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第71回 フォルクスワーゲンのアメリカ進出
2018.6.27

 今回は1949年型GMを取り上げるところだが、以前「1940年代の新型車」として紹介しており、独立系ブランドについてもすでに紹介しているので、1940年代終わりから1950年代初めにかけてアメリカに輸入された欧州車について紹介することにした。
 1949年のアメリカ車の生産は、戦後の混乱から立ち直り、新型車が多数登場したこともあって500万台を超え新記録を達成した。しかし、この年のアメリカへの輸入車は1万2000台ほどで、わずか0.24%に過ぎなかった。その中に、やがて「ビートル」の愛称で大ブレークするフォルクスワーゲンが2台、オランダ人によってはじめてアメリカに上陸した。今回はその頃のカタログを紹介する。

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上の5点はおそらく1938年に発行されたKdF ワーゲンのカタログ。家族団らんのシーンも載っているが、3枚目の少年が引いているのはカノン砲?のおもちゃで、翌年勃発する世界大戦の兆しを感じさせる。4枚目は開発当初からカブリオレ(コンバーティブル)を加えることを検討していたが、コストと工数を減らすことを優先して大型のサンルーフ形式を採用したものと考えられる。
 1933年1月に発足したヒトラー政権にとってフォルクスワーゲン(Volkswagen/People's car)は国家プロジェクトであり、自ら創設した労働者、経営者の統合を図った組織、ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront:DAF)の下部組織で、旅行、スポーツ、コンサートなど国民の余暇活動を企画、実行する歓喜力行団(Kraft durch Freude:KdF)が工場を統括することになり、ニーダーザクセン州ハノーバーから80kmほど東にあるウォルフスブルク城近くの牧草地、ファーレルスリーベン村に工場建設を決定した。1938年5月に行われた起工式の場で、ヒトラーによりクルマの名前を「KdFワーゲン」とすることが突然発表された。同時に街の建設もスタートし、街の名前も「KdF Stadt(市、町)」と改名した。
 クルマの販売は労働者でも購入ができるよう、毎週5マルクを積み立てていく積立金制度が設立され、1938年12月末時点で約17万人の購入志願者を集めたという。
 しかし、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻に対し、ポーランドの同盟国であったフランスとイギリスはドイツ軍のポーランド撤退を条件に、交渉による解決を模索したがドイツは拒否。同月3日にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し第2次世界大戦が勃発した。当然のことながら、工場は軍用車生産にシフトされ、5万788台のジープ型車両のキューベルワーゲン、1万4276台の水陸両用車シュビムワーゲンを生産。敗戦前に生産されたビートルはわずか630台に過ぎず、一般市民の手にクルマが渡ることは無かった。

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ドイツはわが国より3カ月早い、1945年5月7日に無条件降伏。写真は連合軍の空襲によって破壊された工場の一部。敗戦後まず米軍が進駐したが、まもなくイギリス軍に交代し、ウォルフスブルクとフォルクスワーゲン工場は1945~49年までイギリス軍によって統治されることになる。5月25日にはイギリス軍の指名により町の議会が開かれ、町の恒久的な名称をウォルフスブルクに決定した。
 軍政府の代表となったイヴァン・ハースト少佐(Major Ivan Hirst)は失望と落胆に満ちた工場の廃墟跡を正常な形の工場に復活する方針を打ち出した。工場の2/3ほどが爆撃によって破壊されていたが、幸いなことに大型プレスを含めかなりの生産設備が使えたので、ハースト少佐の指揮下9000人が動員されてがれきの撤去がおこなわれ、仕掛中であった修理車を含め、1945年に1785台が生産されたというから驚異的なスピードである。
その後の推移は、
1946年10月14日に1万台目ラインオフ
1946年約1万台
1947年約9000台
1948年約1万9000台
1949年約4万6000台
1950年3月4日に10万台目ラインオフ
1950年約8万2000台
と、これまた驚異的な速さで伸びていった。
 1948年1月1日、ハースト少佐にヘッドハンティングされた、元オペルの重役で失業中であったハインリッヒ・ノルトホフ(Heinrich Nordhoff)に経営が移譲された。ノルトホフはその後20年にわたりウォルフスブルクに君臨することになる。1949年9月6日に連合国は進駐を解除。接収財産の管理を放棄したため、フォルクスワーゲン社の管理権限はドイツ連邦政府に移された。その後、連邦政府はニーダーザクセン州に権限を委譲した。
 1946年頃、賠償として工場の売却も検討されたが、ヘンリー・フォードⅡ世もオーストラリアも興味を示さず、深く関わったイギリスさえも、フォルクスワーゲンには将来性が無いと判断したことは、フォルクスワーゲンにとって幸いであった。  

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上の3点は1949年に発行されたフォルクスワーゲン最初の英文カタログではないだろうか。「あなたが大型車から期待するものは、有名なレーシングカーのクリエーターであるポルシェ教授がデザインした有名なフォルクスワーゲンで見つけることができます。 世界中の識別眼のあるモータリストは、他の追従を許さないスタイル、性能、快適性、そして最も重要な経済性を備えた、今までに造られた最もモダンな小型車をドライブすることで、本当に素晴らしいモータリングを楽しんでいます。フォルクスワーゲンのオーナーになればハッピーなモータリングを保証します。」とある。英文カタログは1947年から開始した輸出用、あるいは駐留していた連合軍にアピールするために制作されたものであろう。
 ところで、毎週5マルクを積み立てていく積立金制度はその後どうなったかというと、購入志願者は最終的に約33万6000人におよび、契約高は2億6700万マルクに達した。1945年10月に預金者はベルリンにあったドイツ労働銀行の特別口座にその資金を預け入れた。そして、1948年10月7日、2人の預金者が初めて満額に達してビートル引き渡しの手続きを取ったという。

