三樹書房
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第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont
2016.12.27

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1929 Du Pont Model G           (2017年は「トリ」年です)

(01) < DeDion-Bouton > (仏)
「ド・ディオン-ブートン」と言う車は、ベルギーの貴族「アルベール・ド・ディオン」伯爵によって生み出された。彼はメカニズムへの関心が高く、バイエルン王国の首都ミュンヘンで当時最先端技術だった蒸気機関の構造を学んだ。成人後はパリに住んでいたが、1881年おもちゃ屋で見つけたミニチュアの蒸気機関車が、小さくても本物と同じ構造と機能を持って居る事に着目した。早速これを造った「ジョルジュ・ブートン」と義弟で設計者の「トレパルドゥ」を訪ね、「蒸気自動車」造りを提案し、スポンサー&ディレクターと技術者と言う関係でトリオを組み、1883年には1号車が完成する。最初の車は前2輪の3輪車でボイラーと蒸気機関は後部にありベルトで前2輪を駆動し、後輪で操舵するタイプだったがうまく曲がれない致命的欠点を持つ失敗作だった。この失敗を踏まえ1885年には1号車と前後逆転させた2号車が完成した。動力が前にあり、後輪で駆動し、前輪が操舵を担当する、と言う長い間自動車の基本となったレイアウトが確立された。この車の後車軸(リアアクスル)の構造が画期的で、「ド・ディオン・アクスル」(注*)と呼ばれ、現代にまで使用される優れたアイデアが取り入れられていた。その後3輪から4輪に発展、大型化を図って生まれたのが蒸気自動車の傑作「ド・ディオン-ヴィクトリア」だった。
・1894年新聞社の主催で世界初となる「パリ~ルーアン走行会」が開かれ、蒸気自動車、ガソリン自動車混合で21台参加した。「走行会」と言う名目ながらも実質は「競争会」で、ド・ディオン伯爵の「ヴィクトリア」が127キロを走り切ってゴールインしたが、メカニックを乗せていたという事で失格となり、ガソリン車の「プジョー」が繰り上げ優勝となった。このイベントに続く次の企画は「パリ~ボルドー往復1200キロレース」が伯爵から提案され1895年6月11日の開催が決まった。当時の自動車にとって1200キロと言う距離は想像も付かない程の距離だがそれでも15台のガソリン車、6台の蒸気自動車、1台の電気自動車かスタートした。「ド・ディオン-ヴィクトリア」は巡航速度が高く前半で独走態勢に入っていたが、シャフト折損でリタイアし、ガソリン車の「パナール& ルバッソール」が48時間47分でトップでゴールインした。2位は6時間30分の差で「プジョー」が入ったが、両車共2座仕様で、4人乗りの規定の反しているので、3番目に帰ってきた4座仕様の「プジョー」が優勝車となった。結果ゴールインした順位は8番までは全て「ガソリン車」で、9番目に蒸気自動車として唯一完走した「ボレー/ラ・ヌベール」が帰ってきた。  
・このレースの結果を見て蒸気自動車の時代が終わりかけていることを感じた伯爵は、その後ガソリンエンジンに対して強い関心を示し、ダイムラー・エンジンを乗せた「パナール& ルバッソール」や「プジョー」を試乗し好感触を得た。その結果「ガソリン・エンジンへの転向を決め、パートナーにはかったが、設計担当の「トレパルドゥ」は納得せず会社を去り、「ジョルジュ・ブートン」がガソリンエンジンを設計し製作する羽目になった。「ダイムラー」や「ベンツ」のエンジンを参考に1895年何とか空冷単気筒150ccエンジンが誕生したが、まだ実用には程遠く、数々の改良を経た後ようやく完成した。このエンジンを使って造られたにが「ド・ディオン・ブートン」初のガソリン車「トリシクル」である。
(注*)「ド・ディオン・アクセル」
1893年、まだ蒸気自動車だった「ド・ディオン」が初めて採用したアイデアで、駆動輪の車軸にはデフレンシャル・ギアも一体に固定されているのは普通だったが総重量がバネ下荷重となる。ド・ディオン・アクセルではデフを車体側に固定することでバネ下荷重を軽減し、路面追従性の向上を計っている。「ド・ディオン・アクスル」として伝えられているが、実際に設計したのは当時の設計担当者「シャルル・トレパルドゥだった。」

(写真01-1a)1898 DeDion-Bouton 1 3/4 hp Tricycle (2007-04 トヨタ自動車博物館)
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「ド・ディオン・ブートン トライシクル」は1895年完成し、好評を得てフランス初の量産・市販車となった。3輪自転車の後部に新しく開発された単気筒のガソリンエンジンを載せたもので、現代の目で見れば自転車に近い。蒸気自動車の時代の車名は「ド・ディオン」だったが、ガソリン車になって「ド・ディオン・ブートン」と変わったのは、ガソリンエンジンの開発を成功させた「ジョルジュ・ブートン」の功績を高く評価した結果だろう。エンジンは150cc 1 3/4 (1.75hp)となっている。

