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第79回 日産自動車初の大型トラック&バス(80型/90型)
2019.2.27

 今回は、日産自動車が1937(昭和12)年3月に発表した、同社初の大型トラック/バスのカタログを紹介する。このカタログは米国日産の初代社長で「Zカーの父」「ミスター K」と呼ばれ慕われた片山豊さんのコレクションで、ご子息の片山光夫さんから「カタログというと当摩さんが思い浮かぶ」とのありがたいひと言とともにお預かりしたものです。厚手の紙でスプリング綴じの48頁、トラック/バスのカタログでこんなに豪華なものが存在したとは驚きです。
 カタログは改良型の1939年式ですが、カタログには2599年式とあります。これは日本書紀に記された神武天皇即位の年を元年として定められた紀元で、皇紀元年は西暦紀元前660年となる。1940年は紀元2600年にあたり、5年前から準備を進めた奉祝式典が日本各地で挙行されたという。筆者は当時3歳でなんの記憶もないが、なぜか「・・・きげんはにせーんろっぴゃくねん」という歌のフレーズだけは知っている。
 ニッサン80型は当時としては斬新なセミキャブオーバー型であったが、折あしく、1937年7月に盧溝橋事件が発生し、やがて日中戦争が勃発すると、80型は軍用車両として満州におくられ、過酷な環境の中で酷使されることとなる。すると、斬新さが仇となり、解決の為に急遽ボンネット型トラックの180型が開発されて1941年2月に発表され、80型は3年半ほどの短命であった。
「日産自動車30年史」によると、80型/90型の生産台数は1937年:トラック1356台/バス28台、1938年:7943台/306台、1939年:1万2326台/1460台、1940年:1万2899台/1092台であった。

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表紙に踊るコピー「伸びる日本の原動力ニッサントラック・バス」と地球は、世界に進出しようとする日本の原動力となることを訴求しているようだ。

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表紙裏のコピーは「多年自動車製造を研究し、我国唯一の大量生産設備を完成して、国策に順応した大衆車ニッサンを世に送り出してから三年、其の間遠く戦線に於て皇軍将兵の足となり、進撃に輸送に、泥濘悪路を超えて国産車の真価を発揮し、又銃後産業戦線に於てもその経済性、耐久性、頑強なる点に就き各地で多大の好評を戴いて参りました。 今や長期建設の重大時期に際し、国民は一致協力、凡ゆる点に於て自給自足の道を講じ、国産愛用は国民の義務と叫ばれつつあります。 弊社は此処に国民諸彦の興望に応へ、併せて銃後産業建設の使命を全うせん為、従来の車に一層の改善を加へ、同胞が熱意と労力を傾けて造った国産車として確信を以てお薦めする次第であります。」とあり、戦争を生き延びた筆者は、このようなカタログコピーが二度と登場しないよう、国民は政治家選びにもっと真剣にならねばと思う。
 右頁の丸の中には「ニッサン號の製造會社たる日産自動車株式會社は、横濱市新子安にあって、資本金三千萬圓、二十萬坪の敷地と一萬に餘る従業員を擁する名實共に東洋第一の大工場であります。」とある。右上には「Y. Katayama」のサインがある。

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左頁には「堂々たる容姿のニッサントラックは内容、外観共に科學日本の躍進を表象し従来の車に見る事の出来なかった先頭操縦装置(キャブオーヴアーエンヂン型)は積載量の増大、操縦の安易、輸送の安全、等幾多の研究の珠玉が綜合統一され、全く進歩した合理的な設計で製作されて居ります」。
 右頁には「運轉座席が機関の上部に位置する事は單に輸送面積の擴大を意味するに止まらず、運轉者の視野を廣くし且つ車の動揺の一番少い場所を客席として提供出来ますので、従来のバスに比して極めて爽快な乗心地が得られます。内地の如く狹隘な且つ曲折の多い道路では回轉半徑の小さな此の車は最好適のもので、日本の標準型バスとして認められて居ります。」とある。

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トラック・シャシーにはホイールベース104in(2642mm)と128in(3251mm)の2種類が設定されていた。

