三樹書房
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第50回 Automobile Council 2016 – そのⅡ
2016.9.27

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 前回に引き続き、今回も「オートモビル カウンシル 2016」に登場したいくつかのクルマをカタログで紹介するのでご高覧願いたい。

◆ フィアット

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FCA(Fiat Chrysler Automobiles)ジャパンのブースにあった1973年のフィアットアバルト124 ラリーと、会場で発表された2016年アバルト 124スパイダー。

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上の3点は1973年に発行されたフィアット アバルト124 ラリーのカタログ。ルーフ、ボンネット、トランクリッドはプラスチック、ドアにはアルミを採用して軽量化を図っている。

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上の2点はフィアット アバルト124 ラリーの構造図。アバルトチューンの1756cc(84mmφ×79.2mm)直列4気筒DOHC ツインキャブレター128馬力エンジン+5速MTを積み、4輪独立懸架、タイヤは185/70 VR13、最高速度は190km/h以上。アバルトによる特別なレーシングバージョンも注文可能であった。

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上の2点は2016年アバルト 124スパイダーのカタログ。マツダ ロードスターのアーキテクチャーをベースに、スタイリングデザイン、パワートレイン、室内装備・材料、サスペンションおよびステアリングフィールなどはFCAが独自に開発したモデルで、生産はマツダの本社工場で行われる。エンジンは1368cc(72.0mmφ×84.0mm)直列4気筒マルチエア16バルブインタークーラーターボ170馬力で、6速MTまたは6速ATを積む。

◆ スバル

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「50th Anniversary SUBARU BOXER」のタイトルを付けて発行された「カートピア」誌特別号。裏表紙に載ったエンジンは、上から第1世代EA(1966年スバル1000に初搭載、累計約410万台生産)。第2世代EJ(1989年初代レガシィに初搭載、2016年現在も生産中)。第3世代FA・FB(2010年フォレスターに初搭載)。SUBARU BOXERは2015年に累計生産1500万台を達成している。

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会場に展示されたスバル1000と、まもなく発売予定の新型インプレッサのプロトタイプ。

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上の2点は1965年10月、晴海で開催された第12回東京モーターショーで一般公開された際に配布されたスバル1000最初のカタログ。ホイールカバーは生産車とは異なる。発売は1966年5月であった。1963年の富士重工業の年間売り上げ約370億円、資本金49億5000万円の時代に、およそ300億円の大規模な設備投資をした、まさに社運を賭けたクルマであった。開発を主導した百瀬晋六に、当時の横田信夫社長が「いま、いちばん必要なものは何か?」と尋ねると、即座に「テストコースです」と答え、1964年11月に群馬製作所テストコースが完成したと言われる。フロントエンジン・フロントドライブを「FF」と称するようになったのは、富士重工業の技術部で報告書に記号として使ったのが始まりと言われる。朝日新聞、三栄書房などが発行していた年刊の自動車アルバムには1968年ごろから使われるようになり、いまでは日常的な自動車用語となってしまった。スバル1000で忘れてはならないのがドライブシャフトに採用された等速ジョイントであろう。ベアリングメーカーのNTN社に開発を依頼し、車輪側のBJ(Ball Fixed Joint)は完成したが、デフ側のDOJ(Double Offset Joint)については、発表の40日ほど前にNTN社が提携先の英国GKN(Guest, Keen & Nettlefolds)社のマイクロフィルムの中から、試作されたこともないDOJの原案を発見し、試作して納入されたのはスバル1000発表の3週間前であった。早速取り付けて旋回走行したところ、夢のようななめらかな動きであったという。DOJは世界で初めて商品化されたものであり、その後、日本で発売されるFF車に採用されるようになり、やがて、海外でも生産されて世界中のFF車に普及していったのである。