(写真01-2a)1899 DeDion-Bouton 2 1/4 hp Tricycle (1971-03 ハーラーズ・コレクション)
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写真の車は「ワールド・クラシックカー・フェスティバル」と銘打って東京・晴海の貿易センターで開催された、アメリカ・ネヴァダ州 リノにある「ハーラーズ・コレクション」の1台だ。このコレクションは、リノでカジノ、ホテルなどの娯楽施設を経営する「ウィリアムF・ハーラー氏が1948年から約20年で集めた1400台で、1961年には元機関車修理工場だった3棟を入手、ショールームとして一般公開している。レストアを担当する熟練したメカニックだけでも78人も抱えている規模の大きさは流石アメリカだ。ハーラー氏が亡くなった後は「ナショナル・オートモビル・ミューシアム」となっている様だが、紹介されている写真の中に以前見た珠玉の名車が欠けており、これらは世界中のコレクターの元に分散してしまったようだ。今回展示された車は馬力アップした改良型で、排気量は210ccとなり、馬力も2 1/4hp (2.25hp)まで上がった。始動はペダルを踏んで加速を付けてからエンジンと繋ぐと言う方式で、本田宗一郎が造った「バタバタ」を始め、戦後のモーターサイクル黎明期は日本でも皆この方式だった。

(写真01-3ab) 1899 DeDion-Bouton Quadricycle (2008-01ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)
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1人乗りの3輪車から2人乗りの4輪車に進化したのがこの車だ。「トライシクル」は1903年まで作られたから両車はこの時期併売されていた。ハンドルから後ろは3輪と同じで、ハンドルから前が2輪となり1人分のパッセンジャーシートが追加されたものだが、このスタイルは子供シートが前にある最近の電動自転車を先取りしている。ドライバーは依然としてサドルでシートではないが、量産を考えればハンドルから後ろは3輪と同じと言う事も納得できる。エンジンは239cc 1.75hp 最高速度30km/hとなっている。

(写真01-4abc) 1899 DeDion-Bouton Quadricycle (2008-11 トヨタク・ラシックカーフェスタ)
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トヨタ博物館所蔵のこの車も他の車と基本的には同じでそれぞれパッセンジャーシートに好みが出ている。この車は可動で、お客さんを乗せている姿が珍しい。エンジンは240cc 1.75hpとなっている。

(写真01-5ab)1899 DeDion-Bouton Quagricycle (2016-11 トヨタ・クラシックカーフェスタ)     
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この車も前項の車と細かい点を除いて基本的には全く同じだ。出展者は石川県小松市の「日本自動車博物館」、特に目を引くのは籐椅子を載せたトレーラーで、明治時代にこの車のオーナーは人力車に乗っているような気分でシートにふんぞり返っていたのだろうか。人が乗っている所を想像すると愉快だ。エンジンは250cc で2.25hpとなっている。
(それぞれの排気量と出力は案内板に従ったが少々辻褄が合わない部分もある。表示では
① 150cc 1.75hp ② 210cc 2.25hp ③ 239cc 1.75hp ④ 240cc 1.75hp ⑤ 250cc 2.25hpとなっているが、ある資料では①は1.25hp,②は1.75hp となっており①と②が1/4hpと3/4hpを取り違えた可能性がある。)

(写真01-6a) 1901 DeDion-Bouton Type G Vis a Vis  (2003-02 フランス国立自動車博物館)
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現代の目で見ればこれで?と思うかもしれないが、この辺りから乗り物としての形が整って来たと言えるだろう。床板があって普通に椅子に腰かけていれば目的とまで運んでくれる乗り物が出来たのだ。運転席と客席が向かい合っているスタイルは「ヴィザ・ヴィイ」と呼ばれ、初期の「ド・ディオン・ブートン」には多く見られた。自動車では違和感もあるが、よく考えたら大型の長距離馬車(駅馬車)も、電車のボックスシートも座席は向い合せだし、乗り降りにも便利だ。取って付けたようなウインドスクリーンはこの車独自のようで他には見たことが無い。エンジンは水冷単気筒 498cc 5hp 2段ギアボックスを持ち最高速度23mph(37km/h)だった。

(写真01-7a) 1902 DeDion-Bouton Type L Vis a Vis  (2003-02 フランス国立自動車博物館)
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写真の車は1902年の「タイプL」で、見た目は去年の「G」と全く変わらない。四隅に棒を立てて屋根と言うより天蓋を載せているが、これはモデルのスタンダードではなくこの車のオプションだろう。ここには同じ1902年のタイプ「H」と「O」も展示されていたが、こちらはフロントエンジンなので「ヴィザヴィ」と併売されていた事になる。これから推定すると1901年から2年にかけて「G」から「O」まで9種のモデルが造られた事になる。
エンジンは水冷単気筒 699cc 6hp 最高速度28mp(45km/h)となっている。