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ホイールベース128インチのA(キャブ付き)シャシーの三面図と三方開トラック。キャプションは「今更申上げる迄もなくこの標準型トラックはホヰールベースが128吋でも、他車の158吋ホヰールベースの積載量相當し、狭隘な道路の通過、輕快な活動性に於て他車の追隨を許さず好評を博して居ります。」
 後方にちらっと見える電気機関車はEF50であろう。中学生までいまで言うところの「鉄ちゃん」であった筆者が好きだった電機で、1923(大正12)年に英国電気(English Electric)社で製造されて8両が輸入され、東海道線の花形電機であった。新宿駅の大久保寄りにあったヤードにEF57などと共に駐機しているのを何度も見ている。荻窪駅に巨体を休ませているのを目撃したこともある。

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左は平台(平臺)トラックで「この車は木材、鋼管、其他長尺物の様に突出する荷物を扱ったり、又道路工事用の空気壓搾器やヂーゼルエンヂン其他特殊動力機を取付ける目的に使用されて居ります。」とある。右はダンプ・ボデー付きトラックで「油壓ホイストが装置されてあるこの車は道路工事、土木請負工事、石炭又は砕石の運搬の如き荒仕事に強力迅速に活躍致します。」とある。

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ホヰールベース128インチのB(裸)シャシーの三面図とバン(ヴァン)。キャプションは「近代的な溢れるばかりの優美さを具へたこの車は、雨にも風にも品物を傷めず安全、敏速に運搬出来ますので食料品店、百貨店等に於て多く使用されて居ります。又ボデーに店名、或は商品名を書入れる事に依って宣傳効果を發揮し、移動する店舗とも云えます」。

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ホヰールベース104インチのトラック・シャシーの三面図とセミ・トレーラー。キャプションは「ニッサンエンヂンは85馬力といふ強力なものですから、トレーラーの如く重量物を積載しても意の如く操縦出来ます。優秀なエンヂン、頑丈なフレーム、絶對に信頼出来るブレーキ、輕快な廻轉等・・・ニッサン セミ・トレーラーは安心して使用出来る様に設計されてゐます」。

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ホヰールベース128インチの低床式バス・シャシーと、右頁には乗合型と遊覧型バス内部の紹介。スペアタイヤは運転席の背後に立てて収納されている。

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ホヰールベース128インチのバス・シャシー三面図と、右頁には乗合型バスと、80型トラック/90型バスと同時に発表された日産の普通乗用車70型が描かれている。

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ホヰールベース148インチのバス・シャシー三面図と、右頁にはホヰールベース148インチの遊覧型バスが描かれている。

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ニッサン號消防自動車の仕様書と128インチのトラック・シャシーに架装された消防車。

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上の2点は、上段左頁には80型の運転視界がいかに良いかを示しており、グラフには外国車A/B/Cとの比較を示している。上段右頁と下段には1939年式(2599年式)の主な改良点を紹介しており、改良点は、①観音開式前面:フロント部分が観音開き式となり、エンジン脱着が容易となった。②運転室扉:ドア外板の下縁と後縁を印籠合わせとして、砂塵や隙間風が入らないようになった。同時に蝶番も強化された。③前発條の増葉:フロントリーフスプリングを9⇒10枚に増やした。④エンジン横のホイールハウス内カバーをクランプ止めとして容易に点検できるようにした。⑤鋼板入り鋳造ドラム:ブレーキドラムは鋼板をベースに制動面を鋳造した形式とし、軽量、頑強、熱変形が少ないものとした。⑥遮光覆附前照燈:陸軍制式の前照灯遮光覆いを標準装備した。時局に適切なる改良であるとの記述あり。⑦ディスク式車輪:スポークタイプからディスクホイールに変更された。⑧三ツ割式機関覆:運転室内のエンジンカバーが中央および左右の三つに分割され、クランプで固定するためサービス性が向上した。形状も流線形としたため、エンジンルーム内の冷却性能も向上した。⑨強力なる全車軸:フロントアクスルのフランジ幅を増大して強度を上げている。
 「日産自動車30年史」によると、満州などで軍用車として使用した場合、不具合も多く発生したようであり、整備性の問題等を含めたフィードバックに対応した改良が加えられたのであろう。

