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第87回 シトロエン トラクシオンアヴァン
2019.10.31

 今回はプジョー・シトロエン・ジャポン株式会社が開催した、シトロエン創業100周年記念イベント「CITROËN CENTENARY GATHERING(シトロエン・センテナリー・ギャザリング)」に展示されたクルマの1台、シトロエン トラクシオンアヴァンについて紹介する。
 いまでは、前輪駆動(FF)もモノコックボディーもごく当たり前に使われているが、いまから85年前の1934年5月、アンドレ・シトロエン(André Citroën)が世界初となる、大量生産による超革新的なFFモノコックボディーのクルマ「トラクシオンアヴァン」を発売した。もちろんFFはそれ以前からいくつかのメーカーが発売していたが、いずれも大量生産には至らなかった。
 シトロエンは理想のクルマを造るために、ジャヴェル河岸工場の生産を止めることなく、1933年4月から9月にかけて大規模なリノベーションを実施し、12万平方メートルの近代的な工場を建設した。しかし、工場建屋や新しい機械を導入するなどの設備投資に資金を使いすぎ、財政的に破綻してしまう。銀行、政府の支援も得られず、1934年も終わるころ、経営権は筆頭株主であったミシュランの手に渡ってしまう。心労と失意のためかアンドレ・シトロエンは病を得て1935年7月3日に亡くなってしまった。57歳であった。

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会場に展示された1952年シトロエン トラクシオンアヴァン 11BL。エンジンは1911cc直列4気筒OHV 55馬力を積み、サイズは全長4450mm、全幅1680mm、全高1540mm、ホイールベース2910mm、トレッド(前/後)1490/1470mm、車両重量1120kg、最高速度112km/h。
 展示車両に添えられていた解説文をそのまま引用すると、
「シトロエン100年の歴史において、前衛をまさに体現したのがトラクシオンアヴァンであった。当時の最先端技術の集約であり、実用化されていなかった技術で構成されていた。それでいてそれらの技術は、その後の自動車設計の主流になるものばかりだった。自動車設計においてもとびぬけて"前衛"にいたのである。その技術は、当時の自動車産業をリードしていたアメリ力からもたらされたものが多いものの、ヨーロッパで誕生した新技術も盛り込まれ、まさに欧米の自動車最新技術の集大成といってよいだろう。まさに革新性を信条とするアンドレ・シトロエンの真骨頂である。スタイリングを担当したのは、フラミニオ・ベルトーニ。従来のロザリーなどに比べればスムーズだが、1930年代後半に流行する流線型デザインと比べるとオーソドックスだった。
 新技術としては、前輸駆動とモノコックボディがまず筆頭に挙げられる。前輪駆動が世界中に普及するのは1970年代のことだから、シトロエンはまさに40年リードしたのだった。モノコックボディの採用は、近代的大量生産車としては世界初である。このふたつを組み合わせることで、フレームレスかつプロペラシャフトのない軽量で低い車体が実現でき、生産工程のコストやランニングコストの点でも合理化される。前輸駆動には操縦安定性の良さというメリットもあり、重心の低さとあいまってトラクシオンアヴァンのロードホールディングの良さは際立っていた。このほか前輸ダブルウイッシュボーンやトーションバー・スプリングを用いたサスペンション、油圧式プレーキ、ラックアンドピニオン式ステアリングなど、ことごとく当時世界の先端を行き、かつその後の主流となる技術を採用していた。
 新技術ばかりで導入当初はトラプルもあったが、基本的にたしかな設計がなされていたため、その後適切に対処され、市販車として成功を収めた。最初は7CVのモデルが発売され、7/11/22の3モデルが投入されることがアナウンスされていた。しかしV8エンジンを積む22CVはさすがに計画が中止され、代わりに6気筒の15 Sixが加えられることになる。戦後は11と15 Sixだけが残り、DSが登場するまで長く生産された。少なくとも戦後、見た目は古くなったが、その中身の先進性は最後まで失われなかった。また、クーぺや力プリオレといった優美な2ドアも存在、ロングホイールベース仕様では3列シートのタクシー版やテールゲートが開く商用のコメルシアルなども設定されていた。
 トラクシオンアヴァンは、逃げるギャングと追う警察の両方が使ったというのは有名な逸話で、そのロードホールディングの良さを物語っている。また、戦時中はレジスタンスの車両として使われたことは語り草で、戦後はシトロエン社もそれを広告でPRしたりしていた。トラクシオンアヴァンは、車高が低いことを除けばー見平凡な停まいだが、実に非凡な存在なのである。」