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スバル1000に搭載されたEA52型977cc水平対向4気筒55馬力エンジン。広い室内を実現するためにFF駆動方式を採用し、理想的なエンジンを検討した結果、全長が短く、全高が低く、バランスが良い水平対向エンジンが選択された。エンジン本体は軽量化のためアルミとしたが、当時、アルミの価格は1kg約700円で、鉄の14倍であった。設計するにあたって参考としたのは、ドイツ製ロイト・アラベラ(Lloyd Arabella)に搭載されていた897cc水平対向4気筒38馬力エンジンであった。

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モーターショーで配布されたカタログに挟み込まれていた、富士重工業の貸コースの案内と割引定期券。料金は小型車持ち込みで1時間300円を240円に割り引くとある。1966年の免許所有者は約2286万人で、当時の人口約9900万人であったから、所有率はわずか23.1%であったから、免許証を取得してもらう算段から始めなければならない時代であった。ちなみに、警視庁の統計で最新の2011年の免許所有者は約8122万人であり、人口約1億2780万人で所有率は63.6%となっている。

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上の3点はまもなく発売予定の5代目インプレッサのプレカタログ。会場に展示されていたインプレッサSPORT(プロトタイプ)のスペックは、FB20型1995cc水平対向4気筒DOHC 16バルブ デュアルAVCS直噴154馬力エンジン+リニアトロニックを積み、サイズは全長4460mm、全幅1775mm、全高1480mm、ホイールベース2670mm。アイサイト(Ver.3)と、初めて歩行者保護エアバッグを標準装備している。

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1962年10月に晴海で開催された第9回全日本自動車ショーで公開されたホンダ スポーツ360。ホンダが四輪進出を目指して開発した軽スポーツカーだが、軽自動車規格では海外進出が難しいなどの理由から市販化されなかった。展示された個体は、2012年に本田技術研究所のプロジェクトにより、S600のボディーの一部やT360エンジン、スポーツ360のオリジナルパーツなどを使用して復刻されたもの。

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上の3点は第9回全日本自動車ショーの会場で配布されたホンダスポーツ360/500とT・360のカタログ。エンジンはスポーツ360が356cc直列4気筒DOHC 4キャブレター33ps以上/9000rpm、2.7kg-m/7000rpm、スポーツ500は492cc直列4気筒DOHC 4キャブレター40ps以上/8000rpm、3.8kg-m/6000rpmで、1速シンクロなしの5速MTが装着されていた。サスペンションはフロントがウイッシュボーン+トーションバー、リアはデフをシャシーに固定し、両側から後輪をチェーン駆動するチェーンケースをトレーリングアームとして使い、これにコイルスプリングを加えたユニークなものであった。サイズはホイールベース2000mm、全幅1295mm、全高1146mmで、全長は360が2990mm、500は3195mmであった。車両重量と最高速度は360が510kg、120km/h以上、500は530kg、130km/h以上と記載されている。
 スポーツ500はS500として1963年10月に45.9万円という魅力的なプライスタグをつけて発売されたが、1964年3月にS600(50.9万円)の登場によって中止され短命に終わっている。生産型S500のエンジンは531ccに拡大され、出力は44馬力にアップしていた。

◆ マツダ

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上の3点は1960年10月、晴海で開催された第7回全日本自動車ショーで一般公開され、会場で配布されたマツダR360クーペのカタログ。戦前からオート三輪で不動の地位を築いてきたマツダ(当時は東洋工業)初の四輪乗用車で、小粒ながらも中身は実に興味深いものであった。エンジンは356cc強制空冷4サイクルV型2気筒16ps/5300rpm、2.2kg-m/4000rpmで、シリンダーヘッドとブロックはアルミ合金製、ロッカーカバー、オイルパンにはマグネシューム合金が使われていた。当時すでにマツダはすばらしいアルミダイキャスト技術を有していた。トランスミッションはフルシンクロの4速MTまたは軽四輪では日本初のATが設定されていた。サスペンションは前後ともトレーリングアーム+トーションラバーの独立懸架で、ドライブシャフトの伸縮は、外筒と内筒の間にゴムを挟んで解決している。モノコックボディーでRR駆動方式のR360のサイズはホイールベース1760mm、全長2980mm、全幅1290mm、全高1290mm。車両重量は380kg、最高速度はMT車が90km/h、AT車は85km/h、燃費はMT車32km/ℓ、AT車25km/ℓであった。価格は当時の四輪乗用車では最も安いMT車30万円、AT車32万円。

