959 Hino-Renault DeLuxe.jpg

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この車は現役ではなくイベントで撮影したものだが、僕がこの車を街中で見かけた中ではこの色は見ていない。1960年代初めには、小さいながら4ドアなのでタクシーとしてもかなり街中を走っていた。僕も利用した記憶があり、「小型」で初乗りは確か60円か70円だったと思う。・

(写真01-5ab) 1962 Hino-Renault 4CV (PA62)      (2007-04トヨタ自動車博物館/名古屋)
(01-5a)07-04-07_414 1962 Hino Renault 4CV AP62型(日野ルノーの最終モデル).JPG

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フランスの「ルノー4CV」は1961年で生産を終了していたが、名古屋のトヨタ自動車博物館に展示されている車は、62年型の「PA62」だ。という事は本国で生産が終了した後も日本では引き続き生産されていたもので、この車が日野製ルノーの最終モデルとなった。

(写真01-6abc) 1958 Kyousin-Renault 4CV(改)           (1961-04 港区六本木)
(01-6a)(057-22) 1958(推定)Kyousin-Renault 4CV(改).jpg

(01-6b)(057-23) 1958 Kyousin-Renault 4CV(改).jpg

(01-6c)(057-24) 1958 Kyousin-Renault(改).jpg
ルノー4CVが活躍していた1960年前後は、スポーツカーと言えば進駐軍の持ち込んだ「MG」にたまに出会う程度で、アメリカの「コルベット」などは雑誌で見て憧れる対象だった。写真の車はベースとなった車が「ルノー4CV」だと言われてもその面影すら見いだせないほど見事に変身しているが、明らかに「コルベット」を意識したものだ。世界的には4CVのスポーツバージョンは「アルピーヌ」が知られているが、その最初のモデル「A106」よりずっと完成度が高い。

(写真01-7abc) 1958 Kyousin-Renault 4CV (改)        (1959年 清水市・狐ヶ崎遊園地)
(01-7a)(036-33) 1958 Kyousin-Renault(4CV改).jpg

(01-7b)(036-32) 1958 Kyousin-Renault(4CV改).jpg

(01-7c)(036-31) 1958  Kyousin-Renault(4CV改).jpg
この車は個人が特注でカスタマイズしたものではなく、「共進ルノー」というところで何台か量産したようだ。フロントグラスはヒルマンのリアウインドから転用したらしく、限られた資材と条件の中での苦心作だ。

(写真01-8ab) 1961 Hino Contessa 900 (PC10)          (1961-04 港区・赤坂溜池)
(01-8a)(056-37) 1961 Hino Contessa 900 4dr Sedan(初代).jpg

(参考) 1961 BMW 700 Coupe
(01-8b参考) 1959-65 BMW 700 Coupe.jpg
1953年ルノーのノックダウン組み立てから小型乗用車の製作を始めた日野自動車は、1957年には部品の完全国産化を達成したが、それ以前の1956年から自前の車造りの計画が始まっており、1958年1月には試作1号車が完成、3年後の1961年4月になって市販を開始した。普通なら試作車が完成していれば何処かでPRしそうなものだが、この車に限っては、発売直前の1960年秋のモーターショーにも姿は無かったから、業界人でない僕にとってはいきなりの発表だった。写真は発売のニュースを知った直後に撮影したものだが、まだデーラー・ナンバーが付いた状態の初代モデルで、1962年7月まではターンシグナルがボディサイドに回り込んでいない。外見はルノー4CVとは全く違うが、大きさや基本レイアウトは殆ど変わっていない。この車の第一印象は「おや?どこかで見たような・・」というものだった。実はつい1か月ほど前に路上で見かけて撮影した「BMW700」とパット見た印象がよく似ているのだ。後で判ったことだ、がどちらも「ミケロッティ」のデザインだった。

(写真01-9abc) 1961 Hino Contessa 900 (PC10)    (2007-04 トヨタ自動車博物館/名古屋)
(01-9a)07-04-07_417 1961 Hino Contessa 900(PC10).JPG

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トヨタ博物館が所蔵するこの車もターンシグナルがサイド迄回り込んでいないので紛れも無い初代の車だが、この真っ赤な塗装は街中では出会った事は無い。

(写真01-10a) 1962 Hino Contessa 900 4dr Sedan             (1964-06 軽井沢)
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こちらはエアインテークが長くなり、端に追いやられた「ターンシグナル」が角で折れ曲ってサイドまで回り込んだ1962年型。

