三樹書房
トップページヘ
catalog
第18回 アメリカ車 :序章(6)1929~1937年コード・フロントドライブ
2013.5. 7

 戦後のアメリカ車にスポットライトを当てて書く予定であったが、その前に戦前のアメリカ車の流れを簡単におさらいするつもりで序章を書いてきたが、なんとなく深みにはまりそうなので今回を最後に序章を卒業したい。多気筒競争のキャディラック、マーモンの16気筒をはじめ、パッカード、リンカーン、ピアスアロー、オーバーンなどの12気筒。リンカーンのKシリーズやゼファーなど紹介したいクルマはいくつかあるが、最後にコードのフロントドライブを取り上げることにした。

◆コードL-29
 ムーン社(Moon Motor Car Co.)のシカゴ地域ディストリビューターの副社長兼ゼネラルマネージャーであったエレット・ロバン・コード(Errett Lobban Cord)がオーバーン社(Auburn Automobile co.)の副社長兼ゼネラルマネージャーになったのは1924年、彼が30歳の時であった。早速、売れないで在庫していたオーバーン車を再塗装してニッケルプレートでアトラクティブなクルマに仕立て直して完売し、その後も業績を飛躍的に向上させ、2年後には社長に就任してしまう。1926年には倒産したデューセンバーグ社を買い取り、1928年にはエンジンサプライヤーのライカミング社(Lycoming Foundry and Machine Co.)を買収。さらに1929年にはスティンソン・エアクラフト(Stinson Aircraft)社、コロンビア・アクスル(Columbia Axle)社などを買収して傘下に収めている。
 E.L. コードも成功を収めると、自身の名を冠したクルマが欲しくなり、どうせ造るならユニークなものをと考え、たどり着いたのがフロントホイールドライブ(FF)であった。ハリー・ミラー(Harry Arminius Miller)というレースカー・コンストラクターが1924年にFFで低重心のレースカーを開発し、インディー500をはじめ各地のレースで優勝を繰り返した結果、FRを含めミラーが造ったレースカーが、インディー500のスターティンググリッドに並ぶクルマの70~85%を占めるほどの成功を収めていたのである。
 E.L. コードはミラーと5年間の契約を結び、給料と販売したクルマに対しロイヤルティーの支払いを約束した。そして開発のチーフエンジニアとして、以前フレッド・デューセンバーグ(Frederick Samuel Duesenberg)と仕事をしていたヴァン・ランスト(Cornelius W. Van Ranst)を採用した。最初の生産試作車が完成したのは1929年3月で、1931年12月の生産中止までに5010台が生産され、その内4429台が米国で販売され、残りは欧州を中心に輸出された。コードにとって不運だったのは、発売直後に発生した大恐慌が、3095~3295ドルと高価なコードの息の根を止めてしまったことであろう。
 オーバーンが大恐慌の影響を受けるのはやや遅く、1932年になってからであった。米国で最も安価なV12気筒エンジン車を提供しており、キャディラックが3495ドル、リンカーン4700ドル、ピアスアロー3450ドルの時代に、V12気筒のオーバーン2パッセンジャークーペはわずか975ドルで手に入れることができた。
 当時、米国の自動車メーカーはFF車にご執心であり、GMはミラーを2台購入し、創設者の息子クリフ・デュラント(Cliff Durant)が中心となってFFプロジェクトを進めていたし、パッカードはミラーとコンサルタント契約を結んでいた。コードを開発したヴァン・ランストは1930年1月にクライスラーに移籍してFFプログラムに参画するが、クライスラーがFFへの興味をなくすと、パッカードに移り、V12気筒FFの開発に参画している。ラックストン(Ruxton)は1929~30年にかけて450台ほどのFF車を生産している。
 米国におけるFFの歴史は1906年のクリスティー(Christie)に始まり、1916年ホーマー・ローリン(Homer Laughlin)、1917年フロントモービル(Frontmobile)など1930年以前に少なくとも10社ほどがFF車に挑戦しているが、いずれも試作の域を脱していなかった。

