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第58回 戦時下に発行されたアメリカ車メーカーのポスター
2017.6. 8

 今年の秋には東京モーターショーが開催される。しかし、いまのところアメリカ車の参加はゼロのようだ。トランプさんは「不公平だ!」とわめいているが、去年の秋にはフォードは日本市場から完全に撤退してしまったし、売る気があるのだろうかと疑ってしまう。敗戦後の日本の街にあふれた華やかなアメリカ車を羨望のまなざしで見て育った筆者などは、日本におけるアメリカ車の凋落ぶりを見ると何とも情けない。そこで、日本にあふれていたアメリカ車を年式ごとに紹介して記憶にとどめていただこうと思う。1946年型については第19回で紹介したので1947年型から始めようと思う。
 その前に、1942年から1945年の間、乗用車の生産を中断して兵器生産にまい進したメーカーの広告の一部を紹介する。兵器生産は税金、戦時国債などを財源としており、メーカーとしては自社がいかにお国のために貢献しているかを積極的にアピールしている点、税金を自分の金のように使い、情報公開が大嫌いな日本の政治屋や役人たちとは根本的な違いがある。
 米国は1941年3月、ルーズベルト大統領が武器貸与法に署名して、それまでの中立的立場を放棄、ヨーロッパ連合軍の対ドイツ戦に参戦。5月には国家非常事態・臨戦態勢確立を宣言した。同年12月8日、日本軍による真珠湾奇襲攻撃で対日戦にも突入した。
 米国では1942年2月にすべての民生用車両の生産は禁止され、1945年6月まで続いた。したがって、1943~45年型民生用アメリカ車は存在しない。1942年型の生産量も極めて少なく、1941年型の421万台に対し、僅か114万台であった。戦勝後も戦前の1941年のレベルに復帰したのは1949年(約524万台)であった。

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対日戦に突入すると、兵器の増産に伴いより多くの人材が必要になるが、男性は兵役にとられ、やむなく女性の時間給現場作業員を採用していく。1942年2月早々には電話で募集を開始したが、真珠湾奇襲は女性たちにも戦う気を起こさせてしまったようだ。しかも、動員された女性たちの賃金は高く、時間給60~90セント(通常は45セント程度であった)、週48時間労働で魅力的であったという。筆者がGMヘリティッジセンター訪問時に、キャディラックの兵器生産に関する記録を見たところ、1944年2月の時点で女性作業員が41%を占めたと記録されていた。
 上の2点のポスター「We Can Do It!」は戦争生産調整委員会(War Production Co-ordinating Committee)発行のもの。下段は石油会社のTEXACO(The Texas Co.)が発行したもので、アドルフ・ヒットラーと戦う、恋人のエディーが使う兵器生産にはげむアリスを描いた、戦意高揚を狙うポスター。

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これは1943年にGMが発行した広告。戦争に必要なのは、兵隊や武器の数だけではなく、戦地でのサービス体制だと説いている。戦争が始まったとき、GMは世界100カ国以上にパーツディストリビューションシステムを持っており、武器の補修に必要な部品供給体制を整え、GM製の武器がきちんと作動するよう維持するために、兵士に対する教育システムも確立していると訴求している。

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1943年にGMのオールズモビル部門から発行された、米国海軍のカーチスSB2Cヘルダイバーによる「スーパー・マウス」飛行編隊が20mm機関砲で攻撃している広告。オールズモビルの兵器生産に関する記録によると、真珠湾攻撃の数カ月前から生産・納入を開始していたが、1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本軍による真珠湾攻撃を受けると、一気に臨戦体制に入っていく様が、克明に記録されている。オールズモビルは早速従業員のモラル、士気高揚のキャンペーンを張り、1942年1月18日からは、主力製品のひとつである20mm機関砲の生産ラインは、「スイング・シフト」と称する、週7日、3直24時間体制に入ったと記録されている。