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近代的な工場の一角に整然と並んだR360クーペのボディー。R360の月産能力は5000台であった。

 次に、コスモスポーツについて、

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マツダのロータリーエンジン車の存在が最初に紹介されたのは、1963年10月に晴海で開催された第10回全日本自動車ショーであった。シングルローターと2ローターの2台のロータリーエンジン単体と、大きなロータリーエンジン車の写真パネルが展示された。実車の展示はされなかったが、当時の松田恒次社長が試作車で会場に乗りつけて、居合わせた人々を驚かせた。上のイラストは会場で配布されたフォルダーから抜粋したもので、まだコスモの名前は無く「ロータリーエンジン テスト用試作車」と記されている。

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これは1964年9月に晴海で開催された第11回東京モーターショーで配布されたフォルダーから抜粋したもの。会場に初めて実車が「マツダコスモ」の名前で展示されたが、配布資料には「すでに走っている夢のくるま・マツダロータリーピストンエンジンテストカー(参考出品)」とある。ホイールカバー、フロントフェンダーサイドのルーバー形状などは展示車両とは異なっている。

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これは1965年10月に晴海で開催された第12回東京モーターショーで配布されたフォルダーから抜粋したもの。初めて「マツダコスモ」の名前と「ローター数2、単室容積500ccのエンジンです。」と公表し、すでに全国各地でロードテストを実施していると記されているが、別の史料によると、1966年初めからコスモの生産試作車数十台(マツダの公式発表は60台だが、20台との史料もある)を全国主要販売店に配って市場テストを依頼し、1966年末に全車回収して確認の結果、実用性ありと判断、生産開始を決定したという。

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上の2点は1967年5月に発売されたマツダコスモスポーツ最初のカタログ。タイトルに「MAZDA ROTARY ENGINE & COSMO SPORT」とあるように、大半はロータリーエンジンの解説に充てられていた。サイズは全長4140mm、全幅1595mm、全高1165mm、ホイールベース2200mm。車両重量940kg、最高速度185km/h、0―400m加速16.3秒。価格は148万円。当時トヨペットクラウンが75~122万円、コスモと同じ1967年5月に発売されたトヨタ2000GTは238万円であった。

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上の2点はマツダ110S(コスモスポーツの輸出名)の英文カタログで筆者お気に入りの1点。1960年代はポップアート開花の時期であり、アンディ・ウォーホル、ジャスパー・ジョーンズ、ロイ・リキテンシュタインなどなど。そして、日本の誇る横尾忠則の作品がこれ。「鳥だ! 飛行機だ! いや、スーパーカーだ!!」。そう「スーパーマン」のパロディだ。「乗るというより、飛ぶ感じ」を具現化した元祖スーパーカーであった。

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コスモスポーツに搭載された10A型491cc×2ローター110ps/7000rpm、13.3kg-m/3500rpmエンジン。結合された4速MTと比べてロータリーエンジンがいかにコンパクトなものであるかが分かる。

◆ ニッサン(プリンス)

