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第15回 アメリカ車 :序章(3)1917~1923年
2013.1.28

 1917年4月、米国は第一次世界大戦に参戦したが、翌年11月に戦争が終結すると人々は緊張から解き放たれ、やがて大衆文化が花開く。スペインとフランスの植民地であったルイジアナ州の港町ニューオーリンズの黒人ブラスバンドから生まれたジャズは白人社会にも流行しはじめ、1922年にシカゴのコルネット奏者キング・ジョー・オリバーのバンドにコルネット奏者サッチモ(ルイ・アームストロングの愛称)が参加、二人の即興演奏は聴衆を熱狂させ、米国を「ジャズ・エイジ」の絶頂期へと導く。女性は開放的となり、短いスカートに断髪、濃い口紅のフラッパー(おてんば娘)がジャズのリズムに合わせて「チャールストン」を踊り狂った。私もダンスに夢中だった20代のころ踊ったが、既に主流は「ジルバ」に代わっていた。
 1920年1月、禁酒法が施行されると、アル・カポネなど組織的なギャング団が街に進出、賭博や密造酒の販売を取り仕切るようになった。彼らの縄張りをめぐる抗争は市民にとって恐怖の存在であり、それを取り締まったFBIの特別捜査官のボス、エリオット・ネスが実際の体験を綴った自叙伝をもとに、当時の暗黒街が生々しく描かれたテレビ・プログラム「アンタッチャブル」は、私を毎週テレビの前に釘付けにしたのを思い出す。
 米国の「ローリングトゥエンティーズ(Roaring Twenties):狂騒(あるいは狂乱)の20年代」と呼ばれる時代の始まりであった。

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1916~21年に生産されたフランクリン・シリーズ9のうち、これは1917年型のカタログで、モデルは4パッセンジャーロードスター。3264cc空冷直列6気筒OHV 25.3馬力エンジンに選択歯車式3速変速機を積む。ボディー、フード、フェンダー(カタログにはマッドガードとある)はアルミ製。このモデルの塗色はオリーブブラウンのみで、価格は1950ドル(FOB シラキュース、N.Y.)。空冷エンジンでラジエーターが無いのでスロープノーズと称する独特の顔立ちをしているが、不評であったため1922年に発売されたシリーズ10以降はダミーのラジエーターグリルが付けられた。フランクリンは1902年から販売開始したが、1934年の生産終了まで一貫して空冷エンジンにこだわったメーカーであった。米国初の4気筒エンジン量産メーカーであり、しかも初期には冷却のため横置きに搭載されていた。1905年には米国初の実用的な6気筒エンジンを量産開始している。
 フランクリンは操業開始から1928年まで軽量化のため、フレームに木の積層材を使用していた。先進的なクルマで、1907年には点火時期の自動進角装置を採用。1910年には縦型のシリンダー冷却フィンとフライホイールファンによる強制空冷システム、1912年には強制循環潤滑システムを採用した。
トヨタ博物館にはこれと同じモデルの1918年型が所蔵されている。

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これは1917年型フランクリン・ブローアムで価格は2800ドル。後方にセダン(センタードア)2850ドルが見える。この他にツーリングカー(1950ドル)、ランアバウト(1900ドル)、カブリオレ(2750ドル)、タウンカー(3100ドル)、リムジン(3100ドル)がカタログにラインアップされていた。

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1928年型フランクリン・エアマンリミテッド・ビクトリアブローアム。キャッチコピーは「世界最速のロードカー」と謳い、キャノンボール(Cannon Ball)レースでストック状態のフランクリン・セダンがロサンゼルス~ニューヨーク往復1万770kmを6日半で走破したとある。1920年代のフランクリンは毎年1万台をコンスタントに売り、1929年には約1万5000台に達していた。しかし、1929年の大恐慌のあおりを受け、1930年7511台、1931年には3881台に落ち込み、1934年に倒産してしまった。