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シトロエンはヨーロッパでいち早く全鋼製ボディーを採用したメーカーであった。アメリカの全鋼製ボディーのパイオニアであるバッド社(Budd Company:1912年にEdward G. Buddによって設立)のライセンスによって生産された。左は1932年のパリ・モーターショーで発表された10馬力の広告で「CITROËN Tout acier(All steel)」とある。右は10馬力と同時に発表された8馬力で、屋根の上にバスと大勢の人を乗せて全鋼製ボディーの強度を誇示しているところ。いまでも、スチール物置のテレビコマーシャルで「100人乗っても大丈夫」と、同じ手法が使われている。

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フレーム付きのFR車からFFモノコックボディー車への変化の過程を示した図。上からフレーム付きFR車、フレーム付きFF車、フレーム付きFF車だがフロアをフレームの下面まで下げたもの、そして、最下段がFFモノコックで、フラットなフロアと低く低重心なクルマとなる。

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見たところ旧式なクルマに見えるが、空力への対応も怠りなかった。この頃、空力の主眼は空気抵抗をいかに小さくするかであって、アメリカの代表的な例がクライスラー/デソート・エアフローであった(M-BASE 第17回 アメリカ車 :序章(5)1934~37年クライスラー・エアフロー参照)。

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「L'ILLUSTRATION」誌1934年10月13日号に掲載されたシトロエン・トラクシオンアヴァンの広告。「シトロエンはすべてのモデルに前輪駆動を採用しています。シトロエン 7は5月から8月に2万台が納車されています。・・・」とある。7 ベルリーヌは1934年5月に発売され、最高速度100km/h、車両重量900kg、燃費100km/8ℓ。11 ベルリーヌは1934年9月に発売され、最高速度110km/h、車両重量1050kg、燃費100km/11ℓ、生産台数100台/1日。そして最後に、V型8気筒エンジンを積む、22 ファミリアルは1934年10月に発売され、最高速度140km/h、車両重量1200kg、燃費100km/16ℓとあるが、生産されることなく幻のクルマとなってしまった。理由は1932年型フォードに採用されたV8エンジンをお手本にして作ったエンジンが、満足できるレベルに達しなかったのと、サスペンションにも問題が発生してしまったことに加えて、経営権がミシュランに移ったことで「プロジェクト22」はキャンセルされてしまった。

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シトロエン22のプレスフォトの1枚で、4ドアベルリーヌ。3822cc V型8気筒OHV 100馬力エンジンを積み、ホイールベース3150mm(ファミリアルは3330mm)、車両重量1250kg、最高速度140km/h。価格は3万2000フラン。ほかに、ファミリアル(3万5000フラン)、リムジン(3万3500フラン)、フォーカブリオレ(3万3500フラン)、ロードスター(3万4000フラン)、3人乗りクーペドヴィル(3万5000フラン)、5人乗りクーペロング(3万8000フラン)が予定されていた。(Photo:Citroën)

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「操縦性、ハンドリング抜群の前輪駆動を採用した、まったく新しいデザインのシトロエン7」とうたった初期の広告。最後に「即納」とある。価格は1万7700フランであった。

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1934年の発表会の様子。(Photo:Citroën)