(写真01-11a)1964 Hino Contessa 1300 Standard Sedan(1964-06 東京モーターショー・2灯式に注目)(01-11a)(105-07) 1964 Hino Contessa 1300 Standard(2灯式).jpg

(写真01-11b) 1965 Hino Contessa 1300 Deluxe Sedan    (1978-01 東京プリンスホテル)
(01-11b)(320-19)  1965 Hino Contessa 1300 Dx.jpg
1964年9月一回り大きい「1300」が発表された。直線を主体にしたすっきりとしたボディは「ミケロッティ」のデザインで国際的にも高い評価を受けた。前モデルの「コンテッサ900」は手本にしたルノー4CVと同様リアホイールアーチの手前に段を付け、空気取り入れ口を設定していたが、このスタイルはルノーの後継車「ドーフィヌ」や「フロリーダ」と類似するというクレームを受けていたから、新しいモデルでは空気をボディサイドから取り入れることは出来ず、ボディの上部からは「ルノー8」が採用しているのでこれも避けた。結局走行によって取り入れた空気に頼らない方法に落ち着いた。発売当初は「4ドアセダン」のみで、スタンダードモデルの2灯式は極めて珍しい。

(写真01-12abc) 1967 Hino Contessa 1300 Coupe     (2012-12 明治神宮外苑・絵画館前)
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1965年4月になるとよりよりスポーティな「2ドアクーペ」が発売された。キャビンが小さくなった分リアデッキが長くなり後ろ姿が魅力的になった。エンジンの排気量は1251ccで変わらないが圧縮比を8.5から9.0に上げ、55馬力から65馬力となった結果、最高速度も10キロ上がって145kn/hとなった。 .

(写真01-13abc) 1962 Hino Contessa 900 Sprint By Michelotti   (2013-11 明治神宮外苑)
(01-13a)13-11-30_054 1962 Hino Contessa 900 Sprint.JPG

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通常ワンオフのショーモデルはメーカーの依頼によってデザインさてれ、専門のカロセリアで実現化される。しかしこの「コンテッサ900 スプリント」は違う。「ジョバンニ・ミケロッティ」が「コンテッサ1300」のデザインを依頼された際、「コンテッサ900」の大きさとパフォーマンスに目を付け、このクラスのスポーツカーを造りたいと日野の了解を取り付けた。メーカーの意向を汲んで制限内で創るものと違って、自らの発想でスタートしたこのプロジェクトはどこにも破綻が無い。この表現が適切かどうか判らないが「日本臭さが全くない!」まさにイタリアそのものだ。(東京モーターショーで同時に展示されたスカリオーネの手掛けた「プリンス1900スプリント」からは随所に不自然さを感じた)エンジンとサスペンションはチューニング・ショップ「ナルディ」によって整備され、1962年10月には完成した。秋の「トリノ・ショー」に出展されて絶賛をうけ、近い将来イタリアで量産されるだろうと報じられた。その後ニューヨークを始め海外のショーで好評を得て、デビューから1年後の1963年秋、第10回東京モーターショーで初めて日本にお目見えした。ショーの開催日の関係もあったかもしれないが、1年も登場しなかったのは、国内販売の予定が無かったからなのか、メディアの扱いも2番手で、表紙はスカリオーネの「プリンス」が飾り、「コンテッサ」は見開きだった。イタリアで生産する計画はボディを生産する工場との交渉が難航しているとあったが結局実現できなかったから、この車は「プロトタイプ」となれず、「ワンオフのショーカー」で終ってしまった。

(写01-14a~d) 1966-67 Del-Contessa MkⅡ(1966-07 横浜ドリームランド/67-05 フジスピードウエイ)  
       (01-14a)(168-04) 1966 Del Contessa MkⅡ.jpg      

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東京の塩沢商工は1964年第2回日本GPにはコンテッサ900をベースにした日本初のF-Jカー「デル・コンテッサ」を3台走らせている。その後社名は「デル・レーシング・モーターCo.」と変わったが、相変わらずフォミュラカーの製作を続けており、1967年第4回日本GPでもコンテッサ・エンジン2台と、ベレット・エンジン1台、計3台のデル・シャシーが参加している。レースは1300cc以下のFL-Ⅰと1600c以下のFL-Ⅱの混合で行なわれ、写真の⑱真田睦明は総合7位(クラス2位)だった。

