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第85回 「モーターファン」誌1952年1月号に載った広告
2019.8.27

 8月が来ると74年前の敗戦を思い出す。敗戦を伝える玉音放送は長野県の上田駅前で聞いた。筆者は8歳であった。1945年3月10日の東京大空襲では猛火に囲まれて逃げ場を失い死を覚悟したが、一人の勇敢な巡査の誘導で命拾いした。世田谷区笹塚に引っ越したが、5月25日に再び空襲に遭った。照明弾で真昼のようになったあと、焼夷弾の降りそそぐ中を必死で逃げた。至近弾は前方2メートルほどのところにズボ・ズボッと落ちたが、幸い直撃は受けず逃げおおせることができた。同じ日に俳優の仲代達矢さんも空襲に見舞われていたとテレビ番組「ファミリーヒストリー」の中で語っていた。途中で親とはぐれたと思われる少女と遭遇し、手を取って逃げている途中、ふと気付くと、少女の手首だけを握っていたという。おそらく焼夷弾の直撃を受け、声も出さずに死んでいったのであろう。仲代さんは思わず少女の手首を放り出してしまったが、「せめて手首だけでも丁寧に葬ってあげればよかった」と悔いていると語っていた。
 さすがに、東京にとどまるのはあきらめて上田に疎開したが、上田にも艦載機が飛来するようになり、さらに田舎の信州中野に移動すべく、上田駅でいつ来るか分からない列車を待っているときに玉音放送で敗戦を知ったのである。その日は移動する気力も失せて家に引き返し、後日改めて信州中野に引っ越した。戦争は終わったので引っ越す必要はないのだが、どうしても上田にとどまれない事情があった。
 戦争に負けた日本は、連合国の統治下におかれ、占領政策を日本政府に施行させたのがGHQ(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部)で、最高司令官がダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)であった。6年後の1951年9月、連合国48カ国と日本との対日講和条約がサンフランシスコで調印され、同時に日米安全保障条約も調印された。翌1952年4月にワシントンで批准書寄託式が行われ、沖縄を除き、日本は6年8カ月ぶりに独立を回復し、日米安全保障条約も正式に発効した。
 書庫で探し物をしていたら、まだ日本が占領下にあった1952年1月の「モーターファン」誌が目に留まったので、掲載されていた広告を紹介する。オート三輪、オートバイの全盛期で、懐かしい名前にお目にかかれると思う。

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「モーターファン」誌1952年1月号の表紙。写真は1952年型メグロ ジュニア号。250ccエンジンを積む。

● 四輪車
 1949年10月には、GHQが日本の乗用車生産制限を解除し、1951年7月には外国自動車の国内取引も自由化された。しかし、わが国の乗用車生産台数は1950年1594台、1951年3611台、1952年4743台とごくわずかであった。

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1952年型パッカードの広告。三和自動車は戦前から高級車パッカードの輸入販売を行っていた。英国車のアームストロングシドレーも取り扱っており、スターサファイアの立派なカタログを頂戴したことがある。ポルシェの販売も1952年に開始している。ハンバー、サンビーム、BMWを取り扱っていた時期もある。中日本重工業(1952年4月にGHQが廃止され、5月に財閥商号の使用禁止が解除され、新三菱重工業に改称された)製みずしま三輪自動車の販売も行っていたのが分かる。

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新朝日自動車が載せた1952年型ポンティアックの広告。場所は歌舞伎座前。

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英国車モーリス マイナーの広告。日英自動車はモーリス、ウーズレー、ライレー、MGなどナッフィールド・グループのクルマを販売していた。

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ダットサンの広告2点。上は手前のスリフトとデラックスセダン。下のトレーラーは三生自動車で製作されていた。

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いすゞ自動車の広告。バスは1950年に発売されたBC10型であろう。DA80型6804ccV型8気筒117馬力ディーゼルエンジンを積む。