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シトロエン7のカタログ。7のエンジンは4種類あり、いずれも直列4気筒OHVで、1934年7Aには1303cc 32hp/3200rpm、1934~35年7Bには1529cc 35hp/3200rpm、1934年7S(Sporty)には1911cc 46hp/3800rpm、1934~38年7Cには1628cc 36hp/3800rpmが積まれていた。サイズは全長4450mm、全幅1680mm、全高1540mm、ホイールベース2910mm、トレッド(前/後)1340/1320mm、車両重量900kg、最高速度95km/h(7A/7B)/105km/h(7S)/100km/h(7C)。

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1934年に英国のバッキンガムシャー州スラウ(Slough)(1974年の地方制度改革でバッキンガムシャー州はスラウとイートンをバークシャー州に譲っている)のシトロエンから発行された「トゥエルブ」(7を英国ではトゥエルブと称した)のカタログ。表紙は仏語版のステアリングホイールを左から右に修正しているが、中身のクルマの写真は裏焼で左ハンドルを右ハンドルに変更している。

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1934年トゥエルブのフロント周り。4輪油圧ブレーキ、ステアリングはウォーム&ローラー式(1936年にラック&ピニオン式に換装される)、この絵でははずされているがダンパーはフリクションタイプであった。ドライブシャフトのジョイントは、ホイール側にはツェッパ式(チェコ人のAlfred H. Rzeppaによって考案されたもの)等速ジョイントが採用されているが、耐久性がなく、その後ダブルフック式に換装されている。ツェッパ式はその後改良され、現在FF車に採用されているBJ(Ball fixed Joint)に発展する。デフ側のジョイントは等速ジョイントではないカルダンジョイントが採用されている。

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カルダンジョイントとツェッパ式等速ジョイントを採用した、初期のシトロエン トラクシオンアヴァンのドライブシャフト。カルダンジョイントに折れ角が発生すると入力側と出力側に回転差が生じる。したがって、前輪操舵をする限り、等速ジョイントなしでは前輪駆動は成り立たない。

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カルダンジョイントの不等速運動を示すグラフ。例えば、折れ角が40°で入力側が1000回転の時、出力側は1回転に2回770~1300回転の間を変動する。直進時には我慢できるかもしれないが、旋回時には激しい振動を発し使い物にならない。

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トラクシオンアヴァンのエンジンはシトロエン初のOHVと脱着可能なシリンダーライナーを採用している。トランスミッションはアンドレ・シトロエンの、誰でも運転しやすいようにとの配慮から、フランスのセンソー・ド・ラヴォー(Sensaud de Lavaud)製オートマチックトランスミッションの採用が検討されたが、満足な動力性能が得られず断念し、3速マニュアルトランスミッション(2、3速はシンクロ付き)が採用された。トラクシオンアヴァンのエンジンには、1932年型でクライスラーが採用したスプリングや防振ゴムを使ったエンジンマウント方式「Floating Power」が採用されていた。従来は直接シャシーに固定されていたエンジンを、スプリングを介して固定することでボディーへの振動の伝達を排除する、今では当たり前のことが、当時は画期的なことであった。「Floating Power」はクライスラーの特許であった。

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トラクシオンアヴァンの運転席。トランスミッションのシフトレバーはダッシュボード上にあり、下にはステッキタイプのハンドブレーキレバーが見える。前席の足元には何もなく、左右の移動も容易とある。

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トラクシオンアヴァンの後席。フラットなフロアで3人がゆったりと座れる。リアシートバックを跳ね上げるとラッゲージブーツが現れる。雨漏れ、盗難防止のために良いとあるが、出し入れは不便であり、1936年には後部にトランクリッドが追加されている。

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1935年の7と11のカタログ。以下、表紙を含め3番目を除く14点はこのカタログから抜粋したもの。