(写真01-15ab) 1965 Hino GT Prototype       (1965-11 東京モーターショー/晴海)
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(01-15b)(141-32) 1965 Hino GT Prototype.jpg 
1955年の東京モーターショーで日野自動車のブースに真っ赤なレーシングカーが展示され話題を呼んだ。現代の目から見れば全体のバランスはいまいち垢抜けないが、当時とすればレーシングカーに対する日本のデザイン・センスはこの程度だったのだろう。この車の詳細については何も公表されず、デル・レーシングが3月に構想を発表したGTプロトタイプ「デルRSB」ではないかとの憶測記事が載っていたが詳細は不明。

(写真01-15bc)1966 Hino GT Prototype       (1966-11 東京モーターショー-晴海)
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昨年に続いて日野自動車のブースには「GTプロトタイプ」が展示された。今回は素性がはっきりしており、展示車は8月に富士スピードウエイで開かれた「全日本スポーツカー選手権」で「カレラ6(2ℓ)」「デイトナ・コブラ(4.7ℓ)」に次いで総合3位(クラス優勝)した車だ。エンジンは「コンテッサ1300」のものを1251ccから1273ccに増やしDOHCに改造してある。

(写真01-16ab) 2011 Hino 500 FTレンジャー  (2011-11 東京モーターショー/ビッグサイト)
(01-16a)11-11-30_820 2011 Hino 500FT (Dakar Rally 参加車).jpg

(01-16b)11-11-30_823 2011 Hino 500FT (Dakar Rally 参加車).jpg
小型車造りをやめてしまった「日野自動車」が世界のレースで活躍の場を見付けたのは大型車も参加する砂漠横断レース「パリ~ダカール・ラリー」だった。1979年発足当初は「パリ」を出発しポルトガルからアフリカ大陸へ渡り、サハラ砂漠を縦断して「ダカール」に至る約1万キロに及ぶ過酷なレースだったが政情不安や強盗など治安の悪さもあり、2008年からは南米アルゼンチン~チリ間で行われている。日野自動車は1991年の初参戦から28年間すべて完走しており1997年には総合で1,2,3位独占の快挙をなしとげた。10リッター以下のクラスでは2010年から目下10連勝中だ。2011年は2台参加しており「526」番は総合9位(クラス優勝), 「513」番の展示車は総合13位(クラス2位)だった。尚ダカール・ラリー用の車のベースとなっているのは「消防車仕様」の「FT」タイプだ。

 (写真01-17a) 1956 Hino BH13 Bus               (1958年静岡市内)
(01-17a)501-29 日野BHバス(静岡市江川町交差点より駅方面を望む).jpg
ボンネット・バスの時代も「日野ヂーゼル」はボンネットが長く力強い印象を持っていた。後ろから来るキャブオーバー型は狭い道路も走る「市内循環」で、ボンネット型は長距離だったような気がする。場所は正面奥が静岡駅で、この通りは「御幸通り」と名付けられた駅前大通りだ。

  (写真01-18a) 1956 Hino BD13 Bus                (1958-08 静岡市内)
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エンジンが足元にある「ボンネット・バス」に変わって日野が開発したのが「センター・アンダフロア・エンジン」方式だ。読んで字のごとく水平対向の薄型エンジンがお腹の下にあるから、低い重心、良好な前後のウエイトバランス、広い室内と自由なレイアウトが可能、と多くの利点がある。しかしこの方式を採ったのは日野だけで、他社は「リア・エンジン」を採用した。(日野の特許だったのか) この床下タイプが「BDシリーズ」で「ブルーリボン」の愛称で呼ばれた。写真はプライベートのアルバムにあったもので、リクリエーションで海水浴に行くため当時の勤務先の職員通用口に横付けされている。

(写真01-19ab) Hino 消防自動車                    (2014-05 千葉市内)
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消防自動車は大幅に改造されたボディが乗っているので原形が判らない。使用期間が長いので年式の確認が難しい。この車はグリルや窓の形、3連ワイパーなどの特徴は「プロフィア」だが、大きさは「レンジャー」クラスだ。窓周りはレンジャーにも該当するのでグリルだけ換えたのか、それともプロフィアを低く、短く切り詰めたのか、この種の車の知識が乏しい僕には解決不能だ。