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これは広告ではないが、1944年9月に発行された「国のニーズに合わせたシボレーの大量生産」と題した冊子。平和時と戦時のシボレーの活動、特に第2次世界大戦にいかに貢献したかを訴求して、戦後の販売を意識したアピールを行っている。

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1945年にGMのシボレー部門から発行された広告。「アメリカ自動車業界のリーダーであるシボレーは、全世界の地上、上空で、常に最大の輸送業務への資源を揃えています。」のコピーと、フェアチャイルドC-82 フライング・ボックスカーに搭載されるプラット&ホイットニー航空エンジン、および47万5000台以上の軍用トラックを生産したと訴求している。戦争におけるロジスティックス(兵站)の重要性を理解している証拠。日本軍にはこの認識が欠如していた。

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1945年にGMのビュイック部門から発行された広告。コンソリデーテッドB-24リベレーター爆撃機に搭載するプラット&ホイットニー航空エンジンを5万基(1万2500機分)以上生産したとアピールしている。ちなみにB-24の総生産数は1万8,181機であるから全数ではない。

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「こんなことができるのは"DUCK"だけ」のコピーを付けて、1945年にGMC トラック&コーチ部門から発行された広告。「ダック」は正式名称「2½-ton 6x6 Amphibian Truck」と称する全長9.5m、全幅2.5mの水陸両用トラックで、2万1147台生産された。

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GMのフィッシャーボディー部門から発行された広告。ボーイングB-29スーパーフォートレスが描かれているが、B-29の生産には多くの自動車関連企業が参画しており、フィッシャーボディーはフィン、スタビライザー、ラダー、フラップ、エンジンナセルなど多くの部品生産を担当した。イラストには中国人の少年がVサインをしているが、当初、日本攻撃の基地が中国にあったためである。B-29計画は第2次世界大戦中に実施された最大のプロジェクトであり、コストは原爆開発のマンハッタン計画をしのぐという。1938年からボーイング社内ではB-17の後継機として独自に計画を進めていたが、米国陸軍航空隊から正式にスペックが提示されたのは1939年12月であった。ファーストフライトは1942年9月、就役は1944年5月、生産機数は3970機。オーダー数は5000機と言われるが、終戦と同時にキャンセルされたという。B-29が就役すると1944年6月の八幡製鉄を皮切りに、本土空襲がはじまり、やがて、マリアナ諸島が陥落すると、テニアン、サイパンを基地に日本全土への空襲が激しくなり、次々と街が灰燼と化していった。

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1944年に撮影されたボーイング社のB-29生産ライン。

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GMのオールズモビル部門が発行した広告。キャディラック部門が生産するM-24戦車に搭載する75mmカノン砲をオールズモビルが生産していたが、ここではGMが1939年に1940年型オールズモビルにオプション設定したハイドラマチック自動変速機が戦車に搭載されたことをアピールしている。ハイドラマチックはGMのセールスポイントであり、戦車に搭載されたことで、優秀さと耐久性が高く評価され、戦後に乗用車の拡販につなげたいという意図が感じられる広告。クルマは1942年型オールズモビル。
キャディラックの主力製品は、V8ガソリンエンジンにハイドラマチックを組合せて2基搭載した戦車M5、M8、M19、M24であったが、GMヘリティッジセンターで確認した記録には、受注から生産までの経緯、出荷状況、問題点と解決方法、サービス資料、米国内および戦地でのサービス教育、サービス部品の設定、受注、生産、出荷方法に至るまで記録されていた。特に、工具などまったく手にしたことが無い女性工の教育には苦労したようだ。ちみに、第2次大戦中に生産された戦車の約57%は自動車メーカー製と言われる。

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1944年に発行されたと思われるキャディラックの広告には「パールハーバーに対する復讐!」のコピーと日本の街、工場が火の海になっている上空をロッキードP-38ライトニングが飛ぶ。真珠湾への奇襲攻撃は米国民の戦意高揚のための絶好の出来事として取り上げられていた。キャディラックでは戦車の他に、アリソンのV1710液冷V型12気筒航空エンジンの部品生産も行っており、ロキードP-38ライトニング、カーチスP-40ウォーホーク、ノースアメリカンP-51マスタング、ベルP-39エアラコブラ、P-63Aキングコブラに搭載されていた。

