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第20回 戦後のアメリカ車 - 2 :1940年代の新型車(ウイリス/ジープ)
2013.9. 3

 前回はマイナーチェンジで登場した1946年型アメリカ車を紹介したが、今後はまず1946年以降にフルモデルチェンジあるいは新規に登場したクルマを取り上げていく予定です。まずは1940年代で、今回は第2次世界大戦で大活躍したジープを製造したウイリス・オーバーランド社のクルマを紹介します。
 はじめに、ジープの生産に専念する前にウイリスが製造していたコンパクトな乗用車と商用車を見てください。

◇戦前のウイリス

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上の2枚は1940年型ウイリス・セダンとクーペで、これは上級グレードのデラックス、他に廉価版のスピードウエイ(Speedway)があった。2.2ℓ直列4気筒61馬力エンジンを積む、ホイールベース102インチ(2.59m)、全長4.6mのコンパクトなクルマであった。この年の生産台数は2.2万台ほどで、ブランド別生産台数では17位、首位のシボレーは約76.5万台生産していたので、会社の規模が想像できよう。価格(スピードウエイ/デラックス)はセダンが596/672ドル、クーペは529/641ドル。この年のシボレーは4ドアセダンが740~802ドル、クーペは659~750ドルであった。

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これは1940年型ウイリス・ステーションワゴンで、この年初めて登場したモデル。注目したいのは「Town and Country STATION WAGON」と記載されていること。この場合のTown and Countryは固有名詞ではなく、街でも田舎でも多目的に使えますよ、という意味で使われている。この翌年、クライスラーから個性的なウッディワゴン「Town & Country Wagon」が誕生。この名前は今でも大事に使われている。グレードはデラックスのみで価格は830ドル。参考までにシボレーのワゴンは875~947ドルであった。

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1940年型ウイリス・ハーフトンキャブピックアップ(Half-Ton Cab Pick-Up)。エンジンは乗用車と同じ2.2ℓ直列4気筒だが圧縮比を下げて57馬力としていた。ホイールベースは2インチ短い100インチ(2.54m)、全長は4.6mであった。駆動系、サスペンション、ブレーキ、エンジンの冷却系などは強化されている。

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1940年型ウイリス・パネルデリバリー。エンジンはピックアップよりさらに圧縮比を下げて48馬力としており、ファイナルギア比も大きなものが採用されている。ホイールベースは100インチだが、全長は他のモデルより若干長く4.8mであった。

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これは1942年型ウイリス・セダンとクーペで、1941年型からウイリス・アメリカー(Willys Americar)と名乗るようになった。セダンは1941年型から6ライトのボディーに変更されており、グレードも最上級のプレインズマン(Plainsman:大平原の住民)が追加されて3グレードとなった。エンジンは63馬力になり、ホイールベースは2インチ伸ばされ104インチ(2.64m)となった。価格はセダンが745~845ドル、クーペは695~819ドル。このころ既にジープの生産に集中しはじめ、戦時体制に突入しつつあったため、カタログの右下には「Save Gas for Uncle Sam(米国政府のためにガソリンを節約しよう)」のスローガンが入っている。