(写真01-20abc) Hino 消防自動車(はしご車)        ( 2020-02 浅草・浅草寺境内)
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(参考) 1955 MercedesBenz Hightspeed Racing Transpoter
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浅草寺に行ったとき偶々作業中のはしご車に出っくわした。この車の第一印象は参考に添付したメルセデスベンツ300SL専用の搬送車を連想した。極端に前に突き出した運転席は感覚をつかむのが難しそうだ。この車も正面に「HINO」と入っている以外何も判らない。

  (写真01-21abc) 2007~ Hino Profia Super Hight Roof Truck (2013-11 神宮外苑)
      (01-21a)13-11-30_387 2007~ Hino Profia Super Hight Roof Truck.JPG

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最後は現在の「日野自動車」を支える大型トラックのトップモデルの登場だ。ナンバーからも判るように、毎年神宮外苑で開催されていた「トヨタ自動車博物館」のクラシックカーイベントに参加する車を何台か積んで運んでくる車だ。後ろの扉が縦に開いて、積み下ろしの際踏板になるようだ。
 


(02) <イスパノ・スイザ> (西・仏)

「Hispano‐Suiza」はハイフンで結ばれているように「スペインとスイスの」両国が関わって設立された。原点は1898年スペイン人「エミリオ・デ・ラ・クアドラ」が、スイス人技術者「マルク・ビルキヒト」と共に立ち上げた電気自動車の「ラ・クアドラ」から始まった。1902年経営者が「ホセ・マリア・フェルナンデス・カストロ」に変わり、社名も「ファブリカ・イスパノ・スイザ・デ・オートモビル」と変わったが、僅か1年で倒産、しかし翌1904年には同じメンバーで「ラ・イスパノ・スイザ・ファブリカ・デ・オートモービル」として再建、ようやく大型自動車のメーカーとして量産が始まる。これと並行して少数ながらレーシングカーや高級乗用車が手造りされたが、1910年のロト杯で優勝したレーシングカーを基に造られたスポーツ・バージョンが「T15」で、のちに後援者スペイン国王の名を冠して「アルフォンゾⅩⅢ」(13世)と呼ばれ初期の最高傑作と言われて、今ではスポーツカーの始祖の1台に数えられている。1911年にはフランスに販売代理店を置き組み立て工場を持ったが、1914年パリ郊外に大きな生産工場を造り「高級乗用車」はここで生産され、そして大型トラックはスペイン工場で生産された。だから我々が見ている「イスパノ・スイザ」は実は「フランス製」なのである。 

<T15 アルフォンゾ13世>  (1911~14)
(写真02-1ab) 1912 Hispano -Suiza Alphonse ⅩⅢ    (2002-02 フランス国立自動車博物館)
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(02-1b)02-03-10b) 1912 Hispano-Suiza Alphonse ⅩⅢ.jpg
ボディがほとんどないに等しいこの車は「アルフォンゾⅩⅢ」だが、原形となった「ロト杯」で優勝したレーシングカーを連想させる。当時はシャシーにシートを付けただけという感じだったからこの車もフェンダーを外せば立派なレーサーだ。

(写真02-2ab) 1912 Hispano-Suiza Alphonse ⅩⅢ         (2007-04 トヨタ自動車博物館)
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トヨタ博物館の車は同じ年式ながら立派なボディが付いたツーリングカーで、古い写真はもしかしてこの車の現役時代の物ではないかと参考に添付した。後ろのシートは一人のようだ。

(写真02-3ab) 1912 Hispani-Suiza AlphonseⅩⅢ        (2007-06 イギリス自動車博物館)
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(02-3b)07-06-25_227 1912 Hispano Suiza Alfonso XⅢ.JPG
今まで見た中では最大のヘッドライトを持つのがこの車だ。トヨタ博物館の車はまだランプ式のようだが、こちらは電気式のようだ。ボディはほとんど同じだがこちらには幌が用意されている。