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トヨペットセダン、トヨペットタクシーの広告。乗用車の販売先はクラウンが登場する1955年ころまではハイヤー・タクシー営業向けが大部分であった。トラックシャシーSBをベースに関東自動車工業がボディー架装したモデルでセダンとタクシーキャブの生産台数はSDKが212台、タクシー用として設計されたSBYは457台であった。いずれもS型1000cc、27馬力エンジンを積む。

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ヤナセ自動車の広告。低く、広くデフォルメされた1952年型キャディラックのフロントビューが描かれている。梁瀬ではビュイック、ボクゾール、ベッドフォードも取り扱っていた。

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1952年1月に登場した日産自動車初の戦後型大型トラック380型の広告。3670cc直列6気筒85馬力エンジンを積み、ホイールベース4000mm、最大積載量4000kg。

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高速機関工業が製造していたオオタ自動車の広告。PA型セダンは760cc直列4気筒20馬力エンジンを積み、サイズは全長3850mm、全幅1440mm、ホイールベース2100mm。KA型トラックは903cc、23馬力エンジンを積み全長4013mm、全幅1460mm、ホイールベース2330mm、最大積載量800kgであった。

● 三輪車
 わが国の小型三輪車の生産台数は、1946年には2692台であったのが、1950年には3万5498台(軽三輪車85台を含む)となり、1952年には6万2224台に達した。しかし、1957年の11万1352台をピークに下降線をたどり、やがて主役の座を小型四輪トラックに譲ることになる。

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アキツ号を生産した明和自動車工業は、川西航空機が敗戦によって民需転換され明和興業となり、1947年にアキツ号の生産を開始した。車名は戦時中に川西航空機の秘匿名称であった「神武秋津社」から名付けられた。1949年11月に企業再建整備法によって自動車部門が分割されて明和自動車工業が誕生した。しかし、販売は振るわず、1956年にはダイハツの系列会社に譲渡され、アキツ号の生産を終了している。広告のクルマはB31型で空冷単気筒744ccエンジンを積む。

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くろがねのルーツは創業者で技術者であった蒔田鉄司(まきたてつじ)が1917年に設立した「秀工舎」であった。1927年(昭和2年)に、大正から昭和への改元にちなんで「New Era(新時代)」の名前で三輪車を発売した。1928年に大倉財閥系の日本自動車に常務として迎えられ、大森工場でNew Eraの量産を開始した。1932年に大森工場は日本自動車から独立して日本内燃機を設立、1937年にはブランド名をNew Eraから「くろがね」に変更した。名前の由来は創業者である蒔田鉄司の「鉄」の古称であると言われる。
 戦前から戦中にかけては、4輪駆動の軍用乗用車「くろがね4起」(4輪駆動を4輪起動と称していた)を生産したが、設備増強のための投資の際、経営の主導権が大倉財閥系から寺田財閥に移った。創業者の蒔田は新経営陣と対立し1943年に退社している。
 1945年の敗戦後は三輪車の生産を再開し、1949年に企業再建整備法によって日本内燃機製造として再出発した。しかし、新経営陣の放漫経営は、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需を活用することもできず、さらに、1954年にトヨタSKB型トラック(後のトヨエース)が発売されたのを機に、市場のニーズは三輪車から四輪トラックへと移っていったことなどから悪化していった。そこに目を付けたのが東急グループで、1957年にオオタを吸収合併させ、社名を日本自動車工業に改称し、三輪車と並行して小型四輪トラックも販売し、1959年には軽四輪トラック「くろがね ベビー」を発売した。同年に社名を東急くろがね工業に改称するなど起死回生を試みたが、1962年1月に終焉を迎えた。
 その後、東急機関工業へ業務引継ぎされたのち、日産工機として現存する。
 広告のクルマはくろがね号KD型で、995cc V型2気筒エンジンを積み、最大積載量750kg。