(写真01-8a) 1903 DeDion-Bouton Type Q (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
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「ド・ディオン・ブートン」は1902年からフロントエンジン車の製造を始めた。写真の車はイギリスのモンターギュ伯爵家が2代にわたって収集した膨大なコレクションの最初の5台に内の1台だが、この車からやっと我々の概念で「自動車」と言う形になった。のっぺりしたボンネットの形は「ド・ディオン・ブートン」ではすぐ姿を消してしまったが、「ルノー」は1900年から1920年代後半までこのスタイルが続いた。この車は有名な「ロンドン-ブライトン・ラン」の常連だった。エンジンは水冷 単気筒 698cc 出力不明 最高速度30mph(48km/h)となっている。

(写真01-9a) 1903 DeDion-Bouton Racer        (2002-02 レトロ・モビル/パリ)
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 写真の車は1903年の「パリ-マドリッド間レース」に参加した車だ。この車の結果がどうだったかと調べてみて驚いた。このレースは「悲劇のパリ~マドリッド」と呼ばれる大惨事を引き起こし、政府によって途中のボルドーで中止されてしまったのだ。この「死のレース」にはコースの指定は無く、目的地スペインのマドリッド迄の1313キロは何処を走っても構わなく兎に角一番先に到着したものが優勝と言うものだった。179台が2分間隔でスタートし130キロ近いスピードで街や村を駆け抜けた。その結果参加者、観客合わせて5人の死者を出してしまった。写真で見るように、当時のレーサーは「車輪」「エンジン」「燃料タンク」「シート」と走るため最小限度の物しかついていないから、ハンドルにしがみ付くのが唯一振り落とされない手段だった。

(写真01-10a)1906 DeDion-Bouton Type AL Tonneau (2002-02 フランス国立自動車博物館)
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この年はまだのっぺりしたボンネットだが、冷却用のラジエターは正面下部に設置されている。同じスタイルだが「ルノー」はラジエターのコアがボンネットの両サイドにあるので冷却効率は低い。エンジンは水冷単気筒 942cc 6hpと排気量は徐々に大きくなっている。

写真01-11a) 1908 DeDion-Bouton Type BG Tonneau (2003-02 フランス国立自動車博物館)
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この年からのっぺりしたボンネットから正面にラジエターが付いた引き締まった顔つきに変わり、この形が「ド・ディオン・ブートン」を代表する顔となった。この後はしばらくこの系統のラジエターが続くことになる。エンジンは前項の1906年「AL」と全く同じで942cc 6hp だった。

(写真01-12ab)1909 DeDion-Bputon Touring Car (2008-01 ドイツ自動車博物館/ミュンヘン)
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1907年開催された「北京-パリ間ラリー」はグレートレースとして優勝車「イターラ」と共によく知られている。写真の車の前にあった案内板に「ド・ディオン・ブートン」が泥沼の中をロープに引かれ苦戦している写真があったので、この車がそれかと思ったが、ラリーに参加したのは、少し前の1907年10hpモデルだった。この車は普通のツーリングカーで、全体の印象は1920年代のフェートンと良く似ているが、フロント・ウインドと前席のドアが無いのはやっぱり時代を感じさせる。エンジンは4気筒で1370cc 9hpで、最高速度は時速50キロとなっているが、屋根は大丈夫なのだろうか。

(写真01-13a)1912 DeDion-Bouton DH Torpedo (2003-02 フランス国立自動車博物館)
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年々車は大きくなって行く。エンジンは直4 1641cc 9hp で最高速度は 時速55キロまで上がった。前項の車と同じカテゴリーだが3年経ってウインドスクリーンと前席のドアが付いた。

(写真01-14ab)1922 DeDion-Bouton Limousin  (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
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窓枠は木材で作られており窓にはガラスが嵌められた。不思議なのは右側通行のフランスで「ド・ディオン・ブートン」はどのモデルもみな日本と同じ右ハンドルと言う事だ。しかもこの車の前席には運転手側にドアが無い。左側通行のイギリスでは、目的地に着くとお抱え運転手が運転席のベンチシートを横滑りして左側に降りて、ご主人様のドアを開ける、と言うパターンがあり、その為、運転席のドアが無い高級車は沢山あるのだが、この車の目的は何だろう。