(航空エンジンとコウノトリ)
イスパノ・スイザのマスコットに「コウノトリ」が使われるに至った経緯は飛行機と大きな関わりがあった。第一次世界大戦の開戦と同時にスペインに 住まいを移していたビルキヒトは、政府の要請で航空エンジンの国内生産の対象として、当時人気のあった水冷式の「ダイムラー・エンジン」のライセンス取得を検討していた。当時の航空エンジンの主流は「回転式」と呼ばれる星形で、シリンダーとプロペラが一体となり、機体に固定されたクランクシャフトのまわりをエンジン本体が回転するものだった。水冷エンジンに比べて「薄く軽い」「エンジンが回る事でフライホイールが不要」「冷却効果が高い」などの利点があったが、「出力に限界がある」「遠心力で潤滑が平滑に行えない」「重量物の回転で生じるジャイロ効果が操縦性に悪影響を与える」などの欠点があったため、再び固定式の水冷エンジンが見直されて来た時期だった。そこに登場したのが水冷・直列エンジンだが、航空機にとって最大の欠点となる「重量」が重すぎた。そこで「ビルキヒト」は自ら新しいエンジンを設計することになった。重量軽減に対しては、「アルフォンゾⅩⅢ」のように下半分を「軽合金」とする。長さについては「V型」で「直列」の半分に出来る。潤滑を要する箇所はカバーされ「強制潤滑」とする。このような構想のもとで始動した「150HP」エンジンは、1914年10月設計が始まり、最初のテストの結果を見て「ビルキヒト」は、フランス政府の工業省にも連絡したが、当時のフランス政府は国内の多くのメーカーに資金を投じて開発を進めていたから、外部からの売込みには関心を示さなかった。しかし一部ではこれを検討すべきとの意見もあり2名がバルセロナに派遣され、ベンチテストの結果を見て2号機を購入、1915年7月エンジンはパリに到着した。そこでの厳格なテストに合格し、まず50基の発注を受けた。これに対して「アルミの耐久性」に問題ありとライバルメーカーの抗議運動がおこり、1915年12月「50時間の信頼性テスト」が行われたが何の問題も起きなかった。この結果かえって注文が増え、「スペイン」「フランス」のほか「アメリカ」「イギリス」「イタリア」「日本」などでもライセンス生産が行われた。大戦中に約5万台が生産され、連合軍側の固定エンジン機の50%が「イスパノ・スイザ」のエンジンを搭載していた。
・このエンジンを搭載したのがフランス空軍の主力戦闘機「スパッドⅦ」で、その第3中隊に属していたのが空の英雄、54機を落とした撃墜王「ジョルジュ・ギヌメール」だった。この中隊は識別マークとして機体に「幅広い黒い帯」を描き、「ブラック・ギャング」と名乗っていたが、ある時 格納庫の塗装の為やってきた兵隊の1人が、すでに撃墜数で頭角を現していたギヌメール軍曹に、「コウノトリ」を書いたらどうかと勧めてそれが実現した、という話が残っている。これを見た隊員たちも、自分の機体に書いてもらおうとしたが、発案者は既に仕事を終えて移動した後だったので、ギヌメールの機体から型を取って同じものを描いた。(別の中隊でも「コウノトリ」を採用したが飛行形態が異なる)
・戦後自動車の生産を再開した際、修理工場長だった「ルイ・マッシュジェル」は、イスパノ・エンジンの「スパッドⅦ」で54機撃墜して戦死した「ギヌメール大尉」の功績を記念するため、新しい車のラジエターキャップに彼を象徴する「コウノトリ」を用いることを提案した。これに基づいて彫刻家「フランソワ・バザン」に手で完成したのが「芸術品」コウノトリだ。      (02-16a)IMG_20191214_0001.jpg 第一次世界大戦時のフランス空軍「スパッド中隊」の各種マーク       (02-16b)IMG_20191214_0001.jpg                                                                       (02-16b2)IMG_20191220_0001.jpg ギヌメール大尉の愛機「スパッド」に描かれた「コウノトリ」 (02-16c)04-36-10b 1933 Hispano-Suiza J12.jpg
車のマスコットになった「コウノトリ」

< H6B・32CV /H6C・46CV > (1919~33)

(写真02-4a)1922 Hispano-Suiza H6B Saouchick Cabriolet deVille
(02-4a)(95-27-30) 1922 Hispano Suiza H6B Saouchick Cabriolet de Ville.jpg

(写真02-4b) 1922 Hispano-Suiza H6B Labourdette Skiff
(02-4b)(95-13-14) 1922 Hispano-Suiza H6B Labourdette Skiff.jpg

(写真02-c) 1925 Hispano-Suiza H6B Touring
(02-4c)(90-28-04 1925 Hispano-Suiza H6B.jpg

