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第21回 戦後のアメリカ車 - 3 :1940年代の新型車(スチュードベーカー)
2013.9.27

 今回は戦後いち早く新型車を発売したスチュードベーカーを紹介したい。
 スチュードベーカーの歴史は古く、1852年2月、インディアナ州サウスベンドにヘンリーとクレメント・スチュードベーカー(Henry & Clement Studebaker)兄弟が資本金68ドルで鍛冶屋「H & C スチュードベーカー」を開店し、馬車の製造と修理を始めたのが始まり。ヘンリー26歳、クレメント21歳であった。その後、弟3人が加わり1868年に社名をスチュードベーカー兄弟製造会社(Studebaker Brothers Mfg. Co.)に変更。1861年に勃発した南北戦争に大量の軍用馬車を供給し急成長。1895年には年産7.5万台の規模に達した。
 1902年、トーマス・エディソン(Thomas Alva Edison)設計の電気自働車を発売し、1912年までに乗用車とトラックを合計1841台生産している。
 1904年(文献によっては1903年としているが、1960年にスチュードベーカー・パッカード社が発行した広報資料に準ずる)「スチュードベーカー・ガーフォード(Studebaker-Garford)」の名前でガソリンエンジン車を発売。エンジンとシャシーはオハイオ州のガーフォード・モーター社(Garford Motor Plant)が造り、スチュードベーカーがボディー架装を行なったものだが、シャシーが高価でわずか2481台生産して1911年に提携を解消している。
 自動車の将来性を確信したスチュードベーカーは、自身の生産拠点を得るべく、1908年から1909年にかけてデトロイトのエヴェリット・メッツガー・フランダース社(Everitt-Metzger-Flanders Co.)を買収し、中価格から低価格の「スチュードベーカー・E.M.F.」と「スチュードベーカー・フランダース」車を販売した。
 1913年型は初めて「スチュードベーカー」の名前で発売され、4気筒と6気筒を合わせ約2.8万台生産された。この年は米国のブランド別生産台数でフォード、オーバーランド、ビュイックに次ぐ第4位にランクされている。
 1915年から社長を務めたアルバート・アースキン(Albert R. Erskine )の時代、1927年に欧州市場をターゲットにした小型車「アースキン」を発売したが、価格が高く売れず、1930年に打ち切り。1928年には米国屈指の高級車メーカー、ピアスアロー・モーターカー社(Pierce-Arrow Motor Car Co.)を買収したが、1929年10月に始まった大恐慌で高級車の販売不振に直面する。更に、1932年には低価格車「ロックニー(Rockne)」を投入したが不況で売れず、1933年3月にはスチュードベーカー社は経営破綻。アースキンは会長に留まるが、自己破産し自殺してしまった。しかし、ロックニーの生産中止、ピアスアロー社の売却などの経営再建努力によって1935年に奇跡的に復活した。

◇戦前のスチュードベーカー
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1938年型スチュードベーカー・コマンダー・クルージングセダンで、コマンダーとプレジデント・シリーズにオプション設定されていた「ミラクルシフト(Miracle Shift)」を備えている。ミラクルシフトはバキュームアシストの付いたシフトレバーをインストゥルメントパネルの中央下端に取り付けたもので、前席への3人掛けを容易にしたものだが、クラッチとシフトレバーのマニュアル操作は必要。1939年型からはコラムシフトが標準装備されるようになったため、1年限りの仕掛けであった。3.7ℓ直列6気筒90馬力エンジンを積んだコマンダーと、4.1ℓ直列8気筒110馬力のプレジデントにはこのような流線型のヘッドランプが採用され、3.7ℓ直列6気筒90馬力のシックス・シリーズには平凡な丸型のヘッドランプが採用されていた。

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1938年型のカタログに紹介された「オートマチックヒルホルダー(Automatic Hill Holder)」。坂道発進のときブレーキペダルから足を離してもすぐにはクルマが後ずさりしない仕掛けで、最近は装着されたクルマが増えたが、スチュードベーカーには1935年後期型から、最後の1966年型まで標準装備あるいはオプション設定されていた。

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スチュードベーカーは前述したとおり「アースキン」と「ロックニー」で2回小型車に挑戦して失敗したが、三度目の正直を信じて1939年3月に登場させた小型低価格車「チャンピオン」。全長4.7m、全幅1.78m、ホイールベース2.8mのボディーに2.7ℓ直列6気筒78馬力エンジンを積み、価格は660~800ドルで、上の赤いカスタム・クラブセダンは700ドルであった。販売は好調で1938年型スチュードベーカーの生産台数が4万6787台でブランド別順位11位であったのが、1939年型は8万5834台で7位に躍進している。