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GMのオールズモビル部門が発行した広告。軍用機の攻撃力強化のため、重火器搭載の要望に応え、戦車に搭載されていた75mmカノン砲を装備したノースアメリカンB-25Gミッチェル爆撃機。浮上した日本?の潜水艦を攻撃している。

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これもGMのオールズモビル部門が発行した広告。第2次世界大戦初期に欧州での航空戦をとおして、夜間戦闘機の必要性を痛感し、ノースロップに発注して完成した、アメリカ初の夜間戦闘機P-61ブラックウイドー。しかし、実戦配備されたのは1944年後半であり、ドイツも日本も既に戦闘能力はほとんど無く、宝の持ち腐れであったようだ。オールズモビルではこれに搭載する20mm機関砲を生産していた。

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1945年にフォードが発行した広告。フォードが担当したコンソリデーテッドB-24 リベレーター爆撃機の生産は、40年にわたる自動車生産のノウハウをフルに活かして、製造時間の短縮と原価低減を徹底的に追及し、従来の飛行機生産とは全く違う、流れ方式による大量生産方式が採用された。最大生産能力は驚くなかれ1時間に1機、月産400機であった。コスト低減努力は凄まじく、1942年の23.8万ドルが、1944年には13.7万ドルまで下がった。フォード本社広報に確認したところ、40%のコスト削減は契約条件に含まれていたという。一例をあげると、主翼部分の生産に要する工数は、5500人時から460人時にまで短縮されたと言われる。 
 工場造りも素早く、デトロイト西方約50km、ウイローランの760万㎡(230万坪)の土地に、一つ屋根の建物としては当時世界最大の幅390m、長さ975mのL型工場を工事開始からわずか94実働日で完成している。2本の滑走路を持つ飛行場も併設され、1942年9月には最初のB-24が完成、1945年6月生産中止するまでに8685機を生産した。ちなみにB-24の総生産数は1万8181機で米国軍用機史上最多。 その内フォードが48%を生産したことになる。

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上の2点はフォードのウイローラン工場で生産されるB-24 リベレーター爆撃機。(Photos:Ford Motor Company)

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1944年にウイリス・オーバーランドモーターズ社から発行された広告。激戦のさなか、イタリアのネットゥーノに陸揚げされるジープを描いている。ジープのオリジナルデザインはアメリカン・バンタム社が行ったが、大量生産能力が無いと判断され、1941年7月ウイリス・オーバーランド社が正式受注した。その後、1941年10月、陸軍はジープが大量に必要と判断し、ウイリスからフォードに図面を提供して、フォードでライセンス生産させたいとの要請が出され、1941年11月にフォードはセカンドサプライヤーとして契約を結び、フォードGPW(General Purpose Willys)が誕生している。ウイリスMBの生産台数は36万1349台、フォードGPWは27万7896台であった。

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1944年にパッカードが発行した広告。パッカードは1915年に生産開始したV-12気筒エンジンのノウハウを活かして開発された「リバティ」航空エンジン、舶用エンジンの実績が評価され、戦時戦略ではエンジン生産を担当する。一つはロールス・ロイス社製マーリンV-1650、液冷27リッターV12気筒1490HP航空機用エンジンのライセンス生産。しかし、このエンジンは英国で熟練工によって手造りされており、戦時下で多くの女性を含む未熟な作業者が大量生産するには無理があった。そこで、パッカード社は設計変更を行い、組立性、サービス性の向上を図った。完成品の性能、品質にはロールス・ロイス社が太鼓判をおしたという。スーパーマリン・スピットファイア、カーチスP-40ウォーホークなどに搭載されたが、なかでも、ノースアメリカンP-51マスタングには当初アリソンV-1710が採用されたが、途中でパッカード製V-1650に換装され、第2次世界大戦の最優秀戦闘機と評されるほどの完成度を誇った。パッカードでの生産台数はなんと5万5523基。パッカードの有名なスローガン「Ask the man who owns one」は「Ask the man who flies one」に書き換えられている。