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東洋工業が三輪車を最初に発売したのは1931年のDA型であった。広告のクルマはCT型で1157cc V型2気筒OHV 32馬力エンジンを積み、最大積載量1000kg。初めて屋根付きモデルが登場した。CT型より全長、荷台が1m長いCTL型もラインアップされていた。フロント部のデザインは工業デザイナーの小杉二郎によると言われる。右の広告に描かれた風を切って疾走するイラストは、HB型で700cc 単気筒エンジンを積み、最大積載量は500kgであった。左の広告に「マツダ・フアン・グループ 会員募集中」とあるが、途中からマツダ・ファン・クラブと改称したと記憶する。筆者も一時期会員となっていた。会員には新型車が発売されるとカタログが送られてきた。年会費は100円程度であったと記憶する。

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ダイハツの歴史は1907(明治40)年、発動機製造の社名で設立された時から始まる。三輪車の量産は1931年にスタートし、戦後もいち早く再開、1946年には1455台生産され、国内の三輪車生産台数の54.1%を占めていた。その後、順調に伸びた三輪車の市場も1957年をピークに小型四輪トラックと立場が逆転、ダイハツは1972年の565台を最後に三輪車生産から撤退している。
左の広告は、ダイハツの三輪車で最も注目したいモデルで、1951年に発売された三輪乗用車ビー(Bee:蜜蜂)。4サイクル水平対向2気筒OHVエンジンをリアに積み、リアサスペンションはトーションバーとコイルスプリング併用による独立懸架、丸型ステアリングホイール。排気量と出力は「ダイハツ工業100年史」によると804cc、18馬力。カタログには540cc、13.5馬力。「モーターファン」1952年1月号には539cc、14.5馬力とまちまちである。約300台生産し1952年に生産中止された。
 右の広告のクルマはSSH型で、1005cc V型2気筒24馬力エンジンを積み、最大積載量は750kg。
 1951年12月、社名を発動機製造株式会社から、「ダイハツ」が広く認知されており、より親しみやすいダイハツ工業株式会社に変更されている。

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三菱重工業の水島航空機製作所が発足したのは1943(昭和18)年9月であった。戦時中は一式陸攻、紫電改などを生産していた。敗戦によって自然閉鎖となる運命にあったが、所長以下が民需品生産工場への転換、工場存続方をGHQなどへ日参して陳情した結果、1945年11月、水島機器製作所として再発足することができた。そして、製品として選んだのが三輪車であった。1947年5月に最初のTM3型を発売した。前面に風防を取付け、頭上に幌を張った屋根付きとしたことは、当時の三輪車には無かった斬新なアイデアであった。1962年7月に小型三輪車の生産を終了している。広告のクルマはTM3j型で744cc単気筒エンジンを積み、最大積載量は500kg。
 戦時中各地に散在していた航空機工場の大半は、敗戦とともに設置された2つの整理事務所の傘下に組み込まれ、それぞれが出張所の名のもとに工場の維持、再建の道を模索していた。1946年8月、岩塚出張所を主体に、大門出張所、大江出張所戸崎工場(岡崎)が統合して名古屋機器製作所が誕生し、さらに4社が加わって1949年12月に名古屋製作所が誕生した。スクーターは岩塚出張所で開発され、1947年に「ふそうシルバーピジョン(C10型)」の名前で発売された。エンジンは112cc 4サイクル単気筒SV 1.5馬力で「農発」と呼ばれ、後に名古屋の主力製品の一つとなる「メイキエンジン」の原型となった。
 広告のスクーターはC21型で248cc 4サイクル単気筒3馬力を積む。スクーターの生産は1964年に終了したが、18年間に41車種、46万3747台が生産された。
 三菱重工業は1947年12月に制定された集排法(過度経済力集中排除法)の該当会社に指定され、1950年1月、東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社に分割され、三菱の商号、標章の使用を禁止された。しかし、1952年4月28日の対日平和条約発効により、「財閥標章の使用禁止解除の政令」交付、および同年5月7日「財閥商号の使用禁止」解除に伴い、東日本重工業は三菱日本重工業に、中日本重工業は新三菱重工業に、西日本重工業は三菱造船にそれぞれ変更し、3社ともスリーダイヤモンドの社標使用を復活した。

