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第25回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ハドソン)
2014.1.27

 数えきれないほど生まれては消えていったアメリカ車の中で、最も成功したインディペンデント自動車メーカーの一つ、ハドソンを紹介する。ハドソンモーターカーカンパニー(Hudson Motor Car Co.)は、オールズモーターワークス(Olds Motor Works)で自動車製造のノウハウを学んだロイ D. チャピン(Roy D. Chapin)を中心とする仲間と、英国生まれで、デトロイトをはじめ米国のいくつかの都市で大規模な百貨店を経営していたジョセフ L. ハドソン(Joseph L. Hudson)を筆頭とする数人の投資家によって1909年に設立された。ハドソンと名付けたのは最大の資金提供者に敬意を表したこともあるが、発音しやすく、さらに17世紀に活躍した英国人探検家ヘンリー・ハドソンと、彼が発見したハドソン川、ハドソン海峡、ハドソン湾などは米国人に良く知られており、覚えやすいという理由で決定されたと言われる。
 1919年には廉価版のエセックス(Essex)を追加発売し、1925、27、29年型は首位を競り合うフォード、シボレーに次いで第3位の地位を占めるまで成長したが、台数で見ると、1925年型ではフォード約167万台、シボレー約31万台に対しハドソン(エセックスを含む)が約27万台、1927年型シボレー約100万台、フォード約37万台に対しハドソン約28万台であったが、29年型になるとフォード約151万台、シボレー約133万台に対しハドソンは約30万台と大きく水をあけられてしまう。1930年型では約11万台で5位にとどまるが、その後は次第に影が薄くなってしまう。
 ここに紹介するのは、1948年型として戦後はじめてフルモデルチェンジして登場したモデルで、非常に先進的なモデルであったが、鉄鋼メーカーや部品サプライヤーのストライキによって思うように生産できず、販売の機会を失い、やがてビッグ3が次々と魅力的なクルマを生産し始めると、ハドソンの影はどんどん薄くなり、1952年から1954年にかけて米国のストックカーレースで無敵の強さを発揮したが、販売の助けとはならなかった。
 1953年に1200万ドルを超える開発費をかけて新しいコンパクトモデルのハドソン・ジェットを発売したが、これが経営の足を引っ張る結果となり、ナッシュ・ケルビネーター社(Nash-Kelvinator Corp.)に吸収合併され、1954年5月、アメリカン・モーターズ社(American Motors Corp.:AMC)が設立された。ナッシュ・ケルビネーター社の社長ジョージ・メイソン(George W. Mason)はスチュードベーカー社(Studebaker Corp.)とパッカード・モーターカー社(Packard Motor Car Co.)もAMCに加えてビッグ3に対抗しようと調整していたが、1954年10月1日にパッカードがスチュードベーカーを吸収合併してスチュードベーカー・パッカード社となり、同月8日にはメイソン社長が急死してしまった。後任のジョージ・ロムニー(George W. Romney)社長はパッカード社との契約書の中身にあいまいな表現があり、AMCにとってメリットが無いものであり、スチュードベーカー・パッカード社の社長ジェームス・ナンス(James J. Nance)も合併に難色を示したため、4社合併は実現しなかった。4社合わせてのシェアは1948年には約15%であったが、1954年には5%に落ち込んでいた。その後、AMCのロムニー社長は小型経済車のランブラーに特化して業績を回復させ、1961年型はプリムスを超え、フォード、シボレーに次いで3位(シェア7%+)に躍進したこともあった。

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1947年12月に発表された1948年型ハドソンのカタログ。キャッチコピーはクルマの先進性を訴求する「Now...You're face to face with tomorrow(さあ、あなたは明日を実感します)」であった。すっきりしたスラブサイドに流れるようなルーフラインの美しいプロポーションを持つ。大きく湾曲したフロントウインドーに注目。ツートーン塗装とホワイトサイドウォールタイヤはオプションであった。

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1948年型ハドソンの車種構成は、コモドール(上図左側3台で価格は2374~3138ドル)とスーパー(上図右側、価格2069~2343ドル)の2つのシリーズがあり、4.2L直列8気筒128馬力と新設計の4.3L直列6気筒121馬力エンジンが設定されていた。スーパーシリーズの8気筒は4ドアセダンとクラブクーペの2モデルのみで、6気筒モデルは上図3車種のほかに3人乗りのクーペとコンバーティブルが設定されていた。シリーズを示すネームプレートは無く、外観上の差異はフード上のオーナメントの違い、スーパーにはフェンダートップのオーナメントが無いこと、ホイールキャップが小型で、テールランプがシンプルで小型であることで識別できた。スーパーのバンパーオーバーライダーはオプションであった。内装は素材のグレード、装飾などが異なる。1948年型ハドソンの生産台数は11万7200台でブランド別順位は10位、シェアは約3.4%であった。

