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第73回 多摩川スピードウェイ
2016.6.27

今回は、2016年5月29日に行われた「多摩川スピードウェイ80周年記念プレート除幕式」、多摩川スピードウェイの歴史、父小早川元治とMGK3マグネットの話を手短にご報告したい。多摩川スピードウェイは1936年に丸子橋上流の河川敷に建設され、同年6月7日の「全日本自動車競走大会」を皮切りに四輪車および二輪車のレースが行われた日本初の常設サーキットで、現在も当時の観客席がそのまま残っている。80周年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割を後世に語り継ぐべく「多摩川スピードウェイの会」がプレートを作成して川崎市に寄贈、このたび跡地に設置することになったもので、除幕式は福田紀彦川崎市長らの出席のもとに行われた。

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多摩川スピードウェイ80周年記念プレート除幕式
5月29日に丸子橋上流の河川敷内で行われた「多摩川スピードウェイ80周年記念プレート除幕式」の実施主体「多摩川スピードウェイの会」は、跡地保存、日本のモータースポーツ黎明期の歴史的意義の研究、情報発信を目的に2014年に発足した任意団体で、当時の出場者や関係者の親族や歴史研究に関心の深いメンバーが所属している。会長は米国日産やフェアレディZの生みの親片山豊氏のご子息でRJC(日本自動車研究者・ジャーナリスト会議)の元会長でもあった片山光夫氏だ。私も賛同して会員となっている。2015年11月には大田観光協会と協力して田園調布せせらぎ公園で「回顧写真展」を開催、今回は記念プレートを川崎市に寄贈、スピードウェイの跡地に設置、除幕式となったものだ。7月17日から31日には川崎市市民ミュージアムで80周年記念展も行われる。

冒頭の写真は今回制作されたステッカーだが、次の写真は「多摩川スピードウェイの会」副会長の小林大樹氏のあいさつで始まった除幕式の模様で、福田紀彦川崎市長、ヴェテランカークラブ東京会長の堺正章氏などの祝辞に続き記念プレートの除幕が行われた。記念プレートを前にした写真は左から福田川崎市長、日本クラシックカークラブの山本英継氏、堺正章氏、小林大樹氏だ。80年以上前につくられ現在も当時のまま残されている観客席の一部に埋め込まれたこの記念プレートにより、このコンクリートの石段が当時の観客席であったことを少しでも多くの人たちに知っていただければ幸いだ。当日には本田技研工業の協力により、本田宗一郎氏も乗られた1924年のカーチス号(エンジンは8L、V8)と、1936年の第1回全日本自動車競走大会に出場した1926年製ブガッティT35C(写真の右側)の2台が持ち込まれ除幕式に華を添えた。

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多摩川スピードウェイ
ところで多摩川スピードウェイとはどんなサーキットだったのだろうか。上の写真は終戦直後に米軍によって撮影されたもので、食糧難に対応するためサーキット跡地にはびっしりと畑がつくり込まれているが、一周1.2km、直線450m、幅20mの楕円に近い形をしたコースがはっきりとわかる。次の写真は東急東横線、目黒線が武蔵小杉に向けて多摩川をわたるときに川崎側の土手に残されている観客席を撮ったもので、一番下の写真は田園調布側から武蔵小杉方面を望遠レンズでおさえたものだ。多くの近代的なビルと当時の観客席のコントラストが興味深い。

当時のオーバルコースの跡地は現在野球やサッカーを楽しむところに変身しているが、現在でも多摩川の河川敷の形状は当時とほとんど変わらぬ面積、形状のまま残さており、3万人を収容したといわれる80年前の観客席の大半がまったく当時のままで残されている。ちなみに第1回当時のコースは簡易舗装だったようだがその後舗装がやり直され、第1回は優勝車の最速平均速度が85.7km/hだったが(カーチス号)、第2回は103.3km/h(フォード)、第3回が106.5km/h(ダッジブラザーズ)、第4回が113.8km/h(ミスニッポン)となっている。

