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第87回 ”やすらかにおやすみください。山本健一様”
2018.1.27

「車評オンライン」の再開
まず「車評オンライン」の再開をお知らせしたい。私は昨年7月末軽い接触事故を起こし、その原因が脳梗塞による視野障害であることが判明して2週間ほど入院した。担当医師から6か月間はハンドルを握らないようにというアドバイスがあり、8月以降「車評オンライン」を休ませていただいたが、後遺症はなく回復に向かっており、クルマの運転も間もなくOKが出ると思うので今月から「車評オンライン」を再開したい。

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マツダの社長を務められたていたころ(1980年代半ば)の山本健一さん

山本健一様
2017年12月20日、ロータリ―エンジン(RE)育ての親、山本健一様が亡くなられた。95歳だった。まずこの場をお借りして心からご冥福をお祈りしたい。マツダのモータースポーツ情報サイト、MZRacingの依頼により私を含む数人がhttp://mzracing.jp/featureに「山本さんを忍んで」の一文と写真を寄稿しているのでご覧いただいた方もおられるかと思うが、「車評オンライン」では今回から3回にわたりもう少し詳しく山本さんの偉業を振り返ってみたい。冒頭の写真は日本自動車殿堂(JAHFA)入りされた折に使用された写真を引用させていただいた。

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コスモスポーツとの再会(2016年12月)

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コスモスポーツとの再会
朝日新聞(広島総局)が2017年はじめから「飽くなき挑戦 ロータリーエンジンの半世紀」という記事を掲載されていることをご存知の方も多いと思う。新聞記事は広島版のみだが、全国向けにはデジタル版で見ることが出来るもので、これまでに第1、2、3部が完了、第4、5、6部と続く予定だ。このコスモスポーツとの写真は、朝日新聞が2016年12月にコスモスポーツオーナーズクラブの星野仙治さんにお願いしてコスモスポーツを持参いただき、山本さんとコスモスポーツの再会のシーンを撮影することが出来たものだ。山本さんは写真のようにお元気で、コスモスポーツとの再会を心から喜んでいただけた。

またその折に以下のようなお客様へのメッセージも頂戴した。『私がREの開発責任者として日々努力していた時には、RE搭載車が普及し皆様に楽しんでいただけることを夢見ていました。様々なことがありましたがこれまでRE車にお乗りいただいてきたお客様、そして現在もお乗りいただいている皆様を本当に有難いと思っており、お乗りのクルマを引き続き愛していただければこれに越した喜びはありません。アメリカに初代RX-7を持ち込んだ時に、販売店の人たちはもちろんのこと、お客様が涙を流して喜んで下さったことは今でも忘れられません。』

以下は朝日新聞インターネットサイトURL。
http://www.asahi.com/special/mazda-rotary/


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1950年代後半のマツダの主力車種だった3輪トラック

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松田恒次社長

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松田社長、西ドイツに飛ぶ

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初期のNSU-バンケルエンジン

松田恒次社長の決断
1920年、東洋コルク工業として広島で産声をあげ、1929年社名を東洋工業に変更後は三輪トラックの商品化に着手、戦後は三輪トラックメーカーして成長、1960年代に入りR360クーペなどを導入、乗用車メーカーを目指したが、50年代後半、まだひ弱だった日本の自動車産業を守るため、「特定産業振興法」が浮上、東洋工業は大手に飲み込まれる可能性が大きかった。そのようなとき「西ドイツで夢のエンジン誕生」のニュースが松田恒次社長の耳に飛び込んできた。松田社長はその広い人脈を有効に活用、自ら西ドイツに飛んで1960年10月、NSU-バンケルとの間に仮契約を結んだ。松田社長にとっては初めての、また最後の海外トリップとなったが、これがマツダがREに取り組むきっかけであった。

松田社長によるRE実用化に向けた挑戦の決定とともに開発リーダーに指名されたのが山本健一さんだが、山本さんは必ずしも当初からREにぞっこんだったわけではないようだ。山本さんの回想録によると、『1946年東洋工業に入社以来最初の3年間を除きエンジン設計にたずさわる期間が長く、自動車エンジンがいかに過酷な条件にさらされ、耐久性、信頼性が重要な課題であるか身をもって知っていたからだ。しかし私にとってはまさに驚天動地のことがおきた。RE研究部を編成し、RE開発に専心しろという松田社長からの指示であった。』