(02)< Daewoo・大宇 > (韓)
韓国には幾つもの自動車メーカーが有るにも拘らず日本では街で見る機会が無く、僅かに自動車ショーに展示された車しか知らなかった。それも大手の「ヒュンダイ」や「キア」で「デーウ」という車は見たことが無かった。
・この会社は現在「韓国GM」となっているが、そのルーツは1954年に金済源/昌源兄弟によって設立された「新進工業」で、元々は自動車部品の製造工場だったが、朝鮮戦争でアメリカのジープやトラックの修理、改造からマイクロバスを製造するまでに成長していた。1964年「新進工業」は「新進自動車」と改名、10月には「トヨタ」との間に技術提携の仮契約を結ぶ。
・一方、1962年在日の朴魯貞によって設立された「セナラ自動車」は「日産自動車」と提携し、ダットサンブルーバード(P312)をノックダウン生産し、「セナラ」の名称で市販したが、約2800台生産した1963年5月時点で経営が行き詰まり廃業する。(政府関係への過大な上納金が原因とも言われる)
     (02-1d)参考(056-18) 1961 Datsun Bluebird 1000 Standead 4dr Sedan - コピー.jpg
・1965年7月、韓国政府は国策として「新進自動車」を小型車生産の独占企業に指定し、11月には「新進自動車」が「セナラ自動車」を施設ごとそっくり取得する。1966年5月にはトヨタ車のノックダウン生産を始め、「クラウン」「コロナ」「パブリカ」「トヨエース(韓国名エース)」を市販した。
・1972年トヨタとの契約解消後は「GM」が資本参加し、車名が「GMコリア」と変わる。
・1976年 韓国産業銀行が資本参加し、社名が「世韓(セハン)自動車」と変わり、いすゞの「ジェミニ」「エルフ」をノックダウン生産する。
・1978年7月大宇財閥が韓国産業銀行から持ち株を買い取り「セハン自動車」は大宇グループの傘下に入った。
・1983年社名を「大宇(デーウ)自動車)」と変更したが、2000年には経営破綻する。
・2002年「GM」が「旧大宇自動車」の大部分を買収し「GM大宇自動車技術」となり、更に2011年3月には「韓国GM」となって現在に至っている。

(写真02-1abc)1997-02 Daewoo(大宇) Leganza CDX    (2010-07 ポーツマス/イギリス)
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この車はポーツマスで宿泊していたホテルの駐車場で見つけた。その時僕はこの車の正体が全く判からなかった。「DAEWOO」という車名も、車のバッジにも全く記憶が無かったから何処の国の車かも見当が付かなかった。漢字では「大宇」と書き、「デーウ」と発音する韓国の車であることは帰国して初めて知ったが、僕のコレクションに新しいメーカーが一つ追加された。


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(03)< Delaunay-Bellevill > (仏)
この車は凄い車だが日本では知名度が低い。しかも名前がフランス語だからその読み方すら定着していない。今回はトヨタ博物館の標記に従って「ドゥローニー・ベルビュ」としたが「ドロニー・ベルビル」や「デロネー・ベルヴィル」としている例もある。会社は1903年「ルイス・デロネー」と「マリウス・バルバロウ」によって、パリの北部・サンドニに設立された。会社の方針は当時フランスには存在しなかった「豪華車」(制服を着たお抱え運転手つきの大型車の事で単なる高級車とは違う)を造ることだった。28歳の「バルバロウ」はそれまでに「クレメント」「ロレーン・デートリッヒ」「ベンツ」など先進メーカーでの経験を積んでおり、デザインとスタイルを担当した。この会社のトレードマークとなった「まん丸」のラジエターグリルも彼が生み出したものだ。僕自身デザインとしては只丸いだけで特別優れたものとは感じないが、当時なかなか好評だったらしくこれを真似るメーカーも有ったと言う。(本当の所はデザインが気に入ったのではなく、超高級車に少しでも似せたかっただけかもしれない)最初の車は1904年パリ・サロンでデビューし絶賛を受けた。その結果 帝政ロシアの皇帝ニコラス2世、ギリシャのジョージ1世、スペインのアルフォンソⅩⅢ世を始め、世界の王侯貴族に40台も納入された。1920年代末期は高級車に厳しい時代で1930年代は軍用車の製造に関わって過ごし、戦後は1948年まで生き延びてベンツに似た車を造っていたようだが僕は見たことが無いし資料でも確認していない。

(写真03-1a~d)1911 Delaunay-Bellevill HB6L Touring(2011-11トヨタクラシックカーフェスタ)
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デザインとすればあまりにも単純だが、逆に1度見たら忘れられないのも事実だ。ホイールベースが3410ミリで最近のクラウンの2850ミリも長い。幌を上げたのは神宮外苑でのイベントで撮影したもので、同じ車が名古屋の博物館に展示されていた時はオープンだった。

(写真03-02a)1909 Delaunay-Bellevill F6 Bus (2003-01 フランス国立自動車博物館)
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地元フランスの博物館にも同じ頃の物が展示されていた。この車の特徴は「まん丸のラジエター」だったので、この時は残念ながら正面しか撮っていなかったが、実はこの車は8人乗りのホテル送迎用バス」で、1914年までは高級ホテルでは皆この車で豪華列車で到着する上客の送迎を行っていた。