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ジャイアントのルーツは名古屋市で自動車部品の販売を行っていた中野嘉四郎が、1931(昭和6)年にジャイアント・ナカノモータースを創業し、スイスのモーターサイクルメーカー、モトサコシ社製MAG(Motosacoche Acacias Genève)エンジン(498cc 空冷単気筒OHV 20馬力)を積んだ三輪車を製作し「ジャイアント」のブランド名で発売したのが始まりであった。1936年には自前の水冷単気筒とV型2気筒エンジンを完成させるが、1937年にジャイアントの権利一切を帝国製鋲(1942年に帝国精機産業に改称)に譲渡する。1947年に愛知起業が帝国精機産業からジャイアントの権利一切を譲り受け、三輪車の生産を開始した。1949年5月、企業再建整備法により愛知起業は新愛知起業として再出発し、1952年12月、愛知機械工業に改称している。
 広告のクルマはAA-7型コンドルで、1145cc 水冷水平対向2気筒41馬力エンジン+4速MTを積む。丸ハンドルや全鋼製密閉式キャブを装備するなど先進的なクルマであった。1960年に小型三輪車の生産を終了している。

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上の2点はオリエントの広告。オリエント号は三井精機工業(1950年4月、企業再建整備法により東洋精機工業として再出発。1952年5月に再度三井精機工業に改称)が1947年に発売した三輪車である。ブランド名の由来は、1928(昭和3)年、当時外国に依存していた精密測定機器や精密工作機械の国内供給を目的に、三井精機工業のルーツである津上製作所を創立。1937年に東洋精機と改称。「東洋」を英語表記した「Orient」をブランド名としたもの。(東洋精機は1942年に三井工作機を合併した際に三井精機工業に改称している)。
 広告のクルマは、広告にはKF型1000ccとあるが、写真の荷台にはKM-1000とある。1005cc水冷2気筒エンジンを積み、最大積載量は1000kg。広告に記載されているDC型は766cc空冷単気筒16.5馬力を積み、最大積載量は500kgであった。

● 二輪車
 わが国における1946年の126cc以上のオートバイ生産台数はわずか211台、スクーター8台であったが、10年後の1956年には126cc以上が10万5135台、50~125ccが15万3163台、スクーターは7万4462台とすさまじい勢いで伸びている(50cc以下のモペットのデータは無い)。1950年代はわれもわれもと雨後のたけのこのように小さなメーカーが出ては消えていった。そんな時代であった。その数300社ほどではないだろうか。「モーターファン」誌1952年1月号に載った広告はそのほんの一部に過ぎないが、懐かしい名前がきっとあると思う。残念ながら筆者は二輪車に関する知識、史料の持ち合わせはないので解説は省略するが、当時の広告を楽しんでいただきたい。

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ミシマ号KS型、148cc単気筒OHV3.5馬力エンジン+2段変速。メーカーのミシマ軽発工業は1950~1956年にかけて二輪車の生産を行った。

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手前の2台はフジ モアスピットCX3型で147cc単気筒3.5馬力エンジン+2段変速。手前から3代目は350ccモデルで、一番奥はRG型で498cc単気筒19馬力エンジン+4段変速を積む。メーカーの日米富士自転車は1952~1954年にかけて二輪車の生産を行った。

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みづほ自動車製作所(みづほ自動車工業)のキャブトンVG型、498cc単気筒OHVエンジン+4段変速。キャブトンは1934~1956年にかけて生産された。キャブトンの1号車は1927年に発表され、発売元は大阪の中川幸四郎商店であった。しかし、量産は1934年からスタート。キャブトンの名前は「Come And Buy To Osaka Nakagawa」の頭文字を並べたものと言われる。

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富士工業(1953年7月、富士重工業設立)のラビットS25型、148cc単気筒SVエンジン+自動変速自動遠心クラッチ。同時にS41型、S47型もラインアップされていた。ラビットは1946~1968年にかけて生産された。