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1940年型スチュードベーカー・チャンピオンの広告。スタイルの良さと経済性、さらに、大量販売されるビッグ3の低価格車と同レベルの安さを訴求している。1940年型スチュードベーカーは10万7185台生産され、最も安いチャンピオンのクーペは660ドル。シボレーは76万4616台生産され、最も安いビジネスクーペは659ドルであった。AAA(American Automobile Association:米国自動車連盟)主催のギルモア~ヨセミテ・エコノミーランで1-2-3位を独占し、この時のチャンピオンの平均燃費は、1935年からオプション設定されたオーバードライブを装着して12.4km/ℓであった。この後もスチュードベーカーはエコノミーランに積極的に参加して優秀な成績を収めている。

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戦前最後の1942年型スチュードベーカー・チャンピオン。全長4.9m、全幅1.85m、ホイールベース2.8m(110in)のボディーに2.8ℓ直列6気筒80馬力エンジンを積み、価格は744~839ドル。対日戦に突入したため、1942年2月に民需向け乗用車の生産は禁止されたため、1942年型チャンピオンの生産台数はわずか2万9678台で、1941年型8万4910台の1/3にとどまった。なお、チャンピオンはわずかな変更を加え、1946年型として1万9275台生産されている。但し価格は1002~1097ドルに上昇した。

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1942年型スチュードベーカーの左側3台はコマンダーで、全長5.34m、ホイールベース3.0m(119in)のボディーに3.7ℓ直列6気筒94馬力エンジンを積み、価格は1025~1160ドル、生産台数は1万7500台(1941年型は4万1996台)。右側の3台はプレジデントで、全長5.48m、ホイールベース3.16m(124.5in)のボディーに4.1ℓ直列8気筒117馬力エンジンを積み、価格は1141~1276ドル、生産台数は3500台(1941年型は6994台)であった。スチュードベーカーのデザインは1936年から、わが国でもたばこのショートピースやミツワソフト石鹸のパッケージデザインで有名な、工業デザイナーのレイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)の事務所が担当。コマンダーとプレジデントのスカイウエイ・シリーズなどクロームを極力廃し、ツートーン塗装を施したしゃれたデザインはフランス人らしいセンスを感じさせてくれる。

◇戦時中のスチュードベーカー
 米国は1941年3月、ルーズベルト大統領が武器貸与法に署名して、それまでの中立的立場を放棄してヨーロッパ連合軍の対ドイツ戦に参戦。5月には国家非常事態・臨戦態勢確立を宣言した。同年12月7日(日本時間12月8日)、日本軍による真珠湾攻撃で対日戦にも突入し、一気に臨戦態勢に入っていった。1942年2月にはすべての民需向け乗用車の生産は禁止され、1945年6月まで続いた。したがって1943~45年型は存在しない。1942年型の生産台数も極めて少なく、1941年型の421万台に対し、わずか114万台に過ぎない。
 自動車製造各社は国家の一大事とばかりに軍需品の生産に全力を注ぎ、スチュードベーカーでは4×4、6×4、6×6軍用トラックを合計19万7678台、ボーイングB-17フライングフォートレス重爆撃機用ライト・サイクロンR-1820-97空冷星型9気筒1200馬力エンジンを6万3789基生産。他に秘密裏に開発した全長わずか3.2mのキャタピラーを持った水陸両用車「ウィーズル(Weasel:いたち)」を2万5124台生産した。
 契約金額は総額12億ドルに達し、1933年の経営破綻以来無配であったが、1943年に株主は11年ぶりに配当を手にすることができたと言われる。

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「進攻戦での新しいチャンピオン! - スチュードベーカー・ウィーズル」のコピーと共に紹介されたウィーズルM29の広告。2.8ℓ直列6気筒のチャンピオン用エンジンを積み、全長3.2m、全幅1.7m弱のコンパクトな兵器は、当初、北極圏の偵察用に開発されたという。その後、欧州戦線での上陸作戦用に変更され、「史上最大の作戦」のタイトルで映画にもなったノルマンディー上陸作戦で大活躍した。日本では一般の雑誌に兵器の広告が載ることは無いが、兵器は税金や戦時公債などを財源に生産されており、納税者や債権者に報告する義務があり、米国ではその義務がしっかりと果たされているということ。また、メーカーとしても国家のためにいかに貢献しているかを訴えるツールである。

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これはウィーズルM29Cの広告。M29Cは水中での抵抗を減らすためM29の先端部に舟形のエプロンを追加したモデル。「スチュードベーカー・ウィーズルは東京進攻を早める」日本が降伏しなかったら現実のものとなっていた怖いコピーだ。ウィーズルは沖縄上陸作戦でも活躍し、戦時中は鬼畜だと教え込まれていた米兵がM29Cに戦闘地域から救出した13人もの日本人の女性や子供を乗せて安全なキャンプに疎開させる写真が印象に残る。