(04)< Del Countessa > (日)
「塩沢商工」→「デル・レーシングモーター・カンパニー」
1960年頃 港区の赤羽橋から麻布方面にかけて中之橋、一の橋付近の麻布森元町2~3丁目、麻布北新門前町(現・東麻布1~2丁目)には板金や幌内張りなどいろいろな専門職種の修理工場がずらりと並んでいた。その当時僕の勤務先は赤羽橋から400メートルしか離れていなかったから、昼休みに自転車で一回りすることが多かった。数々の貴重な車の写真はこの時撮影するチャンスに恵まれたものだ。そんな中で当時僕は全く知らずに撮った1957年フォード・スカイライナーのバックが、偶然今回の「デル・コンテッサ」の生みの親「塩沢商工」だった。
・「デル・コンテッサ」の名前を知ったのは1964年の第2回日本グランプリだった。第1回日本GPは自動車レースの何たるかも知らず、フォミュラーカーのカテゴリーは無かったから、スポーツカーの「ロータス23」が地面を這うように疾駆する速さに只々感心するレベルだった。しかし、第2回日本GPは「JAFトロフィーレース」としてシングルシーター(F-J)がメインレースに設定され、すでに実績のある海外勢が多数参加した。「ロータス」からは「18/20/22/27」、「レプコ・ブラバム」、「クーパー・フォード」、「クーパー・BMC」、「ローラ MkⅢ」、「エルヴァ・フォード」など11台に対して、日本を代表してこれを迎え撃ったのが国産初の「デル・コンテッサ」3台だったのだ。これを造ったのが「塩沢商工」で、日野自動車からエンジン、トランスミッションなどの提供を受けて独自に設計、製作したもので、これがアマチュアでも比較的低い費用でレースに参加することが出来る、「フォミュラー・ジュニア」本来の姿だった。

(写真04-0) 1962年頃の塩沢商工 港区麻布北新門前町付近
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「塩沢商工」が「デル・コンテッサ」でレース界にデビューしたのは1964年の事なので、この写真が撮られたのはそれより2年前だ。看板で見る通り、自動車の販売が本業のようだが、扱う車は一癖ある特殊な車で、写真の車は1957の年フォード・スカイライナーで、この車は当時としては非常に珍しい電動式で屋根がトランクに収納されるモデルだ。

(写真04-1a) 1964 Del CountessaMkⅡ (1964-05 第2回 日本グランプリ/鈴鹿 )
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写真の①番を付けて疾走する車は、立原義次が6位でフィニュシュした「デル・コンテッサMkⅡ」で、国産初のシングル・シーター(F-J) だ。3か月で3台を作り上げたが、経験はゼロだからスペースフレームを造るにしても、最初丈夫に造り、徐々に取り除きながら軽量化を図ったそうだがまだかなり重く、フロントサスペンションはコンテッサのプレス製のウイッシュボーンを使っていた。ホイールもコンテッサのスチールだろうか。エンジンは日野コンテッサGT用に改造された940cc 85hp/7500rpm で、予選、決勝両日の平均で120km/hを記録している。(因みにMkⅠはプロトタイプ)

(写真04-2abc)1966 Del Countessa MkⅢ     (1966-07 横浜ドリームランド)
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この車を撮影した横浜のドリームランドは、1964年開園された当時最大のレジャーランドで日本のディズニーランドを目指したが、アクセスのため敷かれた大船からのモノレールが技術的な欠陥から1967年9月運転休止となると、8分だったのが代替えのバスになってからは渋滞すると1時間もかかるためこれが致命的となり、又1983年には東京ディズニーランドの開園でますます客足は減少の一途を辿り2002年閉園した。
・僕がなんでここに行ったのか今考えても思い出せない。多分何かの記事でここに珍しい自動車が展示されることを知って足を運んだのだと思う。この時の目的は「カーチス号」(現在はホンダ・コレクションホール収蔵)で、その他は「デル・コンテッサ」と「アルファロメオ ジュリエッタ スプリント」しか撮っていないのでずいぶん効率の悪い遠征だった。
・「塩沢商工」は「デル・レーシングモーター・カンパニー」と名前を変え、レーシング・マシーンの製造・販売をはじめ、その最初のモデルがこの「デル MkⅢ」だ。写真の車は「コンテッサ1300」のエンジンを積んでいるので「デル・コンテッサ」となるが、シャシー、ボディはフォーミュラ2/3に対応しているので、載せるエンジンの排気量によってクラスが変わり、名称も「デル・○○○」と呼ばれる事になる。価格はシャシーのみで260万円、写真の「コンテッサ1300」仕様は320万円となっている。

(写真04-3ab)1967 Del Countessa (1967-05 第4回 日本グランプリ/富士スピードウエイ)
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       04-3b (182-18)#18 1967 Del-Contessa.jpg
第4回 日本GPには3台のデル・シャシーが参加し、2台が「コンテッサ」、1台が「ベレット」エンジンを積んでいた。写真の⑱番は真田選手の「デル・コンテッサMkⅢ」。