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多摩川スピードウェイにまつわる逸話
多摩川スピードウェイが完成したのは二・二六事件のあった1936年で、6月7日に第1回全日本自動車競走大会が開かれ、ゼネラルモータースカップ、フォードカップ、国産小型、ボッシュカップ、商工大臣カップ、報知カップなどの種別レースに24台の参加を得て行われた。一番上の写真はそのレースに出場した関根宗次氏がハンドルを握るブガッティT35Cで、今回の除幕式に華を添えたクルマだ。以下有名な逸話を二つほどご紹介しよう。

まず1933年にダットサンの生産を始めた日産は鮎川義介社長も出席のもとで第1回のレースに臨んだが、ダットサンは国産小型クラスのレースでオオタ号に惨敗、社長はレース途中で引き上げるとともに、次のレースでは必勝せよとの号令を出したのだろう、同年10月に行われた第2回目の秋季自動車競走会にむけてわずか4カ月の間に4台のスーパーダットサンを作り上げた。このレースではあいにくオオタ号のうちの1台が練習中に大破、結果としてオオタ号が欠場、オオタ不在の中第2回レースではダットサンが圧勝している。第3回、第4回レースは軍用車両の量産に追われた日産が欠場、日産とオオタとの戦いは実現しなかった。

上から2番目の、空中を舞う「浜松号」と元ホンダ社長本田宗一郎氏の逸話も有名だ。若いころから榊原真一アート商会社長のもとでカーチス号の制作にも携わった本田宗一郎氏は、浜松に移ってからはフォードシャシーに独自の過給機をつけたフォード4気筒エンジンを搭載した「浜松号」を制作、第1回のレースでハンドルを握り圧倒的な速さを見せるもののリタイヤ車に追突、空中に放り出された。しかし本田宗一郎氏のこうしたモータースポーツへの情熱が鈴鹿サーキットの建設、F1への挑戦、ホンダのクルマづくりに結びついたことは間違いない。

上から3番目の写真は1937年の第3回全日本自動車競走大会のもので、上述のようにダットサンの出場はなくオオタ号の一人勝ちとなった。最後の写真はそのレースで活躍したオオタ号だ。

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父元治とMGK3マグネット
高校時代からインディアンモーターサイクルにまたがり、大学卒業後勤務先に日産を選んだ父小早川元治は根っからのクルマ好きだったようで、また経済的にも余裕があったのだろう、MGK3マグネットを入手、上の写真のように1938年の第4回全日本自動車競走大会に出場したが、不運なトラブルもあり予選2位で終わっている。MGK3マグネットは1933年から1934年までに33台が生産された2シータースポーツレーサーで、父が入手したのは1933年のモンテカルロラリーに出場したプロトタイプ1号車だ。雪の中の戦いは69台中64位で終わったが、ラリーウィークの最後に行われたヒルクライムではクラスレコードで優勝している。MGK3マグネットは1934、1935年にはルマン24時間レースにも挑戦、1934年にはもう一歩で総合優勝を手にするとこまで行くが、2位を走っていたK3が事故によりリタイヤ、総合4位とクラス優勝で終わっている。

父のMGK3マグネットのエンジンは戦争がはじまると航空研究所に持ち込まれるとともにその高い技術力が強い関心をもって調べられ、父も戦時中は航空研究所でエンジン研究に携わったようだ。このクルマは空襲により焼損するが、1951年にはレストアされオートレースで数々の勝利を手にする。父はオートレースが国産車の宣伝のために企てられたことに反論、トヨタ自動車の創業者豊田喜一郎氏ただ一人が外国レーサーを十分研究して国産レーサーをつくることを支持されという。喜一郎氏とのご縁もあり父はトヨペットレーサーの開発をしていた隈部研究所の技術顧問としてトヨペット一号、二号のレーサーの設計と走行テストを行ったという。オクタン価の低い燃料の使用が義務づけられたMGK3マグネットが多くのトラブルに遭遇、過給機の開発を競走用二輪車(150ccのスーパーチャージエンジン)に切り替えたが試運転中に瀕死の重傷をおいレース界から身を引くことになった。MGK3マグネットはその後幸いなことに河口湖自動車博物館のオーナー原田信夫氏の手に渡り、イギリスに送られて完全なレストアが行われ、今でも素晴らしいコンディションが保たれていることは何よりもうれしい。

「資料協力:多摩川スピードウェイの会」

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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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