◇ジープ
 20世紀の初めには既にクルマに機関銃を据え付けた偵察用車両など戦場でのクルマの活用がいろいろと試みられていたが、ジープ開発のきっかけを作ったのは、1938年にアメリカン・バンタム社(American Bantam Co.)が自社製のロードスターをベースに偵察用の車両を3台造り、ペンシルベニア州の州兵に貸し出してテストしたのを、米国陸軍が注目したのが始まりと言われる。1940年5月に目標スペックを決定し、QMC(The Quarter Master Corps:アメリカ陸軍需品科)が135社に対し提案書を提出するよう要請したが、応えたのはアメリカン・バンタム社とウイリス・オーバーランド社(Willys Overland Inc.)の2社だけであった。
 この時の目標スペックは4輪駆動の1/4トン車で車両重量590kg以下、積載量272kg、ホイールベース80インチ(2032mm)以下、トレッド47インチ(1194mm)以下で、納期は75日以内に70台(内8台は4輪操舵車)納車するという厳しいもので、設計を行なって、最初のプロトタイプを49日以内に完成させ、残りの26日以内に合計70台を完納するという条件であった。予算は17.5万ドル。これを達成したのはアメリカン・バンタム社だけで、1940年9月から10月にかけて陸軍によるテストが実施され、このテストにはウイリス・オーバーランド社とフォード・モーター社がオブザーバーとして参加している。
 ウイリス・オーバーランド社の最初のプロトタイプ「クワッド(Quad)」は1940年11月に陸軍に納入されてテストを開始し、フォードも2週間ほど遅れてプロトタイプ「ピグミー(Pygmy)」を納入した。
 最終的なプレプロダクションモデル(ウイリスMA、バンタム 40 BRC、フォードGP)を各社1500台ずつ(実生産台数はウイリス1500台、バンタム2675台、フォード3650台)受注し、最終テストの結果ウイリスが採用され、エアフィルター、発電機、バッテリーなどを陸軍の標準品に替え、ハンドブレーキをドライバーの左サイドから中央に移動するなどの変更をしてウイリスMBとして量産に入った。ウイリスが採用されたのは優秀な性能もあるが、納期が最も短く、最も魅力的な見積価格738.74ドルを提示したのが勝因であったと言われる。1941年7月23日にQMCとウイリス・オーバーランド社の間で正式契約が結ばれた。その後、1941年10月、陸軍はジープが大量に必要と判断し、ウイリスからフォードに図面を提供して、フォードでライセンス生産させたいとの要請が出され、1941年11月10日にフォードはセカンドサプライヤーとして契約を結び、フォードGPW(General Purpose Willys)が誕生した。
 最も積極的であったアメリカン・バンタム社は大量生産能力が無いと判断され、ジープでけん引する2輪のトレーラーを受注しただけであった。アメリカン・バンタムT3の名前で10万台以上生産しており、戦後も1952年まで生産された。ジープ用トレーラーはウイリス・オーバーランド社でもMBT(MB Trailer)の名前で生産され、その他多くのメーカーで生産されている。
 ウイリスMBの生産台数は36万1349台、フォードGPWは27万7896台であった。

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1940年にウイリス・オーバーランド社が造った初期のプロトタイプ「ウイリス・クワッド」。性能は申し分なかったが、唯一の問題は車両重量で、目標荷重は590kgから980kgに緩和されていたが、クワッドは1099kgもあった。(photo:Chrysler Group, LLC)

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1941年に1500台生産されたプレプロダクションモデル「ウイリスMA」。このグリルデザインはフォード・ピグミーからお借りしたもの。なお、MAはアメリカ陸軍ではごく一部が教習用として運用されたが、ほとんどがソ連と英国に渡っている。(photo:Chrysler Group, LLC)

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1942年型ウイリス・アメリカーのカタログに載ったウイリスMA「The Willys Go-Devil "JEEP"」。アメリカ陸軍と正式契約したばかりのジープと同じGo-Devilエンジンがアメリカーに搭載されていることを訴求している。

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W.P.クライスラー博物館に展示されている、ヨーロッパ戦線で活躍するジープ、ウイリスMBのジオラマ。MB初期の2万5808台まではプレスされたグリルではなく、細い鉄棒を縦に並べたMAのようなグリルであった。ウイリスMBとフォードGPWの仕様は、全長3360mm、全幅1580mm、全高1770mm(ウインドシールドを倒した時、ステアリングホイールの上縁まで1320mm)、ホイールベース2040mm、車両重量1054kg、最高速度105km/h(3820rpmでガバナー作動)、燃料消費量8.55km/ℓ、燃料タンク容量57ℓ(70オクタンガソリン使用)。