05-18-01 1929 L-29-1.jpg

1929年型(公式には1930年型)コード・フロントドライブL-29(L-29は公式な呼称ではないようだ)のカタログから、モデルはカブリオレ。L-29の生産は1929年6月から開始され、すぐに発表されたが、ディーラーでは在庫がないのを心配して、正式発表が8月最後の週になってしまった。同じ6月にラックストンがFF車を発表し「America's first front-drive car」をうたうが、実際に発売されたのは1930年6月であった。コード発表後3日間に150万人がショールームを訪れ、9月5日までに3000台を受注したと言う。3000ドル以上する高価格車がこれほど多く受注したのは当時の新記録であった。1929年10月以降、パリおよびロンドン・ショーをはじめ、欧州の主要都市で発表会を催し、1930年の前半6ヵ月間に、主にスタイリングの美しさに対して39の賞を受賞している。購入者のリストには日本のPrince Yamashina(山階宮武彦王:やましなのみや たけひこおう、ではないか?)の名前もあった。カブリオレの価格は3295ドルであった。

05-18-02 1929 L-29-2.jpg

1929年型のカタログに載ったセダン。ホイールベース3493mm、全高1549mm、トレッド前/後1473/1524mm、最小回転半径は7.01mと大きい。価格3095ドル。

05-18-03 1929 L-29-3.jpg

1929年型のカタログに掲載されたパワーユニット。ライカミング4897cc(298.6cu.in.)直列8気筒Lヘッド、圧縮比5.25、125馬力エンジンを前後逆に積み、その前にクラッチ、3速MT、ハイポイドギアのファイナルドライブが付く。ドライブシャフトの車輪側にはダブルカルダン式等速ジョイントが使用されていた。ファイナルドライブを最先端に置いたため前輪荷重が35%ほどしかなく、上り坂での急加速時には前輪が空転したと言われる。

05-18-04 1929 L-29-4.jpg

インストゥルメントパネルは金属製で、左側にスピードメーター、水温計、油圧計、点火時期調整、スロットルなどを配し、中央にはグローブボックス、イグニッションキー、ギアシフトレバー。そして右側にスターター、チョーク、マニフォールド温度調整、燃料計、エンジンオイルレベルゲージ、電流計などが配置されている。ファイナルドライブの左右にあるのはインボードタイプブレーキ。フロントサスペンションはダブル1/4楕円リーフ+ドディオン・チューブ状のパイプアクスルで構成される。リアは半楕円リーフ+Iビームアクスルのリジッド。冷却ファンの後ろにバッテリーが見えるが、1930年1月に右フェンダーに移されている。

05-18-05 1929 L-29-5.jpg

1931年型カタログでは2頁を使ってFFの良さをアピールしている。右下には飛行機でもプッシャー式から、プロペラを前につけたトラクター式(けん引式)が主流になっていると主張している。

05-18-06 1929 L-29-6.jpg

これは米国のナショナル・オートモビル・ミュージアム(旧ハーラーズ・コレクション)が所蔵する、1931年型コードL-29カブリオレ。隣の1953年型ハドソン・ジェットと比べると、コードの車高がいかに低いかが分かる。バンパーがフレームではなく、パイプ状のフロントアクスルに固定されているのに注目されたい。価格は2495ドルに値下げされていた。

◆コード810/812
 E.L. コードはL-29の生産中止後もFF車への情熱は持ち続け、やがて先進的なFF車の開発に挑戦し、完成したのが1936年型コード810、1937年型コード812であった。最初は大恐慌の影響で売れなくなったデューセンバーグの後継車として、グレードを落としたベイビー・デューセンバーグとして企画されたが、その後、コードとして開発されたと言われる。棺桶型のノーズを持った、当時としては超モダンなボディーデザインは、1929年に弱冠25歳でオーバーン社のチーフ・デザイナーに迎えられたゴードン・ビューリグ(Gordon Miller Buehrig)が担当した。彼は1933年にデューセンバーグの将来に見切りをつけたのか、以前短期間所属したGMに戻り、数か月後に再びオーバーン社に戻って、不朽の作品であるコード810を完成させた。しかし、1936年に再びオーバーン社を去っている。
 1935年11月、ニューヨークとシカゴ・オートショーに登場した1936年型コード810は1937年型で812となったが、1936年9月時点で在庫していた810はIDプレートを交換して812としている。812のシリアルナンバー1001~1525は810から812にプレートを付け替えたクルマで、1937年型として生産された812のシリアルナンバーは1526からスタートしている。810/812の正確な生産台数は不明であり、2972~2999台と推定されている。その内2320台が米国で登録されている。