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ビートルの2面図。これは1981年5月15日にメキシコで2000万台目のビートルがラインオフしたのを記念して発行されたプレスキットに含まれていたもの。

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上の3点は1949年に発行されたカブリオレのカタログ。ビートルのカブリオレは早くから開発されていたがKdFワーゲン時代には実現されなかった。しかし、1949年7月、このカルマン社製4シーターカブリオレがカタログモデルとして登場した。リアシートにはピローアームレストが置かれ、リアシート後方には荷物を収めるスペースが確保されている。分厚く、畳んだときはかさばるが対候性の高い幌はドイツ車の伝統。ツートンカラーはオプションであった。
 ビートルのカブリオレは後に単一モデルとしては世界で最も多く、そして長期間生産されたカブリオレとなった。1980年1月10日、最後のビートルカブリオレがカルマン社の生産ラインを後にした。これは33万281台目のビートルカブリオレであった。

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上の3点は1949年に発行されたヘブミューラー(Hebmüller)社製2シーターカブリオレのカタログ。
ツートンカラーの表紙は第2版のカタログで初版のクルマは黒のモノトーンであった。ほかに黒/アイボリーのカタログも存在する。幌を畳んだときボディー内に収まるので非常にスタイリッシュだが、リアシートは犠牲になり、+2か荷物の収納場所となってしまった。残念なことに1949年7月23日の土曜日に火災が発生して工場が全焼してしまい、4週間後に暫定的に生産を再開したが、1952年5月に倒産してしまった。従って生産台数は極めて少なく、カルマン社で組み立てた最後の12台を含めてわずか696台であった。

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1947年からフォルクスワーゲンは輸出を開始したが、最初に代理店契約を結んだのはオランダの輸入業者ベン・ポン(Ben Pon)であった。彼は巨大市場であるアメリカへの輸出に挑戦する。この有名な写真は、1949年1月17日にニューヨーク港に到着した「ウエステルダム(Westerdam)」から陸揚げされる、アメリカへの正規輸出第1陣2台のうちの1台とベン・ポン(左の人物)。彼は早速プレス発表会を開きニュースとして取り上げてもらうことを期待したが、多くのアメリカ人がフォルクスワーゲンはヒトラーの夢のクルマであり、まったく興味を示さず、強い反ドイツ感情を持っていることを知ることになる。ただ、ベン・ポンはアメリカ人が興味を示さない根本的な理由は、輸入車の多くは信頼性が無く、しかもトラブルが発生したとき、スペアパーツがすぐに入手できないなどアフターサービスの悪さが輸入車に興味を示さない原因であろうと気づく。持ち込んだビートルは多少のスペアパーツを付けて800ドルで投げ売り、ホテル代と帰りの運賃にあてたという。

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上の3点は1950年に発行されたリーフレットでディストリビューターとして契約したホフマンの名前が印刷されている。ベン・ポンの報告を聞いたノルトホフは失望し、解決策はないものかと彼自身でアメリカへ渡った。驚いたことに、外国のすべてのものに対して不信感を持っていることが分かった。そこで、彼は作戦変更して、ヨーロッパ製スポーツカーを販売して成功を収めているマックス・ホフマン(Max Hoffman)を米国東半分の地域のディストリビューターとして契約し、ホフマン経由で販売する方法を採用した。
 カタログ記載のスペックは、1134cc空冷水平対向4気筒27.5HP/3000rpmエンジン+4速MTを積み、デラックスには油圧ブレーキが採用された(スタンダードはメカニカルブレーキ)。価格はスタンダード1280ドル、デラックス1480ドル(サンルーフ付きは1550ドル)、コンバーティブル1997ドルで、1950年の販売台数はわずか328台であった。ちなみに1950年型シボレーの価格は1329~1994ドル、フォードが1333~2107ドルであった。

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上の5点は同じくホフマンから配布された1950年ビートルのカタログ。エンジンスペックは69.014cid(1131cc)、24HPと記載されている。
 ホフマンはディーラーにクルマを売るだけで、ノルトホフがアメリカ進出には不可欠と考えていたサービスバックアップシステムの構築には消極的であった。そこで1953年にノルトホフは2人の新しい営業担当を指名した。ジェフリー・ランジ(Geoffrey Lange)にミシシッピ川の西側を、そしてウイル・ヴァン・デ・カンプ(Will Van de Kamp)にはミシシッピ川の東側を担当させた。二人は収益性の高いアメリカ市場でビートルを宣伝する素晴らしい仕事をしたという。そして1955年4月、ノルトホフの理想を共有したカール・ハーン(Carl Hahn)が米国に送り込まれ、フォルクスワーゲン・オブ・アメリカが設立された。ハーンは、効率的なサービスの開発とネットワークの確保に重点を置いて、フォルクスワーゲンの伝説的なアフターセールス組織を創設した。パリのOECDにエコノミストとして在籍していたハーンは1953年にノルトホフのアシスタントとしてフォルクスワーゲンに入社。27歳であった。1959年にフォルクスワーゲン・オブ・アメリカの社長に就任し、ビートルを大ブレークさせることに成功する。
 販売台数も1953年1139台、1954年8086台、1955年3万2662台、1956年4万0432台、1957年5万0059台と伸び、1960年には初めて10万台を超えて11万7868台に達した。

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これは1950年に発行されたカタログに載ったプレスラインとアッセンブリーラインの様子。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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