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ロールオーバーテストの様子と、テスト後の実車を展示している。このテストはバッド社のテストメニューに含まれているとみられ、早くからバッド社と協力関係にあり、1923年型にアメリカ初の全鋼製クローズドモデルを発売したダッジ、1934年型クライスラー/デソート・エアフローなども同様のテストを実施して宣伝に活用している。

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「生産手段」のタイトルが付いた頁には、トラクシオンアヴァンのモノコックボディー溶接作業の様子が載っている。大掛かりな設備が必要だったのが分かる。

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「いくつかの数字」のタイトルが付き、工場群の規模、1万6000の工作機械、2万メートルに及ぶコンベア、2万5000人の労働者などの数字をあげてシトロエンの実力を誇示している。写真は新しいジャヴェル河岸工場で、このラインの長さは300mある。

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フロントサスペンションを前から見た絵で、ダブルウイッシュボーンのロアアームの支点となる部分にトーションバーが装備され、その先端にフリクションダンパーが見える。ドライブシャフトの車輪側のジョイントはツェッパ式からダブルフック式に変更されている。ダブルフック式では2個のカルダンジョイントを並べ、それぞれの折れ角が面対称(鏡像関係)になるよう設計されている。デフ側にはカルダンジョイントが使われており、デフの中心線とドライブシャフトの中心線がなるべく一直線になるように設計されているのが分かる。ドライブシャフトはスプラインで伸縮する。
 余談だが、現在多くのFF車がデフ側に採用している等速ジョイント、DOJ(Double Offset Joint)を最初に採用したのは、1965年10月に発表(発売は1966年5月)されたスバル1000であった。富士重工業(現在はSUBARU)は1963年に英国のハーディスパイサー社(Hardy Spicer Co. Ltd.)と提携したNTN社に等速ジョイントの開発を依頼したが、デフ側のジョイントの開発は難航していた。1965年9月にNTN社から、当時提携していた英国GKN(Guest, Keen & Nettlefolds)社のマイクロフィルムの中から、試作されたこともないDOJの原案(スケッチ)を発見したと提案があり、大至急試作依頼して完成したのはスバル1000発表の3週間前であった。早速実車に取り付け旋回走行したところ、夢のような滑らかな動きであり、DOJが世界で初めて商品化された瞬間であった。 

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トラクシオンアヴァンのモノコックボディーはスカットルでおわり、そこから前方に頑丈なエクステンションが伸びる。エンジン、トランスミッション、デフ、ステアリング、フロント足回りなどはすべてサブフレームに固定され、ボディーとは左上の絵が示すように4本のボルトとナットで固定される。

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ダブルウイッシュボーン+トーションバー・スプリングによる独立懸架フロントサスペンション。6枚のブレードが付く丸型のパーツはトーションバー先端に装着されたフリクションダンパー。

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トラクシオンアヴァンの底面はびっくりするほど平たくすっきりしている。フロントサスペンションのロアアームの支点から後方に伸びる2本のトーションバーが見える。リアサスペンションはトレーリングアームとダイアゴナルリンクによるリジッドで、スプリングは横置きのトーションバーによる。リアホイールハブはアクスルチューブに対して、軸方向に若干スライド可能であり、片輪が持ち上がったとき、独立懸架に近い作動をするということで「セミ独立懸架」と称していた。リアにはオイルショックアブソーバーが装着されていた。なお、ブレーキはロッキードの油圧ブレーキが4輪に装備されていた。

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上の6点はボディースタイルのバリエーションを紹介している。上からカブリオレ、フォーカブリオレ(フォーは偽、見せかけの意味で、屋根は開かず実質はクーペ)、5人乗りベルリーヌ、カブリオレ、6人乗りベルリーヌ、9人乗りファミリアル。ファミリアルのサイズは全長4858mm、全幅1790mm、全高1570mm、ホイールベース3260mm、トレッド(前/後)1480/1460mm、車両重量1171kg。