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エンジンはニッサン70型普通乗用車と共通の、米国のグラハム社の協力で製作したA型(カタログの機関名称は99AT型とある)3670cc直列6気筒85馬力で、トランスミッションは米国のスパイサー製造会社との技術提携で製作した4速MTを積む。

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左頁にはウォーム&セクター式ステアリングシステムの紹介と、キャブオーバー方式によるホイールベースが短いことによる回転半径が小さいという利点を訴求している。右頁には、2トンの荷物を積んで20度の急坂を楽々と上ることができると訴え、内務省令によって車の操向車輪にかかる総重量(荷物搭載の場合)の割合は20%以上となっており、ボンネットタイプの20%をわずかに超えているのに対し、キャブオーバータイプでは30%を超え、車の安定度が増し、タイヤや道路にとってもやさしいと訴求している。
 しかし、この前輪荷重が重いことが、ハンドルが重いとか、でこぼこの不整地や泥濘地で穴に落ち込んだ場合は脱出が困難であるなどの問題が発生し、そのほかにも多くの不具合が発生したが、原因は原材料の質、加工法、工作上の不慣れ、部品工業の技術的水準の低さなどにあった。商工省や軍から強く性能の改善が要望され、1939年末から戦地での酷使にも十分耐えられる新型車の設計を技術陣を結集して急ぎ、1941年に発表したのがボンネット型の180型であった。

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当時、燃料の国策上重要な仕掛けであった、木炭瓦斯発生装置について2頁にわたって解説している。発生炉には使用する燃料によって、薪、木炭、石炭、コークス用があるが、日本の国情に最も適しているのは木炭用とある。筆者が戦中から敗戦直後に目にしたのは薪を使っていたが、薪の場合にはタールが発生するので、発生されるガスの性質や発生炉の寿命に悪影響を及ぼすが、おそらく木炭の入手が難しかったのであろう。木炭1kgでガソリン1ℓと同量の仕事ができるだけのガスを発生するとある。
 「日産自動車30年史」によると、日本ではガソリンが少ないため、古くから2~3の業者によって木炭瓦斯発生炉の生産が行われていたが、1934(昭和9)年6月には商工省令瓦斯発生炉設置奨励金交付規則が制定され、1基につき300円を限度として奨励金が交付されることになった。さらに、1937(昭和12)年7月には木炭瓦斯発生装置奨励規則が公布され、その設置が奨励された。政府はガソリンの消費規制による輸送力の低下を防止し、さらに輸送力を増強する手段として、1939年2月には代燃装置の積極的転換を指令し、5月までに保有バス10両以上は20%以上、同じく50両以上は30%以上、遊覧バスは全部、トラックは小型車を除き保有10両以上は10%以上、同じく30両以上は20%以上にこの装置を取り付けることを命令した。
 さらに、1939年7月と1940年には転換率を大幅に引き上げた。1940年に入って、薪炭ガスばかりでなく、圧縮ガス、液化ガス、カーバイド、コーライトなども利用され始めた。政府はこれら各種の代燃装置のメーカーの企業合同をすすめることとなり、1940年5月、石油代用燃料使用装置設置奨励金交付規則を制定し、統制会社として4月に日本燃料機合同株式会社を設立した。1941年10月、石油代用燃料使用装置統制規定が制定され、日本燃料機合同株式会社が統制機関に指定されて、従来の各種の発生装置もすべて日燃式に統一され、ガソリン車は大型小型を問わずほとんどが代燃車に転換した。
 上述のように、燃料が消費規制されてくると、電気自動車が脚光を浴び、エンジンをはずしてモーターを取付け、座席の下にバッテリーを積んだ改造型電気自動車が現れ、非常な勢いで普及していった。1937年8月に大阪市営バスが電気自動車の運用をはじめ、他の市営バスも追従し、使用台数は増加していった。電気自動車の生産台数は1930~35年には70台であったが、1936年には20台、1937年60台、1938年150台、1939年160台、1940年220台、1941年370台そして1942年には400台に達している。車種は大型バス、大型トラック、普通/小型乗用車、小型トラックなどであり、メーカーは日本電気自動車製造(株)、(株)中島製作所、大阪車体製造(株)、(株)神戸製鋼所、(株)神戸電機製作所、(株)名古屋自動車製作所、湯浅電池製造(株)、日本輸送機(株)、日本電池(株)、古川電気工業(株)などであった。