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上の3点は1963年5月に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本GP自動車レースで惨敗を喫したプリンスが、雪辱を果たすべく開発したプリンス スカイラインGT(S54A-1型)の展示車とカタログ。開発にあたってターゲットを当時「羊の皮を被った狼」と呼ばれて活躍していたフォード コンサル コルチナ ロータス(会場に1台出展されていた)と決め、軽量なS50スカイラインをベースに検討を進めたが、4気筒エンジンでは不可能と判断し、前年完成していたグロリア用G7型6気筒を押し込むことを決断、フロント部分を200mm伸ばして完成したのがスカイラインGTであった。生産承認がおりたのが1964年1月半ば過ぎ、GTカーのホモロゲーション取得のため3月15日までに100台生産したというから驚異的な速さであった。インストゥルメントパネル、ステアリングホイール、シートなどはS50系のままで、インストの上面にタコメーターを装着している。ダイレクトシフトのためシフトレバーが長い。スペックはG7型1988cc直列6気筒OHC 105ps/5200rpm、16.0kg-m/3600rpmエンジン+4速MTを積み、サイズは全長4300mm、全幅1495mm、全高1410mm、ホイールベース2590mm。車両重量1025kg、最高速度170km/h、価格88万円であった。オプションにはウエーバーの3連キャブレター、OD付き5速MT、LSD、ギア比の異なるTM/ファイナルドライブ/ステアリングギア、大容量燃料タンク(70ℓ、110ℓ)、オイルクーラー、スポーツタイプステアリングホイール、ラジオ、ヒーター、時計などが設定されていた。

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「プリンスグラフ別冊」に掲載された、第2回日本GPのGT-Ⅱレースの様子。ポルシェ カレラGTS 904の参加は想定外であり、スカイラインGTの結果は2~6位に終わった。当時のレース仕様スカイラインGT(S54R型)のエンジンはGR7B型1988cc、152ps/6800rpm、18.1kg-m/5200rpm。車両重量は998kgであった。

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第2回日本GPのGT-Ⅱレースのポスター。わずか1周ではあったが生沢徹のスカイラインGTが式場壮吉のポルシェを抜いたことを最大限、宣伝に活用している。

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第2回日本GPレースでポルシェに優勝をさらわれたプリンスが、打倒ポルシェを旗印に開発したプロトタイプスポーツカーR380-Ⅰ型の展示車と、1966年5月に新設の富士スピードウエイで開催された第3回日本GPレースのポスターで、クルマは優勝した砂子義一の11号車。このときも直前になって最新型のポルシェ カレラ6(906)がエントリーしてトップ争いを演じたが、ポルシェが42週目(レースは60周、360km)にリタイア、R380は1、2、4位を勝ち取っている。

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会場に展示された1972年ニッサン スカイライン ハードトップ2000 GT-R(KPGC10型)。ハードトップ2000GT-Rは1970年10月に発売され、同時に4ドアのGT-Rはカタログから落とされた。エンジンはS20型160馬力に加えて、圧縮比を9.5から9.0に落として5馬力低い155ps/7000rpmとしたレギュラーガソリン仕様が追加設定されている。サイズおよび4ドア仕様との差はホイールベース2570mm(-70mm)、全長4330mm(-65mm)、全幅1665mm(+55mm)、全高1370mm(-15mm)、車両重量1100kg(-20kg)。価格は154万円。ハードトップの登録台数は1113台。

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1969年2月に発売されたニッサン スカイライン2000GT-R(PGC10型)のカタログ。エンジンはS20型1989cc直列6気筒DOHC 24バルブ 3連キャブレター(ミクニソレックスN40PHH×3基)160ps/7000rpm、18.0kg-m/5600rpm。カタログには「R380のエンジン(GR-8型)をデチューンした」あるいは「R380のエンジンを搭載」と記されているが、実際には全くの別物で、GR-8型、GR-7型などのレース用エンジンで得たノウハウを織り込んで、量産に適するよう新たに設計されたエンジンである。0-400m加速16.1秒、最高速度200km/h。価格は150万円。当初はウエーバーキャブレター(45DCOE型)がオプション設定されていたが、1970年2月のマイナーチェンジ(MC)と同時に落とされている。登録台数は初期モデル539台、MCモデル293台で、4ドアGT-Rは合計832台であった。

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スカイラインGT-Rは1969年5月のJAFグランプリから、1972年3月のフジ300kmレースまでのわずか2年10カ月の間に通算50勝という偉業を達成した。上の2点は50勝を記念して発行された「グラフ日産プリンス」No.3とポスター。あと1勝で50連勝達成という1971年12月12日の富士ツーリストトロフィー(TT)500マイルレースで、加茂/増田組のマツダRX-3(サバンナ)に阻止され、50連勝を逃している。