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サウスベンドにあったスチュードベーカー博物館に保存されているウィーズルM29。これは実際にノルマンディー上陸作戦に参加した個体。左にあるのは暗くて判別不可能だがM29C。この写真はかつて世界最大のスチュードベーカーのディーラーがあったフリーマン・スパイサー・ビルディングを使っていたときのもので、エアコンもなく扇風機だけの、クルマたちにとって良い環境ではなかったが、2005年10月に新築した博物館に引っ越している。

◇戦後のスチュードベーカー
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「戦後モデルの先陣を切って、アメリカの最も優秀な自動車職人たちによって造られた、新しい1947年型スチュードベーカー」のコピーのとおり、戦後真っ先にフルモデルチェンジ車を発売したのがスチュードベーカーであった。1946年5月に発表し、6月に発売されている。

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1947年型スチュードベーカーの表紙を飾るコマンダー・リーガルクーペとその斬新なリアウインドー。リアフェンダーをアクセントとして残しているが、フェンダーがボディーと一体化したフラッシュサイド(スラブサイドともいう)を米国の量産車で初めて採用。大胆なラップアラウンドリアウインドーは担当したピッツバーグ板ガラス社(Pittsburg Plate Glass Co.)にできないと言われたが、最終的に生産に成功した代物である。デザインは当然レイモンド・ローウィ事務所が担当したが、責任者に任命されたのは1937年にポンティアックからレイモンド・ローウィ事務所に移籍し、1949年にはクライスラーに移籍して野心的なコンセプトカーを次々と発表したヴァージル・エクスナー(Virgil M. Exner)で、当時スチュードベーカーの社員であり、1940年にエクスナーに認められ、ローウィのチームに加わったロバート・ボーケ(Robert E. Bourke)が中心となって作業が進められた。1940~1941年には既に作業が開始されていたと言われる。このクルマ「どっちに進むか分からない」と当時のコメディアンのネタに使われたようである。

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1947年型スチュードベーカーのモデルバリエーション。左側の4台がコマンダーシリーズで、ホイールベース3.0m(119in)のシャシーに3.7ℓ直列6気筒94馬力エンジンを積み、価格は3140~3420ドル、生産台数は5万6399台。右側の4台はチャンピオンシリーズで、この他に4ドアセダンが存在した。ホイールベース2.85m(112in)のシャシーに2.8ℓ直列6気筒80馬力エンジンを積み、価格は2600~2875ドル、生産台数は10万5097台に達し、ブランド別順位は8位、シェア4.1%であった。リーガルクーペとコンバーティブルにはワンピースのフロントウインドシールドが採用され、技術的にはメーターパネルの照明に軍用機で開発された、防眩効果の高いブラックライトの採用と、自動調整機構付きブレーキの採用などがあげられる。

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これは1947年型コマンダーシリーズのランドクルーザーで、エンジンは3.7ℓ 94馬力だが、ホイールベースは他のランドクルーザーより4インチ長い3.1m(123in)で価格は3340ドルであった。セダンだがワンピースのフロントウインドシールドが与えられている。

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1948年型スチュードベーカーのカタログ表紙を飾るのはコマンダー・コンバーティブル。1948年型はフロント周りと内装のマイナーチェンジにとどまったが、18万4993台(シェア5.7%)、ブランド別順位7位と戦後最高のシェアをマークした。

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1949年型スチュードベーカーのコマンダー・コンバーティブルとチャンピオン・2ドアセダン。この年もバンパーの変更などのマイナーチェンジにとどまったが、コマンダーシリーズのエンジンは3.7ℓ直列6気筒94馬力から4.0ℓ直列6気筒100馬力に強化された。1950年型が早めの1949年8月から発売されたこともあるが、1948年型ハドソン、1949年型ナッシュに加え、ビッグ3が揃って戦後初のフルモデルチェンジ車を投入したため、市場全体が1948年の323万台から516万台に拡大したにもかかわらず、この年のスチュードベーカーの生産台数は12万9298台(シェア2.5%)で前年比70%、ブランド別順位11位に後退してしまった。