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上の2枚は1948年型ハドソンの新しい試みであった「ステップダウン」デザインの解説。全鋼製「モノビルト(Monobilt)」ボディー・フレームの透視図で分かるように、ペリメーターフレームのサイドメンバーの内側にフロアパンを落とし込んだ構造で、サイドメンバーは後輪の外側を後方に伸びている。サイズとカッコ内に1947年型との比較を示すと全長5271mm(+3mm)、全幅1957mm(+110mm)、全高1524mm(-222mm)、ホイールベース3150mm(+76mm)で、特に全高を他社と比較しても、ビュイックより178mm、クライスラーより152mm、マーキュリーより102mm、スチュードベーカーより51mmほど低く、しかも最低地上高は203mmで他車と同等であった。当時のアメリカ車の中では最も低重心のクルマであった。ただし、モノコックボディーではあったが、強固なメンバーを多用していたため重量は重く、スーパーシックス4ドアセダンで比較すると1947年型の1411kgに対し、1588kgと177kgも重くなっていた。

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まだトルクコンバーターを使ったAT(オートマチック・トランスミッション)が広く普及していなかった時代、ハドソンが1942年型からオプション採用を始めた、クラッチとMT(マニュアル・トランスミッション)の操作をバキュームによって作動させるセミATで「ハドソン ドライブ・マスター」と呼ばれた。ユニークなのはインストゥメントパネルのセレクタースイッチによって3通りの操作方法が選択できた。「HDM」を選び、シフトレバーをハイギア(3速)に入れてアクセルペダルを踏み込むと2速から発進し、シフトアップしたいときにアクセルを少し戻すと自動的に3速にアップした。ブレーキを踏んで車速が一定のところまで落ちると自動的に2速にシフトダウンされる。シフトレバーを1速、2速あるいはリバースに入れたときには変速はされない。「VAC」を選ぶと、シフトレバーの操作だけで、クラッチはバキュームによって自動的に作動する。セレクターを「OFF」にするとクラッチとシフトレバーによるマニュアル操作が可能であった。マニュアルが好きな人のためとあるが、システムが故障したときの保険であろう。
 最近、MTとクラッチを組み合わせたATが普及してきたが、1983年の第25回東京モーターショーに登場し、翌年いすゞアスカに搭載されて市販された「NAVi5(ナビ・ファイブ)」はこの仕掛けの進化型で、油圧アクチュエーターをコンピューター制御して作動させていた。1986年には2代目ジェミニ、小型トラックのエルフ、大型路線バス、さらに、10トン級トラックには6速の「NAVi6」も搭載された。今年1月にはスズキから同じような仕掛けの「Auto Gear Shift」が発表され、2月5日からインドで開催されるデリーオートエキスポに、この新開発トランスミッションを搭載した新型車が公開される。

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これもハドソンの特徴であった「フルード・クッションドクラッチ」。クラッチシステムを密閉してオイルを充填した湿式クラッチで、クラッチフェーシングには特殊加工したコルクが使われていた。この湿式クラッチは1910年型から採用されていた。

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これもハドソンが特許を持っていた仕掛けで、油圧ブレーキが油漏れを起こしてもノーブレーキにならず、さらにブレーキペダルを踏み込むと後輪にメカニカルブレーキが作動する二重安全機能を持っていた。それにサイドブレーキを加えて「トリプル・セーフブレーキ」と称していた。この仕掛けは1936年型から採用されていた。

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「ステップダウン」の魅力を訴求する1948年型ハドソンの広告。クルマはコモドール4ドアセダンだが、8気筒か6気筒かは識別できない。ツートンカラーとホワイトサイドウォールタイヤはオプションであった。

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これは1949年型ハドソンのカタログ表紙だが、外観上は1948年型との差異は見受けられない。しかし、中身は若干変更されていた。前年モデル同様、コモドール(価格2359~3041ドル)とスーパー(価格2053~2296ドル)の2シリーズの車種構成で、生産台数は15万9100台、ブランド別順位は9位、シェアは約3.1%であった。
 1949年は戦後の売り手市場から買い手市場への変換期にあたり、全米の乗用車生産台数も前年比約1.5倍の伸びを示したが、ハドソンは1.3倍程度にとどまっていた。全メーカーがストライキに悩まされていたが、ハドソンのような独立メーカーにとっては特に影響が大きく、しばしばライン停止に追い込まれていた。