◇戦後のウイリス
 対日戦争に勝利することを早くから確信していた米国では、ウイリス・オーバーランド社も例外ではなく、1944年には既に軍用ジープMBを民間用に仕立てる作業に着手、CJ-1A(Civilian Jeep-1A)を完成していた。1945年7月にシリーズCJ-2Aとして発表し、1945年末までに1823台生産している。
 一方、1942年4月には工業デザイナーのブルックス・スチーブンス(Brooks Stevens)が、戦後に売り出すジープのシャシーに乗用車のボディーを架装した4輪駆動乗用車のアイデアを考えており、ウイリス・オーバーランド社も戦前生産してきたアメリカーのような経済車の生産を計画していた。ところが当時ウイリス・オーバーランド社のような小規模な自動車メーカーはボディーを外注していたため、戦後の急激な乗用車需要にボディービルダーは大手メーカーの仕事で手いっぱいとなり、ウイリス社の仕事をどこも引き受けてくれなかった。そこで当時社長であったチャールス・ソレンセン(Charles Sorensen)は冷蔵庫や洗濯機などの家電品の外板をプレスする会社を買収した。しかし、フェンダーのような深絞りはできなかったので、デザイナーのブルックス・スチーブンスに買収したプレス工場の能力で生産可能なクルマのデザインを依頼し、その結果完成したのがジープ・ステーションワゴンやウイリス・ジープスターであった。

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これはW.P.クライスラー博物館に展示されていたジープで、オハイオ州トレドのウイリス・オーバーランド社の工場で26番目に造られたユニバーサル・ジープCJ-2A。この個体は生産開始した月だけに採用された非常にめずらしいコラムシフト仕様で、翌月生産分からはすべてフロアシフトに変更されている。

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1946年型ユニバーサル・ジープCJ-2Aのカタログ。エンジンは軍用車と同じ2.2ℓ直列4気筒60馬力だが、3速MTとファイナルドライブのギア比は変更され、サスペンションもソフトなものになり、直径7インチの大型ヘッドランプ、電動ワイパーなども装備された。軍用車ではドライバーシートを持ち上げてフュエルタンクに給油していたが、ガソリンの注入口がボディーサイドに付けられ、農場や作業現場でいろいろな機材の動力源として使えるパワーテイクオフがオプション設定された。

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1946年8月に発行されたジープの広告。ディーラーに来てあなた自身でジープを運転してみてください。とにかく乗ってもらおうと訴えている。

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これも1946年に発行された広告で「たくさんの仕事をこなす革命的なクルマ・・・スタミナと性能は戦争で証明済みです」のコピーといろいろな活用方法が紹介されている。パワーテイクオフは96.25ドルでオプション設定されていた。

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1946年7月に登場したジープ・ステーションワゴン。「1台で何にでも使える」のコピーが示すように、MPV(マルチパーパスビークル)のはしりであった。初めてオールスチールボディーを架装した乗用ステーションワゴンで、従来のウッディボディーに比べてコストが安く、メインテナンスが簡単になったため、それまで普及しなかったステーションワゴンを普及させるきっかけとなった。塗色はマルーンのみでウッディ調の塗装が施されていた。エンジンは2.2ℓ直列4気筒63馬力で、駆動方式はFRでまだ4輪駆動は設定されていなかった。サスペンションはジープとは全く違うフロントが横置きリーフスプリングの独立懸架で、リアは平凡なリーフ+リジッドアクスル方式であった。シートは2列+3列目は横向きに1人分が加わり、合計7人が乗車できた。ホイールベースは戦前のアメリカー・セダンと同じ104インチ(2.64m)で全長は4.45m、価格は1495ドル(途中で1549ドルに値上げされている)。

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1948年1月に登場したジープ・ステーションセダン。2.4ℓ直列6気筒72馬力エンジンを積んだモデルで、グリルとエンジンフードにクロームモールディング、ボディーサイドには籠目模様の帯が追加され、内装もシート幅を広げるなどの変更が施された。価格は1890ドルで、4気筒63馬力エンジン搭載のステーションワゴンも1645ドルに値上げされていた。

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これはW.P.クライスラー博物館に展示されていた1949年型ジープ・ステーションワゴン4WD。SUV(スポーツユーティリティビークル)の元祖的クルマで、2.2ℓ直列4気筒63馬力で3速MT+2速トランスファーを積む。発売は1949年7月で、価格は1895ドル。1949年にはステーションワゴンの6気筒+2WD仕様も登場した。