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1917年型オーバーランド・ツーリングセダン(スプリングフィールド タイプ)の広告。注目すべきはハードトップが採用されていることである。夏はピラーレスのハードトップとなり、冬あるいは雨が降った時などはピラーをはめ、窓を上げれば完全なクローズドボディーとすることができるとある。
 オーバーランドは1908年にジョン・ウイリス(John Willys)がスタンダード・ホイール社のオーバーランド・オートモティブ部門を買収して製造開始したクルマで、1912年にウイリス・オーバーランド・モーター社(Willys-Overland Motor Co.)に社名変更された。1915年からはウイリスの車名でも販売を開始し、オーバーランドは1926年に生産を終了している。ウイリス・オーバーランド・モーター社は1912~18年までの7年間、フォードに次ぐ米国第2位の生産台数をキープしていたのである。1912年型はフォード約7.8万台に対しウイリス約2.9万台、1918年型はフォード約43.6万台に対しウイリス約8.9万台であった。ウイリスは第二次世界大戦で活躍するジープの生産で知られる。

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1920年型レキシントン・ミニットマン・シックス(Lexington Minute Man Six)。1917年型ではハードトップモデルはオーバーランドの他に、アレン(Allen)、コール(Cole)、プレミアー(Premier)などにも設定されていたが、1918年以降ではここに載せた1920年型レキシントンのほかには見当たらない。メーカーが期待したほど顧客には受け入れられなかったと推察する。ピラーの脱着はだれにでも1分でできると記されたものがある一方、3分でできると記されたものもあり、実際にはそれほど簡単ではなく、わずらわしさが敬遠されたのではないだろうか。ハードトップが脚光を浴びるのは1949-1/2年型GMのキャディラック、ビュイック、オールズモビルに採用されるまで待たねばならなかった。

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デューセンバーグ最初の乗用車プロトタイプは1920年11月にニューヨークのホテル・コモドールで開催されたオートモビル・サロンで未塗装のまま展示された。これは、翌年11月のニューヨーク・サロンに生産型が2台展示された際配布された1922年型デューセンバーグ・ストレート8(モデルA)の仮カタログではないかと思われる。「路上にあるどのクルマより上級で、良く走りそして長持ちするように造った」のコピーどおり、6500~8800ドルのプライスタグが付く高級車であった。ホイールベース3404mmのシャシーに、4264cc直列8気筒OHC 90~100馬力エンジンに3速変速機を積む。アメリカ車で初めて4輪油圧ブレーキが装着された。このモデルは4パッセンジャー・4ドアクーペで、ボディー架装はミルスポー&アイリッシュ(Millspaugh & Irish)で、価格は7800ドルであった。デューセンバーグは自社でのボディー架装は行なわず、カタログモデルもすべてコーチビルダーによって架装されていた。
 デューセンバーグは1876年12月、ドイツ、ブレーメンの100kmほど南のリッペ(Lippe)で生まれたフレッド(Frederick Samuel Duesenberg)と弟オーガスト(August Samuel Duesenberg)のデューセンバーグ兄弟によって造られたクルマである。1885年ころ母親に連れられて米国アイオワ州ロックフォードに移住し、10年ほどランブラー(Rambler)社でレース用自転車を造りながら、自動車製造を学んだ。1905年からメイソン(Mason)社でレースカーの開発に参画。1913年にミネソタ州セントポールに初めてデューセンバーグ・モーター社(Duesenberg Motor Co.)が設立され、自動車用エンジン、舶用エンジン、航空機用エンジンなどの生産を行なっていた。1917年にはDuesenberg Motors Corp.に改組、ニュージャージー州エリザベスに巨大な工場を建設、第一次世界大戦に参戦した米国政府の要請でブガッティの24.3ℓ並列ブロック16気筒410馬力エンジン2000台生産の契約を結ぶが、最初のロットの60台も造らぬうちに戦争が終結し、契約はキャンセルされてしまった。やがて会社はウイリス社(Willys Corp.)と一部はロチェスター・モーターズ社(Rochester Motors Co.)に売却された。
 このカタログにあるDuesenberg Automobile & Co., Inc.は1920年3月に設立された会社で、兄のフレッドは技術担当副社長、弟のオーガストはアシスタント・チーフエンジニアの肩書で雇用契約を結び、給料を受け取り、他にデューセンバーグの名前、パテント、デザインなどの使用に対するロイヤルティーを受け取る契約であった。