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本田技研工業のホンダ ドリーム号。新型"4サイクル発売"とあるのでE型の広告と思われるが、写真は排気管形状から2サイクルのD型であろう。オートバイのエンジンは2サイクルが主流であったが、1950年代に入ると、かん高い排気音や白煙をまき散らす2サイクルは敬遠されるようになり、耐久性、静かさで勝る4サイクルが好まれるようになっていった。E形にはホンダ初の4サイクルOHV 146cc単気筒5.5馬力エンジン+2段変速が、ユニークなチャンネルフレームに積まれた。ホンダの二輪車生産は、まだ本田技術研究所であった1946年、旧陸軍放出品の無線機発電用小型エンジンをベースに製作した自転車用補助エンジンからはじまり現在に至っている。

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伊藤機関工業のI.M.C. ME148型、三菱製148cc 4サイクル単気筒SV 3馬力を積む。伊藤機関工業は1947年に「ハヤブサ」の名前で79ccの旧陸軍の発電用小型エンジン(トーハツ製)をベースに製作した自転車用補助エンジンからスタートし、1950年からI.M.C.(伊藤のモーターサイクル)の名前でオートバイの生産をはじめ、1961年まで続いた。

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三宝工業というのは部品メーカーで、このような部品サプライヤーから部品を購入して、容易にオートバイを仕立てて販売することができたのであろう。

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横浜安全自動車のベビーアンゼン号。目黒製作所製142cc単気筒OHV 2.5馬力エンジン+2段変速。

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上の3点はトーハツの広告で、左側にはKA型とバンブルビー型、両車とも98cc単気筒3.5馬力エンジン+2段変速。右上にはF型2馬力、3.5馬力とある。右下には「30年の歴史を誇る」とあるが、トーハツのルーツは1922年に創立したタカタモーター研究所で、エンジン付き揚水ポンプなどを生産。1939年に東京発動機に改称。戦時中は軍向けの発電用エンジンなどを生産した。二輪車の生産は1950~1964年で、1964年に倒産し会社更生法の適用を受け、トーハツ(株)として再出発して現在に至る。

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川西航空機が敗戦によって民需転換され明和興業となり、1947年に三輪車アキツ号の生産と並行して二輪車ポインター号の生産を開始した。1949年11月に企業再建整備法によって自動車部門が分割され、三輪車を造る明和自動車工業と二輪車を造る新明和興業が誕生した。広告にはポインター エース、空冷4サイクル248cc単気筒OHV 8馬力エンジン+3段変速、およびポインター スーパー、空冷4サイクル142cc単気筒SVエンジン+2段変速モデルと、142cc OHVエンジンモデルが記載されている。ポインターは1947~1963年にかけて生産された。

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共立発動機のニュージャップ号。エンジンはメグロBHK型150cc OHVを積む。当時メグロの完成車は500ccモデルのみであったから、他車への供給用として生産していたのであろう。それにしても名前のニュージャップはいただけない。「JAP」は日本の蔑称であり、戦争に負けて占領下にあった日本のメーカーが使うとは信じられない。そういえばこの広告のモデル「知らずにつけてしまったが、困ったな」という表情をしている? 1894年に英国でジョン・プレストウィッチ卿が設立したJ.A.P.社(John A. Prestwich & Co.)のJAPエンジンと関りがあるのかな?

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三光工業のジェット号J I型。148cc単気筒SV 3馬力エンジンを積む。ジェットは1951~1954年にかけて生産された。

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大洋工業のTMC号。4サイクル150cc単気筒OHV 3.5馬力エンジン+3段変速。大洋工業は「TMC」「大洋」の名前で1950~1955年にかけて二輪車を生産した。

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ペティ(Petty)号を生産した瑞穂金属工業は戦時中は中島飛行機の工場であった。エンジンは64cc単気筒で、広告のモデルはM5型でオリジナルのフレームを持つが、広告には「普通自動車(自転車の間違い)に簡単に取り付けられる!」とある。しかし、自転車に補強なしで取り付けた場合、フロントフォークの上部が切断することがあった。長い悪路の坂道を登っているとき、前から来た補助エンジン付自転車のフロントフォークが折れ、前輪がこちらに向かって転げ落ちてくるのに遭遇したことがあった。幸いぶつかる直前に倒れて止まってくれたが、とにかくわが国の道路舗装率は1960年でもたったの2.8%であったから、乗り物は頑丈に作っておく必要があった。この広告を見ているとミスもあるが、コピーの内容もおもしろい。特に「此のナンバーは今後区役所に申請すれば簡単に素人の方にも何の苦もなく笑顔で得られます」は傑作である。