05-18-07 1936 810-1.jpg

05-18-08 1936 810-1a.jpg

上の2枚は1936年型のカタログに載ったセダンで、ホイールベース3175mm(125in)、全長4966mm、全幅1803mm、全高1542mm、トレッド前/後1422/1549mm、最低地上高229mm。価格はウエストチェスター・セダン(Westchester Sedan)3715ドル、ビバリー・セダン(Beverly Sedan)3740ドルであった。室内の絵は上がウエストチェスター。下はビバリーのもので固定アームレストによってバケットシートを演出している。折り畳み式アームレスト、レザーシートも選択可能であった。1937年型812ビバリー・セダンにはバッスルバックトランクが標準装備され、全長は152mm伸ばされ5118mmとなり、価格は3927ドルとなった。さらに、ホイールベースを3353mm(132in)に延長したカスタム・ビバリー/ベルリーヌが追加設定されている。

05-18-09 1936 810-2.jpg

1936年型コード810コンバーティブル・フェートンセダン。車高はセダンより2インチ低い1491mm。価格は2195ドル。1937年型812は2695ドルで、スーパーチャージャー付は3060ドルであった。

05-18-10 1936 810-3.jpg

05-18-11 1936 810-3a.jpg

上の2枚は1936年型コード810コンバーティブル・クーペ。米国初の畳んだ幌が完全にコンシールドされるコンバーティブルであった。この絵ではランブルシートが装着されているが、ごく初期の生産車に限られ、ランブルシートは廃止されてモデル名も「コード・スポーツマン」に変更された。価格は2145ドル。1937年型は2595ドルで、スーパーチャージャー付きは3010ドルであった。

05-18-12 1936 810-4 engine.jpg

コード810のパワーユニット。エンジンはアルミのシリンダーヘッドを持つ、ライカミング製4733cc V型8気筒Lヘッド125馬力で、4速MTの間にファイナルドライブを置き、前後輪の重量配分を50:50に近づけている。トランスミッションの上に載っているのは、ベンディックス社が開発した電気式シフター「Finger-Tip Gear Control」のバキュームシリンダーで、1935年型ハドソン(Hudson)とテラプレーン(Terraplane)にも採用されている。オイルパン横のスターターモーターの左に見えるボックスは、ベンディックス社製の自動スターター「Startix」で、イグニッションをONにすると自動的にエンジンを始動し、運転途中でエンストしても自動的に再スタートする仕掛けになっていた。

05-18-13 1936 810-5 F-sus.jpg

コード810のフロントサスペンション。トレーリング・リンク+横置きリーフスプリングによる独立懸架。リアは半楕円リーフ+アクスルチューブによるリジッド。ドライブシャフトのユニバーサルジョイントは当初ツェッパ(Rzeppa)式等速ジョイントが採用されたが、旋回時の音が激しく、1936年12月以降はベンディックス社製ワイス(Weiss)式等速ジョイントに変更されている。

05-18-14 1936 Mrs Cords car National Auto Muse.jpg

E.L. コードが使用した1936年型810リムジン。ボディー架装はルバロンが実施したもので、車高が高く、棺桶型ノーズは平凡なものに変えられて、ランニングボードも追加されている。特にミセス ヴァージニア(Virginia)・コードのお気に入りで、一度は手放したが、何年か後にハーラー・コレクションでレストアされたクルマに再会したときは泣いて喜んだと言われる。現在は米国のナショナル・オートモビル・ミュージアム(旧ハーラーズ・コレクション)が所蔵する。