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1947年に登場したジープ・トラック群。発売当初はすべて4輪駆動であったが、この1948年のカタログではユニバーサル・ジープの他は2輪駆動もラインアップされている。左上のパネルデリバリーはステーションワゴンと同じホイールベース104インチ(2.64m)のシャシーに架装され、その他のトラックはホイールベース118インチ(3.0m)であった。右下の2台(キャノピートラックとバントラック)はシャシー&キャブに架装されたもので、14のバリエーションが用意されていた。1948年型の価格はパネルデリバリー(2WD):1477ドル、シャシー&キャブ:1334(2WD)/1652(4WD)ドル、ピックアップ:1427/1743ドル、プラットフォーム・ステーキ:1493・807ドル。

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1948年5月に登場したジープスター。手動のキャンバストップと透明なビニールのサイドカーテンを持ったアメリカ車最後のフェートンボディーのクルマで、シャシーはステーションワゴンとほぼ同じ。1948年型は2.2ℓ直列4気筒63馬力エンジンのみであった。価格は1765ドルで、この年1万326台生産された。1949年には2.4ℓ直列6気筒72馬力エンジン搭載モデルが追加設定され、さらに、4気筒モデルの一部には新しい2.2ℓ直列4気筒Fヘッド(従来はLヘッド)72馬力エンジンが搭載された。Fヘッドでは排気バルブはシリンダーブロックにあるが、吸気バルブがシリンダーヘッドに移されている。価格は4気筒モデルが1495ドルで、前年に比べ270ドル値下げされているが、標準装備であったオーバードライブがオプション設定となっていた。6気筒モデルは1530ドルであった。

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W.P.クライスラー博物館に展示されている1950年型ジープスターの後ろ姿。4気筒モデルだが、初期の個体でエンジンはLヘッドの63馬力を積んでいる。価格はLヘッド63馬力モデルが1495ドル、Fヘッド72馬力「ハリケーン」エンジン搭載モデルは1390ドルに値下げされていた。

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1950年型ジープスターでグリルのデザインが変更され、V型になって5本のクロームの横棒が追加されている。このカタログはセカンドシリーズのもので4気筒Fヘッド72馬力と新しい2.6ℓ直列6気筒Lヘッド75馬力「ライトニング」エンジン搭載モデルがラインアップされている。6気筒モデルの価格は1490ドルで4気筒モデルより100ドル高かった。ジープスターは1950年型が最後であったが、若干売れ残ったクルマが1951年型として登録されている。3年間に生産されたジープスターは2万台弱で、この内約2400台が6気筒モデルであった。
 1950年6月、朝鮮戦争勃発に伴い軍用ジープの生産と、1952年1月に発表される戦後初の本格的乗用車エアロ・ウイリス(Aero Willys)の準備に集中していたのであろう。エアロ・ウイリスについてはいずれ紹介したい。

◇三菱のジープ
 戦場で大活躍したジープであったが、終戦と同時に販路を民需に求めなければならなくなったウイリス・オーバーランド社は、1949年に倉敷レイヨンと共同出資で倉敷フレーザーモータース社を設立し、駐留軍人、軍属、在留外国人向けに輸入販売を行なっていた。
 一方、1950年8月、わが国に警察予備隊(1952年10月、保安隊に編成替え。現自衛隊)が設置され、その装備にジープを採用することになり、また、敗戦後の再建活動が活発になると、多用途に使えるジープは魅力的な存在となった。しかし、当時の日本は外貨も乏しく、国内産業保護政策等の事情があり、完成品を多量に輸入することはできなかった。
 第一段階は、倉敷フレーザーモータース社が輸入する部品を新三菱重工業(戦前からの三菱重工業が財閥解体と過度経済力集中排除法〈集排法〉により、1950年1月、3社に分割されたうちの一つ中日本重工業が、1952年5月に財閥商号の使用禁止解除を受けて新三菱重工業と改称した。その後、1964年6月に分割されていた3重工が合併して三菱重工業となり、1970年4月に自動車部門が分離・独立して三菱自動車工業が誕生した)名古屋製作所大江工場で組み立てるという、ノックダウン方式による組立下請け契約が1952年7月に成立し、1953年2月にCJ-3A型第1号車を完成。この方式で組み立てたのは林野庁向けに54台(J1型と称し6V電装)と保安隊向け500台(J2型と称し12V電装)であった。
 その間に完全国産化の準備を進め、1953年9月、ウイリス・オーバーランド輸出会社とジープを中心とする4輪駆動自動車に関する技術援助契約および販売契約を締結、正式に政府認可を得た。
 1953年7月以降の生産車にはFヘッド70馬力の「ハリケーン」エンジンが採用されてCJ-3B型となり、1954年12月には京都製作所で国産エンジン1号機JH4型を完成した。このエンジンは三菱のKE31型ディーゼル、コルト1000用KE43型、デボネア用KE64型エンジンなどへ発展する技術的基礎となった。
 1956年には国産化を果たし、その後、三菱ジープは進化しながら生産が続けられたが、1998年6月に限定販売されたジープ最終生産記念車を最後に終了。生産台数は45年間に約20.3万台に達している。