山本さんは早速社内各部門を回って頭を下げ若い人材を確保されたが、中でも重視したのが材料研究部門だった。未知のREでは材料が重要な役割を果たすと予見されたからである。1963年4月に新設されたRE研究部は、調査、設計、試験、材料研究の4部門からなり、47名による研究開発活動が始動した。研究部結成パーティーの席上で山本さんは『マツダの存亡をかけて新エンジンに取り組む我々は忠臣蔵の赤穂浪士47名と同じ運命をもつ。これからは力をあわせ、寝てもさめてもRE成功のために努力をして欲しい』と激励された。

山本さんの心をもっとも揺り動かしたのは、1963年秋の東京モーターショー終了後、コスモスポーツの試作車で松田社長と共に行脚した広島出身の池田勇人総理、金融筋、マツダ販売店などの訪問だったという。『そこで私が学んだのは、社長がいかにREに一生懸命になっているかということだったが、直接私に云うのではなく、背で私にわかって欲しいということではなかったか。広島への帰途、東海道、山陽道沿いのマツダ販売店も訪れたが、この一連の行脚が私の決意を決定的なものにした。』

私と山本さん、REとの結びつきが始まったのも1963年だ。高校時代からバイク&クルマ一筋で、大学でエンジンの燃焼を研究していた私は、就職先はREの開発に着手した東洋工業しかないと判断、幸い1963年4月に入社がかない、研修終了後何名かの同僚と共にRE研究部に配属された。配属先はRE研究部試験課だった。私は四十七士の一人ではなくその次の世代だ。以来8年間、ベンチテスト、実車テストなどで初期のRE開発に携わることになる。

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悪魔のつめあと

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RE研究部の中核をつとめた方達の協議

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立ちはだかった幾多の難問
RE研究部の発足により開発に拍車はかかったが、「夢のエンジン」と呼ばれたREが幾多の問題を抱えていることが日を追うごとに明らかになった。山本さんの回想録によると、『著名な学者が内燃機関は信頼性、耐久性からシンプルであることが重要であり、特に重要なガスシールでREのアペックスシールの線接触は理論的に成り立つ訳はなく、必ず摺動面に異常摩耗が生じので、REがモノになる訳はないという烙印までおしてくれた。』という。事実最も苦労した問題の一つは「悪魔のつめあと」と命名したアペックスシールの摺動によりローターハウジングの表面に生じる波状磨耗(チャターマーク)だった。

山本さんは『私はチャタ―マーク発生の原因はアペックスシールの固有振動数に基づく摩擦振動ではないかと考えた。もしそうであるなら固有振動数をかえてみればよいのではないかと日夜思いをめぐらした結果思いついたのがシールに縦横に小穴を開けたクロスホローアペックスシールで、結果は予想以上に良かった。』とおっしゃっている。しかしそんなある日、高強度カーボン材料の開発に日本カーボン(株)が成功、直ちに共同開発体制がしかれるものの開発は難航、両者の技術者の魂のふれあいに支えられ、3年後アルミを特殊な方法で浸み込ませた高強度アペックスシールがついに完成、耐久性は飛躍的に向上した。

その他にローター側面のオイルシールから漏れたオイルが燃焼室に入って燃焼し排出されるもうもうたる煙も大きな問題で、「かちかち山」と呼ばれた。この問題はリング状のオイルシールをローター側面に装着し、溝側面との気密はゴム製オーリングで行うことで解決することができたが、この特殊なオイルシール部品の開発に大きく寄与したのは日本ピストンリング(株)と、日本オイルシール(株)だ。

また「電気あんま」と呼んだ不整燃焼による車体振動も問題となり、その対策としては、サイドポートと呼ぶ吸気システムが大きく貢献した。幾多の技術的な困難や社内外の体制派からの批判に対して山本さんは強力なリーダーシップを発揮、技術達は「寝てもさめても」の思いで応えた。

部品メーカーの協力
RE車の実用化に対する部品メーカーの協力は非常に重要な要素となった。上述はそのほんの一例だが、山本さんの回想録によると、『1963年5月。RE研究部が設立された直後、松田社長は直ちにエンジン関連部品メーカーの経営陣トップを宮島口にある迎賓館へ招いた。浴衣姿でくつろいだ部品メーカー経営幹部の皆さんを前にして、松田社長は「これからの厳しい国際競争に生き残るためにRE開発に取り組むことにしました。マツダが独立企業として生き残るためにはREの完成が必須ですが皆様のご協力なくしては不可能です。どうぞよろしくお願いします。」と述べられ、これに対して部品メーカーの代表者が「一生懸命協力させていただきます」とあいさつされたが、このようなことはおそらく欧米にはないだろう。REの実用化の成功はこのような部品工業各社の協力があったからだ。』と述べられている。