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豪華で広々とした1949年型ハドソン・コモドールセダンの室内を紹介した広告。これは1949年2月26日版「コリアーズ」誌に掲載されたもので、写真はファッション誌「ヴォーグ」の提供によるとある。女性が身に着けているガウンとミンクのストールはヘンリ・ベンデル・ニューヨークの作品。シンプルでシンメトリカルにデザインされたインストゥルメントパネルはナチュラルウォールナットと、上下にダークウォールナットを用いて2トーンに仕立てられ、ドアトリムへと連続した美しいものであった。後席のセンターアームレストの幅は16インチ(406mm)もあった。

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1950年型ハドソンのカタログ表紙。コモドールの名前がカスタムコモドールに変更され、スーパーシリーズに加えて若干コンパクトな廉価版のペースメーカーシリーズが追加設定された。ペースメーカーは1949年11月に発表されたが、コモドール(価格2257~2893ドル)とスーパー(価格2068~2629ドル)は遅れて1950年2月に発表されている。表紙のクルマはカスタムコモドールセダンで、フロントグリルの形状変更とサイドモールディングが追加された。サイドモールディング先端には「Commodore 6または8」のネームプレートが付けられた。「ドライブ・マスター」セミATはオーバードライブが追加されて「スーパー・マチックドライブ」に変更され、全車にオプション設定されていた。ホワイトサイドウォールタイヤも全車オプションであった。スーパーシリーズにはサイドモールディングは付かず、バンパーオーバーライダーも外側の2個はオプションであった。この年のハドソンの生産台数は12万1408台、ブランド別順位は13位で、シェアは約1.8%に激減した。

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これが追加設定された1950年型ハドソン・ペースメーカー。ホイールベース3023mmでシニアモデルより127mm(5in)短く、全長は5118mmで153mm短い。エンジンは3.8L直列6気筒112馬力を積む。フロントグリルはシニアモデルと同じように見えるが、パーキングランプは1948~49年型のものが流用されていた。また内装も価格に見合った簡素なものとなっている。このクルマは4ドアセダンだが、ほかに2ドアセダン、クラブクーペ、3人乗りビジネスクーペ、コンバーティブルがラインアップされ、モデルイヤーの途中から3人乗りクーペ以外にはデラックスモデルも設定された。価格は1807~2444ドルで、生産台数は6万1752台でハドソン全生産台数の51%を占めていた。

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1951年型ハドソンのラインアップに加わった高性能モデル「ホーネット」。エンジンはアメリカ車の6気筒では最大の5.1L、当時は高圧縮比であった7.2:1、アルミヘッドを持つ145馬力を積んでいた。オプションとして鉄合金製で圧縮比6.7:1のヘッドが追加料金なしで選択可能であった。この年からホーネットとコモドールにはGM製ハイドラマチックATがオプション設定された。車種はセダン、クラブクーペ、コンバーティブルと新しく加わった「ハリウッド」ハードトップクーペの4種類が設定されていた。価格は2543~3099ドル、生産台数は4万3656台で、ハドソンの生産台数13万1905台の33%を占めていた。ホーネットはやがてストックカーレースで無敵の強さを発揮する。

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1952年型ハドソン・ホーネット。この年、ハドソンのボディー周りがマイナーチェンジを受け、リアクォーターウインドーが若干大きくなり、窓周りにクロームトリムが追加され、サイドモールディング、テールランプを含めたリアエンド、フロントパーキングランプなどが変更された。この年の車種構成はペースメーカー(3.8L直6、112馬力、価格2116~2311ドル、生産台数7486台)、ホイールベース3150mmのスーパーシリーズが廃止され、代わりにペースメーカーと同じホイールベース3023mmのワスプ(4.3L直6、127馬力、価格2413~3048ドル、生産台数2万1876台)が新設され、さらに、コモドール6(4.3L直6、127馬力、価格2647~3247ドル、生産台数1592台)、ホーネット(5.1L直6、145馬力、価格2742~3342ドル、生産台数3万5921台)、コモドール8(4.2L直8、128馬力、価格2742~3342ドル、生産台数3125台)であった。この年のハドソンの生産台数は7万台、ブランド別順位は14位で、シェアは約1.8%。この年、全米の乗用車生産台数は400万台を切り、前年の約600万台から大きく落ち込んだ。最大の原因は1950年に始まった朝鮮戦争のため、軍需品の生産が最優先されたことであった。