(写真04-4a)1968 Del RSB (1968-03 第1回 東京レーシングカーショー/晴海)
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写真の車は1968年日本グランプリのGPⅢクラスに「ケロヨン号RSB」として、児童劇木馬座をスポンサーとしてエントリーされた。名前は劇中の人気者「ケロヨン」だが、中身はグループ7の「デルRSB」でエンジンはクラウン・エイトのV8 2.8リッターを積んでいる。-


(05)< De Lorean > (英)
「デロリアン」と聞けば車の知識をお持ちの諸兄らは、あの映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を連想されると思うが、ひとまず純粋に市販車としての「デロリアン」について始めたい。当時GMの副社長だった「ジョン・ザッカリー・デロリアン」が1975年設立した「デロリアン・モーター・カンパニー」が造った車で、名前は創立者から取られたものだ。この会社の本社は、アメリカ・ミシガン州にあり、工場はイギリス・北アイルランドで、メカニズムはロータスが協力した。エンジンはプジョー/ルノー/ボルボが共同開発したPRV型 V6 SOHC 2849cc をフランスで造り、ボデーはイタリアのジウジアーロがデザインを担当した。と言う多国籍の車だが一応英国製という事になっている。この会社が造った車は「DMC-12」1種だけで初年度は6500台売れたが25,000ドルと非常に高価で翌年からはぐっと台数が減り、発売開始後僅か2年後の1982年で解散し最終的には8535台が生産された。自動車メーカーとしては成功しなかったが、会社が消滅した3年後の1985年スチブン・スピルバーグによるユニバーサル映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のタイムマシンとして登場して以来世界中に有名となり、数の少ないこともあってマニアのコレクションの対象となっている。 

(写真05-1abc)1982 De Lorean DMC-12 (2007-06 ビューリー国立自動車博物館/イギリス)
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「デロリアン」は僅か2年しか製造されなかったからモデルは「DMC-12」しか存在しないが、その中に前期/中期/後期の3種の変化が認められる。初期型はボンネットの両サイドに溝があり、給油口がある。写真のこの車はボンネットの溝はあるが給油口は無いので「中期モデル」で、ジウジアーロがデザインしたボディは無塗装のステンレスである。
この車は一般の市販車で「タイムマシン」ではない。

(写真05-2abc) 1982 De Lorean DMC-12 (2012-04 トヨタ自動車博物館・収蔵庫)
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この車のボンネットには溝が無く、右手前に「De Lorean」の文字が入っているので「後期モデル」である。完全に羽ばたくガルウイングは魅力的だ。正面にある3文字は「JMC」と見えるが型式名である「DMC」と読むのだろうか。この車も「タイムマシン」ではない。

(写真05-3a~e)1981 De Lorean DMC-12(改) (2010-07 ビューリー国立自動車博物館/イギリス)
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3年前この博物館を訪れた時と同じ場所にあった「デロリアン」だったので何気なく撮影してきたが、後で見たら全く別の車だった。特徴から見ると「後期型」だが年式は81年となっており、82年型の中期型とは辻褄が合わないが目をつぶる。映画では当初3台が用意され、3部作合計では用途に合わせて改造された分も合わせて7台が造られた。これに使われたのは「中期型」とされているがこの車は「後期型」の特徴を持って居るので後年改造された物だろうか。撮影終了後1台はスピルバーグが所有し、もう1台はイギリスのミュージシャン「ジェイムス・ボーン」が購入したと言うから、もしかしたらこの車がそれかも知れないが、案内に特に経歴は無かった。運転席には「タイムマシン」の制御装置が置かれている。


(06)< Demag(Sdkfz10) > (独)  
「デマグ」と言う自動車ファンには聞き慣れない名前は、第2次大戦中ドイツで軍用車両を製造していたメーカーである。制式名は「軽1トンハーフトラック(Sdkfz10)」で通称「デマグ」はメーカーの名前だ。ハーフトラックとは前半分が自動車で後半分は戦車の様なキャタビラで駆動する形態を言い、兵員輸送の他に大砲などを牽引するのでその能力に応じて1トンから18トンまで5つにクラス分けされていた。歴史は古く、ナチスドイツ以前の1926年に「ワイマール陸軍兵器局」が開発を進め、1932年には軽、中、重の3種のシリーズが確立された。1935年ヒトラー政権下「ドイツ国防軍」が再軍備の為「Sdkfz 6~11」(1~18トン)までの6車種を、それぞれ1つずつメーカー別に開発するよう指示した。
・「Skdfz10」は1932年、ルール地方の「デマグ社」で開発され、兵員輸送と軽火砲牽引車を目的としたものでこのタイプでは最小のクラスだ。1939年制式採用され、1944年までに「デマグ社」で25,000輌が生産され、量産の為「アドラー社」で5300輌、「ビューシングNAG社」で4500輌が造られた他、占領下のフランスでも「ルノー」「シムカ」「プジョー」「パナール」などの工場も生産計画に組み入れられた。