この迎賓館は松田社長が内外のお客様との交流用にと、1957年に建設されたもので、私も海外広報時代に海外のジャーナリストとマツダのトップマネージメントとの交流のために頻繁に活用した、まさに日本特有の素晴らしい「おもてなし」施設だったが、一時期フォードの資本下に入った時に売却させられてしまったのが今でも残念だ。


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コスモスポーツのレイアウト

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イギリスにわたったコスモスポーツ(1967年)

コスモスポーツ
このように量産化に向けての多くの技術課題に取り組んできたが、初代のRE搭載車には「コスモスポーツ」が選択された。この選択にも松田社長の先見性があったと思う。マツダの選択がもしGM、日産、シトロエンのように小型乗用車であったならば、果たしてその後RX-7やRX-8のようなクルマが生まれてきたか、またマツダのRE開発への情熱が継続したかどうかは疑問だ。当時としては最先端をゆくオーバー200km/hの評価も可能な三次自動車試験場が1965年5月に完成したのも松田社長の先見の明で、三次試験場は実車開発に大きく貢献した。しかし開発は社内に限らなかった。1966年1月からは60台のコスモスポーツを全国各地の特約販売店に配車、あらゆる気象条件や道路条件のもとでの走行を依頼、1967年5月遂に念願の発売にこぎつけることが出来た。

上に掲載したイギリスにおけるコスモスポーツの写真は、山本部長のご指示により1967年末に私の初めての海外出張として約3か月間イギリスに渡った時のもので、設立したての現地販売店へのREに関するトレーニングを行うとともに、広報活動に使用したコスモスポーツを毎日一人で油だらけになりながら整備した。倍力装置のないブレーキへに対するプレスからの批判なども受け、導入後わずか1年一寸でマイナーチェンジが行われた。

5年間の累計生産台数は1,176台と決して多くはないが、導入後50年を経過した今日でも約300台がコスモスポーツオーナーズクラブの皆様の手によって大切にキープされている。イタリアのディアゴスティーニが1/8のモデルを全100号で完結するプロジェクトを昨年開始、販売されていることも非常にうれしいが、「完成モデルを是非山本健一さんにプレゼントしましょう」というディアゴスティーニとの約束が果たせなかったのは大変残念だ。

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1968年ニュルブルクリンク84時間レースで4位入賞

ニュルブルクリンク84時間レース
コスモスポーツによる1968年のニュルブルクリンク84時間レースへの参戦は、REの信頼、耐久性、性能を公の場で実証したいという山本さんの想いを反映したものだ。このエンジンの開発にはその後マツダのモータースポーツレジェンドとなる松浦國夫さんとともに私も携わった。私は実際のレースには参加しなかったが、このレースで総合4位という結果を得たことは以後のルマンを含む耐久レースへの大きな足掛かりとなった。


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1964年バンケル博士をリンダウに尋ねた時の写真

バンケル博士と山本さん
山本さんの回顧録によると、フェリクス・バンケル博士との初めて出会いは以下のようだ。『1964年、私がロータリーエンジンの研究部長としてスタッフと共にネッカーズルムのNSUを訪れた際、バンケル研究所のあるリンダウを訪ねた時であった。近代的なバンケル研究所を見学した後、私達はロータリーエンジン開発の現状と将来について、マツダの開発について、報告と意見交換した。私はまず、初対面で、彼の世間ずれしていない純粋無垢な人柄に感銘を受け、彼に少年の率直な童心すら感じたものだ。』この写真はその時のものだ。

バンケル博士との出会いはそれほど頻度の高いものではなかったようだが、『マツダは1978年春ロータリーエンジン専用のスポーツカーRX-7を発表して市場からおおいに歓迎されたが、バンケル博士から早速2台の注文を受けた。RX-7を受け取って試乗後、バンケル博士から私に届いた礼状は喜びに溢れ、私達の努力に対する深い感謝が述べられていた。1983年10月、私はヨーロッパ各国のジャーナリストとの交流の為スペインに飛んで地中海沿岸の保養地マラガに一週間滞在し、彼らとの交流の場をもった。バンケル博士は私と歓談するためわざわざマラガに来てくれた。(このマラガでのイベントは初代FF626(カペラ)の欧州市場導入のため、当時海外広報担当だった私(小早川)が企画、運営したもの)。その後1985年9月私がマツダの社長であった時、マツダはフランクフルト自動車ショーに試作車を展示、83歳のバンケル博士がまた私と会うためにきてくれた。』

バンケル博士は1988年永眠されたが、山本さんは以下のように綴られている。『生みの親と育ての親同士が心から信じあえたことは、私の一生の中で最大の喜びだ。いつの日にかバンケル博士の墓を訪ねて語りあいたい。』


以下(その2)に続く


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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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