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1952年型ハドソン・ホーネット(ブルー)とワスプ(イエロー)「ハリウッド」ハードトップクーペ。ハリウッドモデルは1951年9月にスーパー、ホーネットおよびコモドールシリーズに1951年型として登場し、1952年型ではワスプ(2812ドル)、ホーネット(3095ドル)とコモドール(6気筒:3000ドル、8気筒:3095ドル)に設定されていた。ホーネットのトランクリッドには爆弾かロケット?状のプレートに「H」と「Hornet」の文字を入れたエンブレムが付く。

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1953年型ハドソンは、コンパクトサイズの「ジェット」の登場で、フルサイズモデルはホーネットとワスプシリーズに集約された。生産台数はホーネット2万7208台、ワスプ1万7792台で、ジェット2万1143台を加えてもわずか6万6143台であり、ブランド別順位は15位、シェアは約1.1%であった。

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上の2枚はハドソンの代理店であった日本自動車株式会社が発行した1953年型ハドソンのカタログ。ソンは損につながるということで日本では「ハドスン」と称していた。ダットソンがダットサンになったのと同じ理由であった。

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上の2枚はクライスラー博物館に「Hudson's Last Hurrah:ハドソンの最後の試み」のタイトルを付けて展示されている1953年型ハドソン・ホーネットクラブクーペと搭載されている7-X型「ツインH-パワー」直列6気筒Lヘッド200+馬力エンジン。ツインH-パワーはH-145型をツインキャブ仕様にしたエンジンで160馬力、170馬力仕様が1953年型からオプション設定された。ただし、レース用には1952年途中から登場している。このクルマのベース価格は2742ドルで、ツインH-パワー・パッケージは16ドルと記載されている。ルーフ先端にオプションのラジオ用アンテナが下向きについているが、これは室内から180°回転して立てることができた。
 ホーネットはストックカーレースで大活躍し、解説によると1952年にはマーシャル・ティーグ(Marshall Teague)がAAA(The American Automobile Association)の主催した12レースの内11レースで優勝。NASCAR(The National Association for Stock Car Auto Racing)のドライバー、ハーブ・トーマス(Herb Thomas)、ディック・ラスマン(Dick Rathmann)、アル・ケラー(Al Keller)、フランク・マンディー(Frank Mundy)はホーネットで1952年27回、1953年に21回、そして1954年には17回優勝してハドソンに有終の美を飾った。映画「カーズ」にはハドソン爺さんとして登場している。

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ビッグマイナーチェンジが施された最後のデトロイト製1954年型ハドソン。表紙を飾るのはホーネットコンバーティブル。ホーネット(価格2742~3288ドル)、ホーネットスペシャル(2571~2619ドル)には5.1L直列6気筒160馬力が標準装備され、アルミヘッド+ツインキャブの170馬力がオプション設定され、スーパーワスプ(2413~3004ドル)には4.3L直列6気筒140馬力が標準で、アルミヘッドの143馬力およびツインキャブの149馬力がオプション設定されていた。最も安価なワスプ(2209~2256ドル)には3.8L直列6気筒126馬力が標準で、アルミヘッドの129馬力がオプション設定されていた。生産台数はホーネットシリーズ2万4833台、ワスプシリーズ1万1603台でコンパクトのジェットシリーズ1万4224台を合わせても5万660台で、ブランド別順位はパッカードが大きく落ち込んだため14位となったが、シェアは約1.0%であった。
 1954年にナッシュ・ケルビネーター社(Nash-Kelvinator Corp.)に吸収合併され、1954年5月に設立されたアメリカン・モーターズ社(AMC)の傘下に入った。

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AMCの傘下に入ったあとの広告で、ハドソン時代には積極的に宣伝していなかったストックカーレースでの実績を強烈にアピールしている。この広告によると1952年には55のイベントにおいて47回優勝してUSチャンピオンを獲得。1953年には66レースで46回優勝してUSチャンピオンを獲得。1954年は現在までに20レースのうち13回1位を獲得しているとある。

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ハドソンの広告はイラストが用いられてきたが、これは珍しく写真を使ったもので、クルマは1954年型ハドソン・ホーネット ハリウッド ハードトップ。1954年10月23日版「サタデイイブニングポスト」誌に掲載されたもので、恐らく「ステップダウン」ハドソン最後の広告ではないだろうか。AMCの広告にはステップダウンの訴求は一切なくなっていた。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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