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1954年4月、東京・日比谷公園で開催された第1回全日本自動車ショウで配布されたジープCJ-3B-J3型のチラシ。

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1955年に発行されたCJ-3B-J3型のカタログ。民間用ジープには荷物の積み下ろし、後部への乗降のためにテールゲートが付けられたため、初期のモデルではスペアタイヤがボディーサイドに移されていた。2.2ℓの直列4気筒Fヘッド70馬力を積み、仕様車はインチ・ポンドで記載されているが、メートル換算すると全長3388mm、全幅1688mm、ホイールベース2032mm、車両重量1096kgでした。

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これも1955年に発行されたカタログ。「ジープはあなたのお嫁さん。丈夫で 元気で 働き者で おまけに お化粧が 大きらい!」のコピーは、当時の世俗をよく表しているが、いま使用したら物議を醸すであろう。クルマは新しく加わったCJ-3B-J10型で、J3型とホイールベースは同じだが、全長を188mm伸ばして乗車定員を4名から6名に増やしたモデル。

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上の2枚は1956年に発売されたジープデリバリワゴンJ11型。70馬力の「ハリケーン」エンジンを積み、A、B、Cの3型式あり、AおよびB型はホイールベース2032mm、全長3728mm、全幅1570mm、全高1870mm。違いはA型のリアドアは上下開き、B型は左右開きでリアバンパーが2分割されており、中央にパワーテイクオフあるいはトレーラー用フックを取り付け可能。C型はホイールベース2532mm、全長4297mm、全幅1600mm、全高1850mm。リアドアは上下開き。まだフロントグリル上部の車名はWILLYSのままで、階段を駆け上がるJ11型の後方には国会議事堂が高くそびえ、付近に高いビルは見当たらない。

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ジープの多用途性が認められ、いろいろな架装が施されたが、これはCJ-3B-J7型に大阪の森田喞筒工業(喞筒:そくとう=ポンプ)が架装した森田式ウイリス・ジープ消防車のカタログ。

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上の3枚は1956年6月、名古屋中重自動車株式会社が発行した冊子。ジープの有用性を少しでもひろめたい目的で編集したと記され、その中に仙台市の堀田自動車株式会社(現・東北三菱自動車販売株式会社)提供の興味深い比較表が載っていたので紹介する。ひとつは馬車との比較で、もうひとつはジープと乗用車を花嫁候補と仮定して比べている。当時の日本が馬車からクルマへの移行期であったこと、まだ乗用車がぜいたく品であったことを象徴するおもしろい史料だと思う。
 表にある「石(こく)」は木材の取引単位で、1石=10尺×1尺×1尺=3.03m×0.303m×0.303m=0.278㎥となります。

 最後に「ジープ」の名前の由来について、最初に使ったのはウイリス・オーバーランド社のテストドライバーが陸軍の試験場にプロトタイプを搬入したとき、フォード製との識別のためにニックネームとして「ジープ」と呼んだとか、陸軍1/4トン偵察車の呼称「General Purpose(多目的)」の頭文字GP(ジーピー)から転じたとか、1936年に発刊された人気漫画「ポパイ」に登場する異次元から来た腕白なキャラクターで、どこにでも行けて、どんな困難でも乗り越えていく、そんなパワーの持ち主である、犬に似た「ユージン・ザ・ジープ(Eugene the Jeep)」に由来するとか、いろいろありますが確証はどうも無いようです。いずれにしても「ジープ」は1950年に世界的に商標登録されました。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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