(写真02-4d) 1927 Hispano-Suiza H6B LeBaron Full Collapsible Cabriolet
(02-4d)(98-11-25) 1927 Hispano-Suiza H6B Full Collapsible Cabriolet by LeBaron.jpg
ここに紹介した4台はいずれも同じシャシーから生まれたもので、当時の高級車の伝統に従って名のある「カロセリア」で素晴らしいボディが架装されている。第一次大戦後に開発された「H6シリーズ]」(32CV)のエンジンには「150HP」航空機エンジンで培われたノウハウが取り込まれた。

(写真02-5ab)1927 Hispano-Suiza H6B 32CV Fountain Tourer  (2000-06 グッドウッド)
(02-5a)00-44-26) 1926 Hispani-Suiza H6B Tourer.jpg

(02-5b)00-44-28) 1926 Hispano-Suiza H6 Tourer.jpg
イギリスで展示されていたこの車は、ナンバープレートからも判るように新車当時から日本にあった車だ。早川佐七⇒山口勝蔵⇒濱徳太郎とオーナーを経て戦後まで生き延びた。戦前撮影された写真には紛れも無くこのナンバープレートが付いていた。

(写真02-6ab) 1925 Hispano-Suiza H6B Loweree & Tod Skif      (1999-08 ペブルビーチ)
(02-6a)(99-33-36E) 1925 Hispano Suiza H6B Loweree & Todd Skiff.jpg

(02-6b)(99-34-09) 1925 Hispano Suiza H6B Loweree & Todd Skiff.jpg
「重厚さ」に重点を置いていたこれまで紹介した車に対して、この車は「軽快さ」が売りだ。「スキッフ」と呼ばれるボディの形態は小型ボートになぞらえたもので、フェンダーは波を表している。変わった形だがかなり流行ったスタイルだ。

(写真02-7a) 1924 Hispani-Suiza H6C Nieuport Tulipwood Racer (1991-03 ワールド・ビンテージカー展示会/幕張)
(02-7a)(91-09-07 1924 Hispano-Suiza H6C Nieuport Turipwood Racer.jpg
知る人ぞ知るこの車は、イスパノの変わり種として古くから有名な車だ。形もさることながら一番の特徴はその「外皮」で、一般には「チューリップ・ボディ」と呼ばれている。「ユリノキ」(Tulipwood)の小さな木片を、アルミ・ボディにリベット付けしてあるので、珍しさと美しさが人目を引く最大の特徴だ。リキュールやワインで知られる「デュボネ」一族の「アンドレ・デュボネ」が自分のために造ったタルガ・フローリオ仕様のスペシャルで、4人乗りで総重量1000ポンド以下という厳しい条件に果敢に挑戦したのが、フランスの「ニューポート・エイビエイション社」(Nieuport Aviation)だった。多分第一次大戦でフランス空軍の戦闘機「ニューポール」(Nieuport)を造っていた会社ではないかと思われる。


< J12 Type68・54CV >(1932~38)
(写真02-13a~c) 1933 Hispano-Swiza J12 (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード・イギリス)
(02-13a)04-34-21 1933 Hispano-Suiza J12 Sport Torpado.jpg

(02-13b)04-34-18 1933 Hispano-Suiza J12.jpg

(02-13c)04-34-19 1933 Hispano-Suiza J12.jpg
高級車として世界で認められている「イスパノ・スイザ」だが、一寸意外なのは第一次大戦後から生産終了までにベースとなったのは「H6」「J12」「K6」と僅か3タイプしかなかった事だ。世界中の著名な「カロセリア」が腕を競って送り出した多くの車が、それぞれ個性の強い印象を与えたから、いろいろな「イスパノ・スイザ」を見たような錯覚に捉われたのだろう。中でも最高のグレードを持つのがこの「J12」シリーズで、2ドアながら、大きさを感じさせない引き締まったバランスは見事だ。

(写真02-14ab) 1934 Hispano-Swiza J12 Fernandez & Darrin Coupe de Ville (2004-08 ペブルビーチ)
(02-14a)04-72-16 1934 Hispano Suiza J12 Fernandez & Darrin Coupe de Ville.jpg

(02-14b)04-72-15 1934 Hispano-Suiza J12 Fernandez & Darrin Coupe de Ville.jpg
クラシカルなスタイルが多い「イスパノ・スイザ」の中でも1930年代にはこんなモダンな車もあった。燕尾服かペンギンのようなテールが特徴だが、「クーペ・ド・ビル」というボディスタイルは馬車時代の名残で、馭者席(ぎょしゃ)は屋根の無いのが本式だ。