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上の2点は会場に展示された2016年7月発売のニッサンGT-R 2017年モデルと8月に追加発売されたニッサンGT-R NISMO 2017年モデルのカタログ。GT-R 2017年モデルはVR38DETT型3799cc V型6気筒DOHC EGIターボ570ps/6800rpm、65.0kg-m/3300~5800rpmエンジン+デュアルクラッチ6速トランスアクスルを積み、サイズは全長4710mm、全幅1895mm、全高1370mm、ホイールベース2780mm。車両重量1760~1770kg、価格は約996~1187万円。GT-R NISMOはNISMO専用チューニングによって、エンジン出力は600ps/6800rpm、66.5kg-m/3600~5600rpmに強化され、車両重量は1740kg、価格は約1370~1870万円。

◆ トヨタ

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トヨタはカローラが今年、生誕50周年を迎え「50 COROLLA! 1966 - 2016 カローラ50年のあゆみ」と題する冊子が会場で配布された。トヨタは1963年ごろからパブリカの居住性、性能、静粛さなどを向上させるべくモデルチェンジを検討したが、限界を感じていた。一方、わが国の所得水準の向上、モータリゼーションの進展などにつれて、ユーザーもより質の高いものを求めるようになっていたので、そうした市場の変化に応えるべく、パブリカより1ランク上のクルマの開発を決断し誕生したのがカローラであった。
 開発当初は1ℓエンジンで進めていたが、半年ほど先行していたサニーが1ℓで進めているのを知り、+100ccの1.1ℓに変更したという。1966年9月7日に「トヨタ カローラ1100」という車名を発表し、記者発表会が行われた10月20日までの間にティーザーキャンペーンを展開、既存の大衆車(もちろんターゲットはサニー)よりスタイル、サイズ、性能、装備などあらゆる面で車格が一段上であることを訴求するため、キャッチコピーは「日本のハイ・コンパクトカー」「プラス100ccの余裕」として徹底的に宣伝したため、記者発表前に「カローラ1100」は広く知られる存在となっていた。

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上の2点は1966年11月に発売されたトヨタ カローラ1100のカタログ。発売当初は2ドアセダンのみの設定であった。キャッチコピーは「トヨタの技術が花ひらいた日本のハイ・コンパクトカー」で「+100ccの余裕」というコピーは使われていない。その代わりに「世界を見渡すと、このクラスの主流はすでに1000ccから1100ccに移りました。」と、1100ccを選択したもう一つの理由が記されていた。運転して楽しくなければならない、と言うことでスポーティーな仕様となっており、全モデルにフルシンクロの4速フロアシフトMTとセパレートシート(デラックスとスペシャルはフルリクライニング)が装備されていた。サイズ(カッコ内はサニー)は全長3845mm(3820mm)、全幅1485mm(1445mm)、全高1380mm(1345mm)、ホイールベース2285mm(2280mm)、車両重量690~710kg(625~645kg)、最高速度140km/h(135km/h)、価格43.2~49.5万円(41.0~46.0万円)。記者発表会場でトヨタ自販の神谷正太郎社長は月販目標3万台、発売した月にサニーを抜くとの発言を聞いて並みいる記者たちは驚いたという。トヨタの前月の総生産台数5万台強、最量販車であったコロナが2万台強であったから無理もない。しかし、発売2年後の1968年12月に月販3万台達成、3年後の1969年10月には4万台を超えている。更に、発売月であった1966年11月の登録台数は5385台で、サニーの3355台を見事に抜いている。

