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第46回 1954年カイザー・ダーリン161
2016.5.27

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 今回は米国において戦後設立されたカイザー・フレーザー社(筆者のM-BASE第22回参照)から、1954年に販売された「カイザー・ダーリン161」について紹介する。
 カイザー・フレーザー(K-F)社から1951年型としてコンパクトカー「ヘンリーJ」(筆者のM-BASE第5回参照)が新発売されると、カイザー/フレーザーのデザインを担当していたハワード・ダーリン(Howard A. "Dutch" Darrin)は、ヘンリーJのシャシーをベースにスポーツカーを造ることを計画した。このプロジェクトはK-F社に依頼されたものではなく、ハワードが自身の時間と資金で実施したものであったが、K-F社が必要としているのではないかと考え、1952年初秋にヘンリー・カイザーに提案した。ヘンリーは興味を示さなかったが、夫人が気に入りK-F社から販売することが決定した。
 1952年の米国でのスポーツカーの登録台数は1万1199台で乗用車の登録台数約416万台のわずか0.27%に過ぎなかった。車種ではMG TDががぜん多く、次いでジャガーXK120で、この2車種で登録されたスポーツカーの90%を超えていた。翌年にはコルベット、3年後にはサンダーバードが登場、他にも小規模なキットカーなども販売され、スポーツカーの需要も増えつつあった。
 1953年1月20日、ディーラーにダーリン161の生産を告知した。しかし、3月にウイリス・オーバーランド社を買収、一方で主力のウイローラン工場(第2次大戦中フォードがB-24リベレーター爆撃機を量産した工場)を2600万ドルでGMに売却するなどで遅れ、本格的に生産を開始したのは1953年12月になってしまった。ダーリン161の生産はミシガン州ジャクソンに専用のアッセンブリー工場を用意して行われた。

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シャシーがカイザー・ダーリン161のベースとして使用されたカイザーフレーザー・ヘンリーJ。ホイールベース100in(2540mm)のシャシーに、「スーパーソニック」135cid(2212cc)直列4気筒Lヘッド68馬力または161cid(2638cc)直列6気筒Lヘッド80馬力エンジンを積む。

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おそらく最初の印刷物であろう。車名がカイザー・ダーリン161ではなく、DKF(ダーリン、カイザー、フレーザーの頭文字を並べたもの)X-161であった。オレンジ色の半券を近くのディーラーに持って行くと抽選でヘンリーJが当たるとある。しかも、当たったヘンリーJを小売価格で評価して、DKF-161とトレードすることも可能であった。

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上の3点は1953年に発行されたカイザー・ダーリン161プロトタイプのカタログ。米国の量産車では最初にFRPボディーをまとったモデル。量産モデルとの違いはフロントウインドシールドが2ピースであり、上縁がカイザーの特徴であった中央がくぼんだ形状をしている。ヘッドランプ位置が低く、ヘッドランプ下のパーキングランプが無い。ソフトトップを隠すカバーとトランクリッドが一体であった。詳細なスペックの記載は無いが、エンジンはヘンリーJの161cid(2638cc)「スーパーソニック」6気筒エンジンに3基のキャブレターを装着して125馬力ほどに強化されていた。プロトタイプの製作台数には諸説あるが、12台ほどではないかと言われている。ちなみに、車名の161はエンジン容積を表す。

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これもプロトタイプのカタログの一部で、ドアはハワード・ダーリンが1948年に特許取得したスライディングドアが採用されていた。スライディングドアは1951年型カイザーにも採用が検討されたが、当時はコストが見合わず断念している。インストゥルメントパネル上には6連のスチュワート・ワーナー製メーターが並ぶ。ステアリングホイールとバンパーはヘンリーJのものを流用している。

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ソフトトップは中央の写真のようにランドー・ジョイントによって中間でロックが可能であった。

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上の4点は1953年末、ミシガン州ジャクソン工場でのカイザー・ダーリン161生産の様子。ボディーシェルの重さは300ポンド(136kg)に過ぎなかった。エンジン回りの作業には写真のような大きなエプロンをかけてボディーに傷をつけないようにしていた。

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上の3点は量産型カイザー・ダーリン161のカタログ。フロントウインドシールドが1枚ガラスになり、ヘッドランプは法規に合うよう上げられ、下にグリル形状にマッチングするパーキング/フラッシャーランプが追加された。ルーフの収納場所とトランクリッドを分けたことで操作性が向上している。メーター類は4つに集約されてドライバーの前方に配置された。エンジンはウイリスの161cid「ハリケーン」直列6気筒Fヘッド90馬力に換装されている。トランスミッションは3速MTが標準で、オーバードライブおよびハイドラマチックATがオプション設定されていた。サイズは全長184.09in(4676mm)、全幅67.56in(1716mm)、全高50.81in(1290mm)で、車両重量2175lb(987kg)は当時のアメリカ車コンバーティブルより1500lb(680kg)ほど軽かった。価格は3668ドルでキャディラック62あるいはリンカーン・カプリ並みに高価であった。生産台数は435台で、1954年中ごろには生産を中止している。価格もディスカウントされ2560ドルほどに落ちてしまった。カタログの発行はKaiser-Willys Sales Div., Willys Motors, Inc., Toledo, Ohioとなっている。

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カイザー・ダーリン161の専用カラーカタログはおそらく発行されておらず、1954年型総合カタログに掲載されたこの頁が唯一のカラー印刷物ではないかと思う。ワイヤホイールカバーは114ドルのオプションであった。

 1955年に入ると、カイザーおよびウイリス・セダンも生産を終え、7500トンにも及ぶ生産設備はアルゼンチンに送られた。南米市場向けの生産拠点をカイザー、アルゼンチン政府および個人投資家で設立している。この時点で、ウイローランには100台ほどのカイザー・ダーリン161の在庫が放置されており、ハワード・ダーリンが50台を購入して、自身のショップで販売することを決心した。

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ハリウッドのサンセット&ハイランドにあったハワード・ダーリンのショールーム。工場も近くのサンタモニカ通りにあった。ダーリン161の価格3668(2560に下落)ドル、90馬力、0-60mph(97km/h)加速15秒、最高速度98mph(158km/h)に対し、コルベットは3523ドル、150馬力、11秒、106mph(171km/h)、ナッシュヒーレー4721ドル、140馬力、10秒、105mph(169km/h)で、明らかに非力であった。そこで、ハワード・ダーリンはエンジンのチューンアップ、あるいはキャディラックのエンジンを積んだ「ダーリン・キャディラック」に改造して、1957年までに50台を完売している。中には304馬力のキャディラックV8を積んだ最高速度140mph(225km/h)、4350ドルのダーリン・キャディラックもあった。ブリックス・カニンガム夫人はこの1台でSCCA(Sport Car Club of America)主催のトーリーパインズ(Torry Pines)レースでクラス優勝、ニューヨーク・ヒルクライムでは総合2位の成績を上げている。アフターマーケットでFRP製ハードトップも販売されていた。
 ヘンリー・カイザーの息子、エドガー・カイザーのつぶやき「Slap a Buick nameplate on it and it would sell like hotcakes. (カイザー・ダーリン161にビュイックのネームプレートが付いていたらホットケーキのように売ることが出来たろう)」は独立系弱小メーカーの厳しさを表現している。(Photo:Howard Darrin)

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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