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戦後の1947年ごろオーストラリア・メルボルンのコモンウエルス・モーターで発行された「ライトフィフティーン」(英国および関係国での11の呼称)のカタログ。カタログに記載されたスペックによると、エンジンは1911cc直列4気筒OHV 55.7hp/4250rpmとある。

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1934年に発売予定であった大型トラクシオンアヴァンの計画は直前でキャンセルされてしまったが、7と11の販売が好調であっため、再度大型車の生産計画が承認され、1938年のパリ・モーターショーで発表された「15 Six」。2867cc直列6気筒OHV ツインSolex 77hp/3800rpmエンジンを積む。このエンジンは極めて珍しい左回転であった。戦後の1947年5月、新型トランスミッション採用と同時にエンジンも右回転のものに換装されている。サイズは全長4760mm、全幅1790mm、全高1540mm、ホイールベース3090mm(11 ノルマルと同じ)、両重量1326kg。最高速度130km/h。15 Sixは素晴らしい性能を評価され、オーナーたちから「Queen of the Road」のニックネームを頂戴している。戦前は1938~40年に2424台生産され、戦後は1946~57年にかけて4万5247台(内リアにハイドロニューマチックサスペンションを装着した15 Six Hが3079台)生産された。写真は1949年ごろの15 Sixベルリーヌ。

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1953年ごろの15 Sixベルリーヌ。1951年にバンパーがストレートになり、1953年には後部にトランクが追加されている。これ以降トラクシオンアヴァンの外観には大きな変化は見られない。

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1951-52年「Light Fifteen(フランスの11)」と「Six Cylinder(フランスの15 Six)」の英語版カタログに載った「The Autocar」誌から引用されたSix Cylinder車の透視図。エンジンマウントはスプリングではなくラバーマウントが採用された。また、ドライブシャフトには大型のラバーダンパーが取り付けられ、カルダンジョイントの回転むらに起因する振動を吸収しようとする苦労の跡が見受けられる。

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1952年ごろのジャヴェル河岸工場のアッセンブリーライン。(Photo:Citroën)

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上の4点は1953年に日仏自動車が発行したシトロエン11ライト(レジェ)とノーマルのカタログ。1953年からトランクリッドが大型化され、このように開く。

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上の3点は1954年の11レジェ/ノルマル/ファミリアルの仏語版カタログ。

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上の2点は1937年に登場したコメルシアル。ファミリアルにテールゲートを付けたモデルで、子牛やひつじなどなんでも積めたようだ。戦前モデルのテールゲートは上下に開いた。リアドアは前方に180度開くのが分かる。1937~41年に3561台生産された。価格は1938年3月には3万900フランであったが、何回か価格改定され1941年5月には4万1100フランとなっている。(Photos:Citroën)

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戦後、1954年に再登場したコメルシアル。テールゲートが1枚の跳ね上げ式になった。1954~57年に9295台(工場のデータでは9258台)生産された。価格は1954年3月には76万5330フランであったが、1957年5月には80万7500フランとなっている。

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1954年5月に登場した「15 Six-H」。これは15 Sixのリアサスペンションをハイドロニューマチックに換装したモデルで、1955年に登場するDS19に採用するハイドロニューマチックサスペンションのテストベンチ的な存在であった。1954~57年にかけて3079台生産された。価格は1954年5月には94万フラン、1955年8月には93万600フランとわずかだが値下げされている。

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1957年5月2日、最後のトラクシオンアヴァン、11ファミリアルがラインオフした。後方にはDS、ID、Hトラックなどが並ぶ。
 トラクシオンアヴァンのフランスでの生産台数は、戦前には、
「7」が1934~41年に8万1295台、
「11」が1934~42年に15万8965台
「15 Six」が1938~40年に2424台
 戦後には、
「11」が1945~57年に41万3030台
「15 Six」が1946~56年に4万2168台
「15 Six-H」が1954~57年に3079台
 フランス国内の生産台数の合計:70万0961台
 フランス国外の生産台数の合計:5万8150台
 総合計は75万9111台であった。


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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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