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上の2点は1967年5月に4ドアセダンとトヨグライドATを追加設定して発行されたカタログ。同時にライトバンも追加されている。1967年3~4月にかけて新しい広告キャンペーン「プラス100キャンペーン」が展開され、このカタログにも取り入れられている。左ページに「カローラは豹(ひょうのルビ付き)―すべてにものをいうプラス100ccの余裕」のコピーと、精悍、静粛、快足、豪華などを連想させる動物である「豹」をカローラの象徴として採用している。結果として、カローラ→余裕→豪華で快足→豹→カローラ、というイメージの脈絡を大衆に定着させ、カローラのイメージをいっそう高めることに成功したという。早い時期に、サニーをおさえて大衆車市場において不動の名声を確立してしまおうという挑戦であった。

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カローラの透視図。当時、画期的であった5ベアリングクランクシャフトを持つ、K型1077cc(75mmφ×61mm)直列4気筒OHV 60ps/6000rpm、8.5kg-m/3800rpmエンジン+フルシンクロ4速MTまたは2速ATを積む。フロントサスペンションは国産車初のストラット式で、コイルスプリングと横置きリーフスプリングが組み合わせられていた。

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1968年3月、マイナーチェンジを機に新設定されたスポーティーモデルのカローラ 1100 SLのカタログ表紙。ドライバーシートに座ったとき、目に飛び込んでくる景色を切り取った表紙で誘っている。エンジンはK-B型1077cc直列4気筒OHVツインキャブレター、圧縮比を9.0から10.0に上げて73ps/6600rpm、9.0kg-m/4600rpmに強化し、フロントにはディスクブレーキが採用された。価格は55.7万円であった。

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1968年5月に発売された、カローラをベースにスポーティーな要素を加えたパーソナルカー「トヨタ カローラ スプリンター」の輸出用英文カタログ。カタログは米国テキサス州のディーラーで入手したもの。スプリンターの開発は、カローラ開発当初から計画しており、一般向きのセダンで知名度を上げておき、あとからパーソナルカーを上乗せするという商品戦略であった。スペックはカローラとほぼ同じで価格は48.7~52.5万円。ツインキャブ73馬力エンジンとフロントディスクブレーキを装備したSLは58.7万円であった。

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1969年5月の東名高速道路全線開通をはじめ、全国の道路網の整備など、道路環境の変化に対応して長距離高速走行時のゆとりと安全性を高めるため、1969年8月にカローラのエンジンを1200ccに拡大。1970年5月にはフルモデルチェンジされ、同年9月には1400ccモデルが追加された。上の2点は1972年3月に登場した「カローラ レビン1600(TE27型)」のカタログ。カローラクーペのボディーにセリカ/カリーナ1600GTの2T-G型1588cc直列4気筒DOHCツイン・ソレックス型キャブレター115ps/6400rpm、14.5kg-m/5200rpmエンジン+5速MTを積んだモデルで、圧縮比を9.8から8.8に落としたレギュラーガソリン仕様の2T-GR型110馬力エンジン仕様も用意されていた。走りに徹したスパルタンなモデルで、ラジオ、時計、ヒーターなどはオプションであった。価格は81.3万円。5代目カローラベースのAE86型レビンは今でも絶大な人気を誇っており、その型式名はトヨタ86としてよみがえっている。

◆ ボルボ

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ボルボ・カー・ジャパンは木村隆之社長が所有する1971年1800Eを持ち込んだ。ボルボはP1800以前に、1955年1月のブリュッセル・サロンでFRPボディーの2シーターオープンスポーツ「P1900」を発表し、1956~57年にかけて販売した。しかし、生産コストが高く、需要も低迷したこともあり、1956年に就任した新社長の判断でわずか67台+プロトタイプ4台(5台の説もある)を製作して中止となってしまった。

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1959年5月にリリースされ、同年末には実車を公開、1960年末には生産開始の予定と発表していたが、実際には1960年1月に開催されたブリュッセル・サロンで初めて公開されたボルボP1800プロトタイプのカタログ。イタリアのカロッツェリア・フルアでデザインされ、3台製作されたプロトタイプの1台で、グリル中央のVマーク、ホイールカバー、写真では見えないがフロント同様、途中から上に跳ね上がった2分割リアバンパーの間にボディーから突き出たツインテールパイプなど、細部が量産車とは違っていた。P1800の開発は1957年初めに決定されたが、イタリアに発注したのは、スエーデンで製作するよりはるかに安くできたからで、はじめはカロッツェリア・ギアと交渉したが、その頃ギアは同じようなプロジェクトをボルボのコンペティターから受注していたため辞退され、フルアに委託したのであった。