(写真06-1ab)1939 Demag(ドイツ陸軍Sdkfz10) (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
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写真は各国の軍用車両を展示しているドイツのジンスハイム科学技術館で撮影した。エンジンはマイバッハHL38 3800cc/HL42 4200cc 6気筒 100hp 最高速度53km/h 乗員 2名+兵員6名で車に常備される兵器は無い。兵員は後部には3人ずつ2列に向き合って腰かける。ドイツ戦車の塗装色については門外漢の僕だが、この色は北アフリカ戦線の砂漠色だろう。


(07)< Detroit Electric > (米)1907-39
「デトロイト・エレクトリック」の名前の通り、この会社は電気自動車を製造したメーカで、創業は1907年と古い。殆どのメーカーがガソリンエンジンに転向していった中で、1939年幕を閉じるまで、一筋に電気自動車を造り続けたアメリカでもっとも有名で長生きした「電気自動車メーカー」である。
(写真07-1abc)1922 Detroit Electric Model 85       (1973-11 くるまのあゆみ展)

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このブルドックのような面白い顔をした車は、1973年のモーターショーに合わせて開催された「くるまのあゆみ展」に出展されたもので、案内板には会社の存続期間を~1942とあるがモデルは1939年で終わっている。外見はラジエターグリルがありボンネットの下にはエンジンが入っているように見えるが、後ろに積まれたバッテリーで走る電気自動車である。この車がどんな経歴を経て来たかは不明だが、オリジナルは窓から前はなだらかな傾斜でボンネットの膨らみは無いので後年改造されたものと思われる。この会社は1930年代に入ると、外見はガソリン自動車と見分けがつかないスタイルとなり、「ダッジ」とそっくりなので、ボデーの提供を受けていたのではないかと思われる。


(08)< Doble >(米)1914-31
20世紀が始まったばかりの1900年頃、自動車はまだ揺籃期で試行錯誤の時代だった。動力源としては蒸気、電気、ガソリンエンジン(内燃機関)があったが、そのあと21世紀までの100年はガソリンエンジンが主流だった。近年バッテリーの性能向上で次世代の動力として注目される電気自動車も、当時の重くて容量の低い「鉛電池」ではではガソリンエンジンに対抗できず、静かさとクランク始動が不要を武器に御婦人層に支持されたが、実用として普及できなかった。一方、蒸気エンジンは産業革命以来使われてきたお馴染みの動力装置だから当然自動車にも使われた。一寸信じられないかもしれないが、1902年ニューヨーク州で登録された車の50%が蒸気自動車だった。しかし数年後にはほとんどのメーカーがガソリン車に鞍替えするか廃業し、残ったのは「スタンレー」と「ホワイト」の2社のみとなった。スタンレーは1927年まで生産を続けたが、「ホワイト」は1910年以降ガソリン車に変更している。
・歴代のアメリカ車を通して「良質にして豪華」な車として高い評価を受けている「ドーブル」という蒸気自動車は、「アブナー・ドーブル」Abner Doble (1895-1961)によって1914年最初の「モデルA」が作られたが、この時彼は若干19才でマサチューセッツ工科大学の学生だった。この時期になんでスチームエンジンを採用したのかは、資料不足で確認できなかったが、カリフォルニアがゴールドラッシュに沸いた1850年頃、祖父が採掘機械(ウオーター・ホイール)の販売で財を成したという事なので、汲み上げに使っていたスチームエンジンに関心が高かった?と言うのはこじ付けですかネ。 

(写真08-1ab)1925 Doble Series E Murphy Sport Phaeton (1998-08 ペブルビーチ/アメリカ)
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一見普通の自動車に見えるが、ボンネットを開けるとそこにはガソリンエンジンとは全く異なった仕掛けが見られる。それはエンジンの心臓部、蒸気を溜める「フラッシュボイラー」で、スタンレーは蒸気圧が上がるまでに45分もかかったが、ドーブルのフラッシュボイラーは1分程度で始動できたからガソリンエンジンの暖機運転より時間はかからない。ドーブル車の特徴は排気した蒸気を残らず還元する「復水器」で、90リットルの水で2400キロ走れた。(スタンレーは300キロ程度で給水が必要だった)蒸気機関は4気筒125hp だが、爆発を伴わないから極めて静粛かつスムースで、性能よりも乗り心地を重視する超高級車に相応しいのだろう。と言っても、このエンジンの加速性能は素晴らしくボディを載せた状態で静止から40マイル(64km/h)までを8秒、ベアシャシーでは75マイル(121km/h)までを10秒で走り切った。ホイールベースは当時のアメリカ車の中では最長の142インチあり、ボディは全て「マーフィー」で架装されたが、価格も飛び抜けて高価で8,000ドルから12,000ドルだった。因みに同じ年の高級車の値段を調べたら、「ロコモビル」10,300ドル、「マクファーレン」9,000ドル、「デューセンバーグ」8,300ドル、「ピアスアロー」8,000ドルで、1930年代に高級車として知られる「リンカーン」7,200ドル、「キャディラック」「クライスラ」「パッカード」などは5,000ドル以下だった。