05-18-15 1937 812.jpg

1936年11月、ニューヨーク・オートショーで発表された、コード812スーパーチャージドモデルの広告。広告に登場したアブ・ジェンキンス(David Abbott "Ab" Jenkins)は1934年にオーバーン社に採用されたエクスペリメンタル・エンジニアで、広告の中で本人も「私はレースドライバーではない。しかし、世界中のだれよりも多くの世界記録を持っている」と自己紹介している。やや力不足であったコード810/812であったが、シュバイツァー・カミンズ(Schwitzer-Cummins)社製スーパーチャージャーによって125馬力⇒170馬力に強化された。実馬力は最高195馬力に達したと言う。この写真では特徴のあるポンツーン型フェンダーの形状がよく分かる。スーパーチャージャー付き812のシリアルナンバーには、頭に3が付けられている。価格はモデルにより異なるが自然吸気モデルより365~515ドル高かった。

05-18-16 1937 812 Stevens Trophy.jpg

これは1937年9月16~17日に米国ユタ州、ボンネビルのソルトベッドに造られた1周10mile(16.1km)の周回コースで、アブ・ジェンキンスと2人のコドライバーによって、36のアメリカン・クローズドストックカークラス C(American Closed Stock Car Class C )および36のアンリミテッドクラス(Unlimited Class)レコードを樹立した、1937年型812スーパーチャージド・ビバリーセダンで当然ストックのままだが、フロントカバーにファイナルドライブとトランスミッションを冷却するためのルーバーが追加されている。このトライアルでの走行距離と時間は4000km、24時間25分28.120秒で、この間の平均速度の最高は108.34mph(174.36km/h)であった。残念ながらこのとき既にコードの生産は終了していた。クルマは1991年にレストアされ、米国ネバダ州リノにあるナショナル・オートモビル・ミュージアム(旧ハーラーズ・コレクション)が所蔵している。

05-18-17 1937 Cord 812 Conv Ford Muse.jpg

フォード博物館が所蔵する1937年型コード812コンバーティブル・フェートンセダンのリアビュー。価格は2695ドルで、スーパーチャージャー付きは3060ドルであった。

05-18-18 1937 Cord 812 S-C Gil muse.jpg

米国ミシガン州ヒッコリーコーナーズにある、ギルモア・カー・ミュージアム(Gilmore Car Museum)に展示されている1937年型コード812ビバリーセダン。これはスーパーチャージャー付きで2960ドル。スーパーチャージャー無しのモデルは2545ドルであった。コードが採用したリトラクタブル・ヘッドランプは世界初の試みであった。この博物館は広大な敷地に巨大な米国式納屋(American Barn)が点在し、CCCA(Classic Car Club of America)をはじめ、ピアスアロー、キャディラック・ラサールクラブ、タッカー、フランクリン、モデルAフォードなどのミュージアムが敷地内に点在する、クルマ好きにとってはたまらない場所。

05-18-19 1937 Cord 812 Coupe ACD muse.jpg

A-C-D(Auburn-Cord-Duesenberg)ミュージアムで見かけた、1937年型コード812ハードトップクーペ。リトラクタブル・ヘッドランプの代わりにクロームメッキされたオーバーンのランプをつけ、サイドルーバーの代わりにラサールのポートホールが付けられ、ハードトップにはレザーが貼られている。ハードトップはカスタムメイドだが、このほかにも2~3台存在するようだ。