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タイガー商会のオートビット号は4サイクル147cc単気筒OHVエンジン+2段変速。ホワイトタイガー号はデータ不明。

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久保商会の金剛は、めずらしく広告にスペックが載っている。「求代理店」「販売店急募」などと載せた広告が多いが、乱立するメーカーのなかで、製品は造ったが販路の開拓に苦労したのであろう。

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片山産業のオリンパス号。148cc単気筒OHV 3.8馬力エンジン+3段変速。オリンパスは1951~1963年にかけて生産された。

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宮田製作所のアサヒ号DC型。196cc単気筒5.1馬力エンジン+3段変速。宮田製作所は1933~1962年にかけて二輪車の生産を行った。

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ロケット商会のクインロケット号MR型。エンジンは中日本重工業(三菱)製メイキエンジン、4サイクル148cc単気筒SV 3馬力。最下段の広告に載ったライトポニーは、光栄工業が148ccのメイキエンジンを使って生産した乗貨兼用の軽3輪で乗車定員3名、最大積載量350kg、最高速度35km/h。クインロケットは1950~1960年にかけて生産された。

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上の2点はエーブモーターのエーブスターBR型。4サイクル142cc単気筒OHV 3.8馬力エンジン+3段変速。ほかに4サイクル142cc単気筒SV 2.75馬力+2段変速のA1型も用意されていた。エーブスターは1950~1957年にかけて生産された。

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昌和製作所の昌和号SF型。4サイクル150cc単気筒OHC 4馬力エンジンを積む。昌和製作所は1946~1960年にかけて二輪車の生産を行った。

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日本総代理店である三国商工が掲載したイタリア製モトグッチの広告。1951年のGPレースの戦績と65ccから500ccまで6モデルが紹介されている。広告のモデルはアイローネスポルト(Airone Sport)で4サイクル250cc単気筒OHV 13.5馬力エンジンを積む。

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山田輪盛館が掲載した英国製アリエルの広告。広告のモデルはスクエア4で4サイクル997cc単気筒OHV 40馬力エンジンを積む。ほかに350ccから600ccまで4モデルが紹介されている。

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モナークモーターのポニー・モナーク号。モナークモーターは目黒製作所社長の娘婿の会社で、メグロのエンジンを積んでいた。広告には12ccとあるが、これは間違いで、4サイクル142cc単気筒OHV 5馬力エンジン+2段変速を積む。モナークは1951~1956年にかけて生産された。

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内燃機工業のみどり号。4サイクル142cc単気筒SV 2.5馬力エンジン+2段変速。2サイクル98ccエンジン仕様も選択できた。内燃機工業は1951~1952年にかけて短期間二輪車の生産を行った。

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トヨモータースのトヨモーターの広告。広告に載ったモデルは左がHS型、98cc単気筒3.8馬力。右はED型60ccの自転車用補助エンジンであろう。トヨモーターは1949~1959年にかけて生産された。トヨモーターはトヨタ自動車の販売網を使って販売されたが、トヨモータースにトヨタ自動車の資本は入っていなかった。

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山下工作所のパール号。4サイクル単気筒SV 3馬力エンジン+2段変速。パール号は1952~1954年にかけて生産された。

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陸王モーターサイクルの陸王RO型。4サイクル747cc V型2気筒SV 15馬力エンジン+3段変速。1200cc側車付とあるのはVFD-LTS型で4サイクル1200cc V型2気筒SV 30馬力+3段変速のサイドカー。
 陸王のルーツは、大正時代からわが国に輸入されていた米国のハーレーダビッドソンの輸入販売権を、1931(昭和6)年に製薬会社の三共が取得し、日本ハーレーダビッドソンモーターサイクルを設立。1933年にライセンス生産を開始し、1935年に社名を三共内燃機に改称した。1936年、陸軍に採用されたのを機に、名前を「陸王」に変更し、同時に社名も陸王内燃機に改称した。しかし、1949年に倒産して生産停止する。1950年に昭和飛行機が買収して陸王モーターサイクルを設立し生産を再開したが、1960年に倒産してしまった。