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起死回生を図るべくフロント部を大胆に変えて登場した1950年型スチュードベーカー・コマンダー・コンバーティブル。双発双胴の戦闘機、ロッキードP38 ライトニングをイメージしたと言われるこのデザインを担当したのはロバート・ボーケで、砲弾に似ているので「ブリットノーズ(Bullet nosed style)」と称される。最初にこのクルマに出会ったとき、新鮮さと言うより、異様さに驚いたと記憶する。1950年型の生産台数はスチュードベーカー社創立以来の最高記録の32万0884台(シェア4.8%)で、ブランド別順位8位に回復した。好調だった理由の一つは、1950年6月、米国の朝鮮戦争参戦を機に、民需用乗用車の統制を懸念した人たちが一斉に買いに走ったため、1950年型アメリカ車(乗用車)の総生産台数は約663万台に達した。
 ビッグマイナーチェンジではあったが、フロントサスペンションは横置きリーフの独立懸架からダブルウイッシュボーン+コイルスプリングに変更され、同時に全モデルのホイールベースが1インチ延長されている。更に、エンジン出力がチャンピオンシリーズは80から85馬力に、コマンダーシリーズは100から102馬力にアップした。
 1950年後期型から、従来のフルードカップリング+バキューム作動クラッチ+3速トランスミッション+オーバードライブを組み合わせた「ターボマチックドライブ」セミAT(オートマチックトランスミッション)を、ボーグワーナー社と共同開発した空冷3速フルATに換装している。3速はクラッチで直結される優れもので、現在では当たり前のロックアップ機能とアウトプットシャフトをロックできる"P(パーク)"レンジを既に備えていた。このATにフォードが興味を示し、購入の引き合いがあったが、当時の社長ハロルド・ヴァンス(Harold S. Vance)は断っている。結局、コスト高で競争力無く1955年1月に内製ATの撤退を決定し、1956年型からは「フライトマチック」の名前でデトロイト・ギア社製ユニットを購入することになる。

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1951年型スチュードベーカーのカタログ表紙。クルマはチャンピオン・コンバーティブル。
1950年型とほとんど変化ないように見えるが、シャシーには手が加えられ、ホイールベースはランドクルーザーを除いて2.92m(115in)に統一され、チャンピオンは2インチ長くなり、コマンダーは5インチ短くなっている。さらに、コマンダーシリーズにはスチュードベーカー初のV型8気筒エンジンが搭載された。1951年型の生産台数は24万6195台(シェア4.1%)でブランド別順位9位に後退している。

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1951年型チャンピオン・スターライトクーペ。後席の脇まで回り込んだ超ラップアラウンドリアウインドーを持つ個性的なクーペは、1949年型から「スターライトクーペ(Starlight Coupe)」と命名された。

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ホイールベースが115インチに統一された1951年型スチュードベーカーの中で唯一3.0m(119in)のホイールベースを与えられたランドクルーザー4ドアセダン。V8エンジンを積み、全長5.1m、価格は2289ドルであった。

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1951年型スチュードベーカーに初めて採用された3.8ℓ V型8気筒OHV 120馬力エンジン。開発段階ではOHCも準備されたがコスト高がネックとなり採用されなかった。V8エンジンを搭載した上級グレードのコマンダーシリーズの販売比率は前年の21%から46%に伸びている。中・低価格アメリカ車のV8エンジン採用時期はフォードの1932年、マーキュリーの1939年型は例外として、オールズモビルは1949年型、ダッジ、ビュイックが1953年型、シボレー(1917~18年の2年間だけV8モデルが存在した)、プリムス、ハドソン、ナッシュ、ポンティアックは1955年型からであるから、スチュードベーカーのV8採用は早かったと言えよう。

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上の2枚は1951年型スチュードベーカーの広告だが、廉価車の購入を検討するときにはビッグ3+1として仲間に入れてもらいたいと訴えている。ちなみにブランド別順位1位のシボレーの価格は1460~2191ドルで生産台数は約123万台。2位のフォードは1320~2029ドルで約101万台。3位のプリムスは1537~2222ドルで約61万台。そして、スチュードベーカー・チャンピオンは9位、1561~2157ドルで約25万台であった。

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あまりにも大胆だった「ブリットノーズ」は結局受け入れられず、1952年型は再度ビッグマイナーチェンジされて登場した。1952年はスチュードベーカー社創立100周年にあたり、本来ならフルモデルチェンジした美しい1953年型をこのタイミングで発売したかったであろう。中身は1951年型と同じだが、この顔立ちから「クラムディガー(Clam digger:貝掘り器)」のニックネームを頂戴した。1952年型の価格は1735~2548ドル、生産台数は16万7662台(シェア4.21%)でブランド別順位9位であった。

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1952年型で新しく追加されたハードトップのコマンダー V-8 ステート・スターライナー。チャンピオンシリーズにもリーガル・スターライナーが設定されている。ハードトップは1949年後期型からGMのキャディラック、ビュイック、オールズモビルに採用されて一気に流行したボディー形式で、スチュードベーカーの採用はやや遅かった。

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1952年型スチュードベーカーのボディーバリエーション。
スチュードベーカー社では朝鮮戦争に関連して軍用トラックの生産に加え、1951年からボーイング社初のジェット爆撃機B-47ストラトジェット用のGE製ターボジェットエンジンJ-47-ST-25のライセンス生産を行なっていた。
1953年型以降は別途紹介します。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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