05-18-20 1937 A-C-D HQ.jpg

米国インディアナ州コナースビルにある、かつてのオーバーン・オートモビル社の本社とショールーム。現在はA-C-Dミュージアムとなっている。

05-18-21 1938 Phantom Corsair 2.jpg

これは1938年にコード810/812のコンポーネンツを使って1台だけ造られたファントム・コルセア(Phantom Corsair)のカタログ。世界最大級の食品メーカーでトマトケチャップのパイオニア「ハインツ(H.J. Heinz)」一族の御曹司でカー・スタイリストであったラスト・ハインツ(Rust Heinz)がデザインし、コーチビルダーのボーマン&シュヴァルツ(Bohman & Schwartz)の協力を得て製作された。1939年のニューヨーク世界博に出展し、1万2500ドルで限定販売する予定であったが、1939年7月、彼は自動車事故によって25歳の若さで急逝してしまい、プロジェクトも中止となってしまった。アンダーフレームはクロームモリブデン鋼、アッパーフレームは航空機用合金のチューブで、これに合金のアウターパネルを取り付けている。エンジンはスーパーチャージャー付き192馬力を積み、最高速度は185km/hに達した。ドアはプッシュボタンにより電動で開閉するなど先進的な仕掛けがたっぷり採り入れられていた。塗色は黒であったが、見栄えを良くするため、また、このカタログおよび宣伝写真撮影のため、水性塗料で明るい色が上塗りされている。このカタログは2000年にニューヨーク州シラキュースのウォルター・ミラーの店で見つけたもので、150ドルと高かったが、3000ドルほど買い物をしたら10%ディスカウントしてくれたと記憶する。

05-18-22 1938 Phantom Corsair 4 model.jpg

これは英国のBrooklin Models製ダイキャストモデルで、小さいが実車をイメージできる雰囲気を醸し出している。最近1/24スケールも販売されている。余談だが、最近近くの「ジョイフル本田」が「大人のモデルカー」と称して、1/18と1/24スケールのダイキャストモデルを大量に仕入れて売り出した。バイヤーが明らかに高齢者をターゲットに仕入れたなと思える品揃えに、しばし釘付けになったが、そこに家内の「置き場所を考えて」の一言。素直に従ってあきらめることにした。

05-18-23 1938 Phatom Corsair 3.jpg

この写真を見ると、宣伝写真撮影のために明るい色に化粧直ししたのが理解できよう。米国ネバダ州リノにあるナショナル・オートモビル・ミュージアム(旧ハーラーズ・コレクション)に展示されているファントム・コルセア。ハインツの死後、何人かの手に渡り、改造されタンとクリームの2トーンに塗装されていたが、ハーラーズ・コレクションに救出され、ほぼオリジナルの状態に復元された。このクルマは1938年に制作された映画「The Young in Heart」に登場するが、外観を捉えたシーンはよいが、室内シーンは似ても似つかない代物で史料的価値はない。映画では右ハンドルで、インストゥルメントパネルもリアウインドーもまったく違う。実物は左ハンドルの6人乗りだが、前席に4人、後席に2人乗る。カタログによると後席はエンクローズド・ランブルシートとなっており、4+2のシートアレンジであった。前席は左右幅1715mmのベンチシートで、確かに広いが、米人4人はちょっときついと思う。

05-18-24 1939 Hupmobile Skylark.jpg

1939年型ハップモビル・スカイラーク(Hupmobile Skylark)のカタログ。キャッチコピーに「若者のクルマ」とあるように、ハップ・モーター社(Hupp Motor Car Corp.)がコードのボディープレス型を4万5000ドルで購入し、安価なクルマを提供しようという試み。デザインはリンカーン・ゼファーをデザインしたジョン・ジャーダ(John Tjaarda)。ホイールベースをコードより10in短い115in(2921mm)として、エンジンはハップの4018cc直列6気筒101馬力を積み、駆動方式は平凡なFRを採用。価格は1145ドル。ところが、ほとんどハンドメードで35台造ったところで資金が欠乏してストップ。救いの手を差し伸べたのがグラハム・ペイジ・モーターズ社(Graham-Paige Motors Corp.)で、ボディーの生産を受け持ち、その代りグラハムブランドでも販売するという契約を結んだ。しかし、1940年型291台、1941年型は1095ドルに値下げされたが僅か28台生産され、ハップ・モーター社は1940年7月、乗用車の生産を中止した。