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サービス体制を紹介した頁だが、戦前にこれだけの体制が整っていたのは驚きである。
 日本で自動車の製造が開始されてから、その量産と性能の向上は国家的な要請であった。大型車に対する軍の需要が大きくなってからは、この必要性は一段と強まり、そのために種々の施策が講じられた。
 まずはじめは、優良自動車部品および材料の認定制度で、商工省は1938年3月、優良自動車部品及材料認定規則を定め、同年6月に第1回認定を告示、可鍛鋳鉄製品以下26品種、製造者は日立製作所以下43社が認定を受けた。その後も1938年12月に第2回、1939年6月に第3回と次々に認定され、国産車の性能向上が図られていった。
 つぎに、自動車用資材(主として鉄鋼)の改善で、1940年5月に改善のための指示を出し、自動車用鉄鋼の材質改善と量産化の進展をはかった。
 そして、純正部品制度の確立であった。自動車の保有量が増加するにつれて補修部品の市場は大きくなり、粗悪なイミテーションパーツが流通し始めていた。そこで商工省は1940年5月、ニッサンとトヨタのサービス用部品資材はすべて両製造会社から配給することとする純正部品制確立の指示を出した。
 一方、商工省でも、自動車に関する総合研究機関設置の必要があることを痛感し、機械試験所に自動車部を設けて、自動車に関する総合研究機関とすることになり、1940年に東京府下東村山に一周2kmの長楕円周回路(曲線部の設計速度が80/60km/h)を備えた施設の建設に取り掛かった。この時、日産自動車とトヨタ自動車から建設費の一部として150万円が寄付されている。

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トラック・シャシーの仕様書

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バス・シャシーの仕様書

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1937~38年ごろの広告。おそらく中国戦線で戦果を挙げたのを機に、軍をヨイショすると同時に国民の戦意高揚を狙った広告であろう。今大流行の忖度が感じられる。アメリカとの戦争がはじまると、連日のようにラジオから大本営発表が流され、戦果を強調した後、必ず「わが方の損害は軽微なり」と伝えられ、小躍りして喜んだものである。北朝鮮のニュースを見ていると、ふと、当時を思い出したが、最近は日本の国会の様子を見ていても思い出すようになった。

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これも1938年ごろの広告で「国策に順応して生れた国産自動車として発売以来皇軍の御用を蒙り前線に於て多数御役に立っている事は深く光栄と致す處であります。」「銃後に於ても・・・」と、ものすごくへりくだった印象を受ける。下に1945年に米国のシボレーが発行した広告を載せるが、戦争末期でもこんなに元気だったとは。

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「アメリカ自動車業界のリーダーであるシボレーは、全世界の地上、上空で、常に最大の輸送業務への資源を揃えています。」のコピーと、フェアチャイルドC-82 フライング・ボックスカーに搭載されるプラット&ホイットニー航空エンジン、および47万5000台以上の軍用トラックを生産したと訴求している。戦争におけるロジスティックス(兵站)の重要性を理解している証拠。日本軍にはこの認識が欠落していた。
 日米間には70倍以上とも言われる圧倒的な工業力の差があり、このような国と戦争するなんて無謀であった。無知で傲慢なリーダーを持ったのが不幸であった。最近、なにやら似たような雰囲気になってきたようで不安だ。杞憂に終わればよいが。

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三越百貨店が所有していたニッサン80型バン。現在は日産自動車が所有する。

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80型の問題点を改良して急遽開発された180型。上段の写真がオリジナルで、中段は資材が欠乏し木材を多用して造られた戦時型。下段はますます資材が欠乏し、バンパーなし、ヘッドランプも1個の一つ目となった戦争末期の180。敗戦直後の1945年11月から12月にかけて在庫資材を活用して戦時型180を200台生産している。全鋼製キャブを付けた完全な180型の生産再開は1946年9月であった。(写真は「日産自動車30年史より」)。

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1950年の180型。このころ日本はまだ主権を回復していなかったが、平和であった。1950年6月に勃発した朝鮮戦争によって、日本は特需景気に救われることとなる。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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