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上の2点は最初の量産型ボルボP1800のカタログ。スエーデンのディーラーに最初のP1800が届いたのは1961年5月であった。当初、ボルボ工場にP1800を生産するキャパシティは無く、ボディーの生産は英国のプレスドスチール社(Pressed Steel Co. Ltd.)で、アッセンブリーはジェンセンモーターズ社(Jensen Motors)で委託生産した。契約は1万台であったが、塗装、シーリングなどでボルボの品質基準を下回ることがしばしば起こり、6000台生産した時点、1963年3月で終了しスエーデンのボルボ工場に移されている。なお、ボディーの生産は引き続きスコットランドのプレスドスチール社でおこない、プレス型をスエーデンのオロフストロムのボディー工場に移したのは1968~69年の冬であった。B18B型1780cc直列4気筒OHVツインSUキャブレター100ps/5500rpm、15.0kg-m/4000rpmエンジン+フルシンクロ4速MTを積み、オプションでオーバードライブの装着も可能であった。サイズは全長4400mm、全幅1700mm、全高1285mm、ホイールベース2450mm。車両重量1130kg。P1800のPはPersonvagn(Private Car)を表すが、スエーデンでアッセンブリーを開始した1963年4月以降、正式名称は1800Sに変更されている。SはSwedenを表すが、Sports coupéを表すとの説もある。そして1969年8月にはボッシュ製電子制御フュエルインジェクションを装着した1800Eに進化する。Eはドイツ語のEinspritz(Injection)を表す。1971年8月には大きなフレームレスのグラスハッチを持つ1800ESが登場。1800Eは1972年6月に生産中止し、1800ESも1973年6月に生産中止した。生産台数はP1800(Aシリーズ):6000台、1800S(B/D/E/F/M/P/Sシリーズ):2万3993台、1800E(T/U/Wシリーズ):9414台、1800ES(W/Yシリーズ):8077台、総計4万7484台生産された。

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P1800のシャシー。セダンモデルのアマゾン/120シリーズのコンポーネントを多用しているが、ホイールベースはアマゾンより150mm短い2450mmであった。サスペンションはフロントがウイッシュボーン+コイル、リアはトレーリングアーム+コイル+リジッド、フロントにはガーリング製ディスクブレーキを装備していた。

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会場で国内初公開されたS60/V60ポールスターのカタログ。ポールスターは1996年の設立以来ボルボの公式モータースポーツパートナーとしてツーリングカー選手権を戦ってきたが、2009年からはボルボの公式パーフォーマンスパートナーとして市販車用チューニングキットおよびコンプリートカーの開発を開始した。2015年にはボルボがポールスターのパーフォーマンスディビジョンを買収(レーシングディビジョンのオーナーシップは変わらず、社名をCyan Racingに変更)している。今回発売されるS60/V60ポールスターは、これまでで最強となる新世代Drive-E 2.0ℓ、B420(スーパーチャージャー&ターボ付き)型1968cc直列4気筒DOHC 16バルブ367ps/6000rpm、47.9kg-m/3100~5100rpmエンジン+電子制御8速ATを積み、従来型の3.0ℓ6気筒エンジンを上回る性能を発揮し、0-100km/h加速4.7秒(S60ポールスター)/4.9秒(V60ポールスター)のハイパーフォーマンスを実現している。価格はS60ポールスター839万円、V60ポールスター859万円。

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だいぶ長くなりましたが、これで「オートモビル カウンシル 2016」関連は終わります。2017年8月4~6日に幕張メッセで開催される第2回にはどんなクルマが登場するか楽しみです。次回はクライスラー300レターシリーズの続きを紹介する予定です。


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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

関連書籍
ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜
三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー
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