05-18-25 1940 Graham Hollywood Convertible Postcard.jpg

1940年型グラハム・ハリウッド(Graham Hollywood)コンバーティブル・クーペの絵葉書。外観はハップと同じだが、エンジンはグラハムの3572cc直列6気筒93馬力とスーパーチャージャー付き120馬力が設定されていた。コンバーティブルはプロトタイプが2台造られただけで、実際に生産されたのはハップと同様の4ドアセダンであった。1941年型ではエンジンの出力が自然吸気95馬力、スーパーチャージャー付き124馬力に強化され、価格は968ドルと1065ドルであった。生産台数は1940年型、1941年型合わせて1859台。グラハム・ペイジ・モーターズ社は1940年9月に乗用車の生産を中止した。

このページのトップヘ
BACK NUMBER

第57回 AC & Shelby AC Cobra - 2

第56回 AC & Shelby AC Cobra - 1

第55回 ナッシュヒーレー&ハドソンイタリア

第54回 東京オートサロン2017

第53回 リンカーン コンチネンタル

第52回 2016トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑

第51回 クライスラー300 レターシリーズ – その2

第50回 Automobile Council 2016 – そのⅡ

第49回 Automobile Council 2016

第48回 クライスラー300 レターシリーズ – Ⅰ

第47回 フォードランチェロ

第46回 1954年カイザー・ダーリン161

第45回 1950年代ポンティアックのドリームカー

第44回 1950年代オールズモビルのドリームカー

第43回 1950年代ビュイックのドリームカー

第42回 1950年代キャディラックのドリームカー

第41回 クラシックカー・フェスティバル

第40回 アメリカの初期SUV/MPV

第39回 メトロポリタン

第38回 フォード サンダーバード

第37回 シボレーコルベット(第1世代 – 2/2)

第36回 シボレーコルベット(第1世代 – 1/2)

第35回 1950年代のアメリカンドリームカー(4)

第34回 1950年代のアメリカンドリームカー(3)

第33回 1950年代のアメリカンドリームカー(2)

第32回 1950年代のアメリカンドリームカー(1)

第31回 1940年代のアメリカンドリームカー

第30回 戦後のアメリカ車 - 11 :1940年代の新型車(フォード)

第29回 戦後のアメリカ車 - 10 :1940年代の新型車(GM)

第28回 戦後のアメリカ車 - 9 :1940年代の新型車(パッカード)

第27回 戦後のアメリカ車 - 8 :1940年代の新型車(タッカー)

第26回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ナッシュ)

第25回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ハドソン)

第24回 戦後のアメリカ車 - 6 :1940年代の新型車(クライスラー・タウン&カントリー)

第23回 戦後のアメリカ車 - 5 :1940年代の新型車(クロスレイ)

第22回 戦後のアメリカ車 - 4 :1940年代の新型車(カイザー/フレーザー)

第21回 戦後のアメリカ車 - 3 :1940年代の新型車(スチュードベーカー)

第20回 戦後のアメリカ車 - 2 :1940年代の新型車(ウイリス/ジープ)

第19回 戦後のアメリカ車 - 1 :1946年型の登場(乗用車の生産再開)

第18回 アメリカ車 :序章(6)1929~1937年コード・フロントドライブ

第17回 アメリカ車 :序章(5)1934~37年クライスラー・エアフロー

第16回 アメリカ車:序章(4)1924~1929年

第15回 アメリカ車 :序章(3)1917~1923年

第14回 アメリカ車 :序章(2)フォード モデルT(1908年~1927年)

第13回 アメリカ車 :序章(1) 登場~1919年

第12回 AF+VKの世界:1959~1971年型ポンティアックのカタログ

第11回 コペンの屋根:リトラクタブルハードトップ

第10回 スクリーンで演技するクルマたち

第9回 シトロエンDSのこと

第8回 よみがえった『力道山のロールスロイス』

第7回 メルセデス・ベンツ300SL - SLクラスの60周年を祝して

第6回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その2)

第5回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その1)

第4回 短命だった1942年型アメリカ車のカタログ

第3回 「ラビット」から「スバル」へ - スバル最初の軽乗用車と小型乗用車

第2回 「キ77」と電気自動車「たま」。そして「日産リーフ」

第1回 自動車カタログ収集ことはじめ

執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

関連書籍
ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜
三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー
トップページヘ