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「これは仕返しだ・・・」のコピーを付けて1944年にナッシュ・ケルビネーター社から発行された広告。ここに描かれたのはPTボート(Patrol Torpedo Boat:哨戒水雷艇)。ルーズベルト大統領の要請で、パッカードが新たに開発した4M-2500 水冷41リッターV12気筒1200~1500HP舶用エンジン。これは海軍のPTボート用で、通常1隻に3基搭載された。戦法は夜陰にまぎれてエンジン1基を作動させ、静かに敵艦に近寄り水雷を発射。すかさず反転し、3基のエンジンをフル稼動させて離脱するというもの。大戦中、マッカーサー元帥がコレヒドールから一時撤退するときに使用したのと、ケネディ大統領が乗船していた「PT109」艇が有名。エンジン生産台数は1万2103基(1957年に発行されたパッカード社の広報資料には1万3000基とある)。

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1943年にスチュードベーカー社が発行した広告。スチュードベーカーは、4×4、6×4、6×6軍用トラックを合計19万7678台。ボーイングB-17フライングフォートレス重爆撃機用ライト・サイクロンR-1820-97空冷星型9気筒1200hpエンジン6万3789基。秘密裏に自社開発した、全長わずか2920mmのクローラーを持った水陸両用車「ウィーズル(Weasel)」を2万5124台生産した。契約金額は総額12億ドルに達し、1933年の経営破綻以来無配であったが、1943年に株主は11年振りに配当を手にすることができたという。スチュードベーカー社に10セント送ると、24×22インチサイズの右下にあるB-17の額装可能な絵を送ってもらえるとある。

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1945年にスチュードベーカー社から発行された広告。沖縄も陥落し、本土決戦を想定した広告で、「スチュードベーカーのウィーズルが東京侵攻のペースを助ける」とある。

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「あなたは正々堂々と行動してますか?」価格管理局(The Office of Price Administration)が発行したポスター。戦争がはじまるとタイヤの磨耗を少なくするため、速度制限が35mph(56km/h)に規制され、 ガソリンも配給制となって、一般の庶民は週4ガロン(15リットル)、1943年に3ガロン(11リットル)、1944年には2ガロン(8リットル)迄減らされた。どこの国でもある事だが、コネを使ってごまかす者、配給クーポンを盗む者などが現れたため、ガソリンのヤミ市場と戦うために、価格管理局は家庭の愛国心にアピールするため、このようなポスターを作成した。

 ここに紹介したのは、戦時中に発行された広告のほんの一部に過ぎない。1944年末には多くの自動車メーカーは戦後の準備を開始していたようだ。そんなこととはつゆ知らず、兵站のない戦場では兵士たちは餓死し、あるいは玉砕し、本土では空襲によって何10万の命が奪われていったのだ。筆者自身も3月10日の東京大空襲では猛火に囲まれ逃げ場を失いあきらめたが、勇敢な巡査の誘導で猛火のわきを必死で駆け抜け命拾いした。田舎が無いので、疎開して空き家となった家を借りたが、5月25日の山の手の空襲で、雨のように降りそそぐ焼夷弾のなかを逃げ、至近弾は2メートルほど前方にズボッズボッズボッと束になって落ちたが、幸い直撃を受けず命拾いした。日米間には70倍以上とも言われる圧倒的な工業力の差があり、勝敗が明らかになった時点で早く降伏していれば何10万の尊い命が助かったであろうに、無知で傲慢なリーダーを持ったのが不幸であった。最近、なにやら似たような雰囲気になってきたようで不安だ。杞憂に終わればよいが。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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