(写真02-15abc) 1935 Hispano-Swiza J12 Vanvooren of Paris Pillarless Berline (1998-08 1ブルックス・オークション)
(02-15a)(98-09-23) 1935 Hispano-Suiza J12 Pillarless Berline by Vanvooren of Paris.jpg

(02-15b)(98-09-24) 1935 Hispano-suiza J12 Pillarless Berline by Vanvooren of Paris.jpg

(02-15c)(98-09-25) 1935 Hispano-Suiza J12 Pillaeless Berline by Vanvooren of Paris.jpg
V12気筒のエンジンを持つ車はそれだけで格上の高級車の証だ。思い付いただけでもアメリカでは「キャディラック」「リンカーン」「ピアスアロー」「パッカード」、イギリスでは「デイムラー」「ロールス・ロイス」、ドイツでは「マイバッハ」「ホルヒ」と名前を聞けば納得だ。これらと比肩する「イスパノ・スイザ」だが、不思議なことに高級車の定番「リムジン」は僕が出会った中にはなかった。写真のこの車も堂々たるクローズド・ボディだが「ピラーレス・ベルリーヌ」とあるので、運転席との間にパーテーションの無い開放的な室内を目指したものだろう。


< K6 30CV > (1934~38)
(写真02-9ab) 1934 Hispano-Swiza K6 Fernandez & Darrin Coupe Chautteur (2004-08 ペブルビーチ)
(02-9a)(04-72-13) 1934  Hispano-Suiza  K6 Fernandez & Darrin Coupe Chauffeur.jpg

(02-9b)(04-72-14) 1934 hispano Suiz K6 Fernandez & Darrin Coupe Chauffeur.jpg
「J12」の項で戦後のモデルが3タイプと書いたが、実は1930年に経営不振の「バロー」社を救済するため、そのシャシーをつかって4.6リッター26CVの「ジュニア」シリーズという普及版を発売していた。別名「イスパノ・バロー」と呼ばれたこの車は「イスパノもどき」と評価され失敗に終わった。1933年には高品質ではあるが、高価なうえ発売から10年も経って時代遅れになってきた「H6]シリーズの生産を中止、これに変わって「K6」シリーズを登場させた。超高級車「J12」シリーズをイメージ・リーダーとしつつ、コストダウンを図った普及版「K6」シリーズを売り出そうという戦略だった。世間では流線形の時代に入りつつある中で、「イスパノ」の保守的なデザインはむしろ車の格に相応しい威厳があり、品質の面でも普及版といえども大量生産で生み出される一般の物に較べればはるかに高い水準を維持したものだった。外観だって一流のカロセリアが手掛けた立派なボディが乗っていれば疑う余地のない高級車だ。

(写真02-11ab)1935 Hispano-Swiza K6 Cabriolet (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
(02-11a)00-46b-19) 1935 Hispano-Suiza K6 Cabriolet.jpg

(02-11b)00-46b-18) 1935 Hispano-Suiza K6 Cabriolet.jpg
2ドアのキャンバストップにランドウジョイントが付いたカブリオレだ。特に派手さは無いが、リアフェンダーに大きなクロームの飾りがついているのは何となくフランス的な感じだ。

(写真02-12a~e)1935 Hispano-Swiza K6 30/120CV  (1966-02 駒沢公園/2012-04 日本橋)
(02-12a)(144-32) 1935 Hispano-Suiza K6 30/120CV.jpg

(02-12b)10-04-04_126 1935 Hispano-Suiza K6.JPG

(02-12c)10-04-04_129 1935 Hispano-Suiza K6.JPG

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(02-12e)12-04-21_167 1935 Hispano Suiza K6.JPG
この車こそ「イスパノ・スイザ」というレアな高級車を車好きな日本人に知らしめた功労者だ。戦前5台は存在が確認されていたイスパノ・スイザだが、戦後我々の前に姿を見せたのはこの車だけだった。鍋島侯爵が自ら設計し自宅で職人に造らせた話は有名だ。現在は名古屋のトヨタ博物館で完全にレストアされた形で保管されている。僕は博物館のご厚意で殿様が覗いたといわれる小窓から外を見たことがある。

―― 次回はホールデン、ホルヒ、オチキス、ハドソン、他の予定です ――

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第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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