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「モーターファン」誌1952年1月号の裏表紙に載った広告。


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第59回 1947年型アメリカ車 - ビッグ3編

第58回 戦時下に発行されたアメリカ車メーカーのポスター

第57回 AC & Shelby AC Cobra - 2

第56回 AC & Shelby AC Cobra - 1

第55回 ナッシュヒーレー&ハドソンイタリア

第54回 東京オートサロン2017

第53回 リンカーン コンチネンタル

第52回 2016トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑

第51回 クライスラー300 レターシリーズ – その2

第50回 Automobile Council 2016 – そのⅡ

第49回 Automobile Council 2016

第48回 クライスラー300 レターシリーズ – Ⅰ

第47回 フォードランチェロ

第46回 1954年カイザー・ダーリン161

第45回 1950年代ポンティアックのドリームカー

第44回 1950年代オールズモビルのドリームカー

第43回 1950年代ビュイックのドリームカー

第42回 1950年代キャディラックのドリームカー

第41回 クラシックカー・フェスティバル

第40回 アメリカの初期SUV/MPV

第39回 メトロポリタン

第38回 フォード サンダーバード

第37回 シボレーコルベット(第1世代 – 2/2)

第36回 シボレーコルベット(第1世代 – 1/2)

第35回 1950年代のアメリカンドリームカー(4)

第34回 1950年代のアメリカンドリームカー(3)

第33回 1950年代のアメリカンドリームカー(2)

第32回 1950年代のアメリカンドリームカー(1)

第31回 1940年代のアメリカンドリームカー

第30回 戦後のアメリカ車 - 11 :1940年代の新型車(フォード)

第29回 戦後のアメリカ車 - 10 :1940年代の新型車(GM)

第28回 戦後のアメリカ車 - 9 :1940年代の新型車(パッカード)

第27回 戦後のアメリカ車 - 8 :1940年代の新型車(タッカー)

第26回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ナッシュ)

第25回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ハドソン)

第24回 戦後のアメリカ車 - 6 :1940年代の新型車(クライスラー・タウン&カントリー)

第23回 戦後のアメリカ車 - 5 :1940年代の新型車(クロスレイ)

第22回 戦後のアメリカ車 - 4 :1940年代の新型車(カイザー/フレーザー)

第21回 戦後のアメリカ車 - 3 :1940年代の新型車(スチュードベーカー)

第20回 戦後のアメリカ車 - 2 :1940年代の新型車(ウイリス/ジープ)

第19回 戦後のアメリカ車 - 1 :1946年型の登場(乗用車の生産再開)

第18回 アメリカ車 :序章(6)1929~1937年コード・フロントドライブ

第17回 アメリカ車 :序章(5)1934~37年クライスラー・エアフロー

第16回 アメリカ車:序章(4)1924~1929年

第15回 アメリカ車 :序章(3)1917~1923年

第14回 アメリカ車 :序章(2)フォード モデルT(1908年~1927年)

第13回 アメリカ車 :序章(1) 登場~1919年

第12回 AF+VKの世界:1959~1971年型ポンティアックのカタログ

第11回 コペンの屋根:リトラクタブルハードトップ

第10回 スクリーンで演技するクルマたち

第9回 シトロエンDSのこと

第8回 よみがえった『力道山のロールスロイス』

第7回 メルセデス・ベンツ300SL - SLクラスの60周年を祝して

第6回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その2)

第5回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その1)

第4回 短命だった1942年型アメリカ車のカタログ

第3回 「ラビット」から「スバル」へ - スバル最初の軽乗用車と小型乗用車

第2回 「キ77」と電気自動車「たま」。そして「日産リーフ」

第1回 自動車カタログ収集ことはじめ

執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

関連書籍
ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜
三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー
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