(09< Du Pont > (米)1919-31
デュポン社はアメリカの大財閥で化学会社として知られる。創業は1802年で創業者エルテール・イレネー・デュポン(1771-1834) は革命を逃れたフランスからの移民だった。「デュポン社」は黒色火薬を造る化学工場としてスタートし、南北戦争で巨額の利益を上げた。以来第2次大戦まで火薬や弾薬などを中心に安定した経営を続けると同時に、1928年には「ポリマー」の研究から「合成ゴム」や「ナイロン」が発明され、「テフロン」などの合成繊維や合成樹脂が生み出された。
・「デュポン社」の自動車産業との係わりは「ピエール・Sデュポン」が1914年「ジェネラルモータース」(GM)に対して投資したことから始まる。ところが当時の社長「ウイリアム・デュラント」は無制限の拡大方針で1000万ドルの負債を作ってしまい、1920年にはデュポンはデュラントを退陣させ経営権を握る。その後彼は社長に就任し「GM」を全米1の自動車会社へと成長させた。自動車産業とデュポンの関わりは資金関係だけではなく、本業の化学産業分野で生産される「人工皮革」「合成樹脂」「塗料」などの消費先としても重要なパートナーだった。
・「キャディラック」「ビュイック」「ポンティアック」「シボレー」など多くの車種を生産していたにも関わらず「ピエールS・デュポン」は、1919年から31年までの間「デュポン」という名前の自動車メーカーを「GM」とは別に設立し独自の生産を続けた。成功者が自分の名前を付けた「クルマ」を造りたいという願望は、ヨーロッパでワイナリーを持って自分ブランドの「ワイン」を作りたいと言う野望とも共通するようだ。だから「デュポン」が「GM」の中の1銘柄扱いでは満足できなかったのだろう。
  
(写真09-1abc)1929 Du Pont Model G Convertible Coupe by Waterhouse                           (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
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「デュポン」の車造りのポリシーは大衆車を造って儲ける事ではなく、創立者の名誉をかけて高級車を世に出し、同時に自分の名前も残したいと、最初から金に糸目を付けない贅をつくした車造りを目指したから、この車も「ウオーターハウス」と言うスペシャル・コーチビルダーによる特注ボディだ。ボンネットにあるガラス製の鷲のマスコットだけでも安い自動車なら1台買えそうだ。

(写真09-2ab)1929 Du Pont Model G Roadster by Merrimac                                        (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
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車だけ見ていると大きさは感じないが、脇に立つ紳士と比べるとその堂々たる大きさが判る。このボディもアメリカ製ロールスロイスを数多く手掛けている「メリマック」と言うコーチビルダーの作品で、この猫の目のようなヘッドライトは当時流行していたらしく「パッカード」や「コードL-29」でも見ている。「Wood」と言うメーカーの物で(木製では無い!)ハンドルに連動して首が回るらしい。

(写真09-3ab)1930 Du Pont Model G Convertible Coupe                                   (1998-08 ブルックス・オークション/カリフォルニア)
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この車は「ブルックス」のオークションに出されたもので、入札予定価格は125,000~175,000ドルだったが落札されなかった。波型に赤の2トーンで塗り分けた洒落たボディは多分前の車と同じ「メリマック」製と思われる。

(写真09-4abc)1930 Du Pont Model G Royal Towncar by Merrimac                                        (1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)
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僕が「デュポン」と言う車を始めて見たのは1971年アメリカから大挙してやってきたハーラーズ・コレクションの展示会で、その時まで「デュポン」と言う名前は「ナイロン」と「フィルム」のメーカーというのが僕の認識だったからその会社が造った自動車とは思えなかった。しかし目の前の車は堂々たる貫録を備えた高級車で、運転席には屋根のない「タウンカー」仕様だった。CCCA(クラシック・カー・クラブ・オブ・アメリカ)では「クラシックカー」の定義を「1925年から42年までに製造され、広く一般に高品質であると認められた車」としているが、特定メーカーに限っては全てのモデルを無条件で認めている。
「デュポン」の他は「コード」「デューセンバーグ」「マーサー」「ピアスアロー」「スタッツ」等で、「パッカード」や「リンカーン」でも特定車種に限定されているほどの厳しい格付けで認められた車だ。

     ―― 次回はダイムラー(独)とデイムラー(英)の予定です ――

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第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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