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これはフリートウッド(Fleetwood)製ボディーを持つ5パッセンジャー・タウンブローアムで、カタログモデルでは最も高価な8800ドルであった。この頁にはカタログにラインアップされていた8モデルの価格(FOB インディアナポリス)が記載されている。しかし、モデルAは経営のまずさもありあまり売れず、1922年には約150台(内110台はボディー付きで、残りはベアシャシーで出荷された)生産されたが、1923~24年には僅か25台であった。しかし、1925年にフレッドが社長に就任、社名もDuesenberg Motor Co.に改称し、1925年、1926年には年間100台のペースに戻したが、旧態化したクルマを改良する資金もなく苦境に陥っているとき、救いの手を差し伸べたのがオーバーン・オートモビル社(Auburn Automobile Co.)の社長に就任して間もないエレット・ロバン・コード(Errett Lobban Cord)であった。彼はスーパーカーを造ることを夢見ていたし、永い間レースで優秀な成績を収め、1924年、1925年のインディアナポリス500レースで優勝したデューセンバーグの名声に惚れ、そして何よりも安く、たった100万ドルで買収できたのである。
 モデルAを改良したモデルXが試作されたが、これは量産されず、コードはまったく新しいクルマの設計をフレッドに要請し、完成したのが1928年秋に発表され、1929年春発売されたモデルJである。

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これはごく初期の1929年デューセンバーグ モデルJでボディーはダーハム(Derham Body Co., Inc.)製。バンパー形状は量産モデルと異なる。直立したV型のフロントウインドーと前開きの前後ドアを持つ。初期のモデルにはラジエーターマスコット、トランペットホーンは付いていなかった。ホイールベースは3899mmのロングと3620mmのショートが用意され、6888cc直列8気筒DOHC32バルブ265馬力エンジン+3速変速機を積み、シャシーの価格が8500ドルでボディー架装を含めるとおよそ1万1000~1万4000ドルであった。ダーハムの他にもマーフィー(Walter M. Murphy Co.)、ルバロン(LeBaron Carrossiers)、ウイロビー(Willoughby Co.)、ロールストン(Rollston/Rollson)などのコーチビルダーが競って架装し、高価なものは2万5000ドルに達したという。コードはモデルJの需要予測を500台として生産計画を立てていたが、1929年の大恐慌により販売が落ち込み、実際に生産されたのは約480台で、その3/4は大恐慌の影響が深刻になる前の最初の3年間に販売されている。1937年デューセンバーグは生産を終了したが、最後のロールソン・ボディーのデューセンバーグが顧客に届けられたのは1940年の初めであったという。

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「威厳のあるシンプルさを少しも犠牲にせずにオリジナリティを表現するのは、すべてのダーハム・カスタムボディーの際立った特徴であります」と訴える1922年のダーハム社の広告。1920年代の米国ではコーチビルダーが活躍し、顧客の好みに応じた魅力的なボディー架装を行なっていた。のちにGMのカタログモデルを多く手掛けるフリートウッド(Fleetwood Metal Body Co.)をはじめ、ブリュースター(Brewster & Co.)、ブラン(Brunn & Co.)など主要なビルダーだけでも20社近くが腕を競っていた。ダーハムは1950年代まで量産車にちょっと手を加えて魅力的なカスタマイズを提案していたし、1953年型のパッカードのカタログモデルにもCustom Formal Sedan by Derhamとして登場していた。

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上の2枚は1923年1月に登場した1923年型シボレーに登場した空冷エンジン車のシャシーとエンジン。「カッパー・クールド・モーター(Copper-Cooled Motor)」と称し、シリンダーの外周に銅のフィンを取り付け、エンジン外側を鉄板で覆い、前方下側から冷気を吸い、前方上部に取り付けたシロッコファンで熱気を吸出し、エンジンフードにあけたルーバーから熱気を放出するシステムだが、オーバーヒートの問題が解決できず、500台生産されたが、販売されたのは僅か100台であった。エンジン後部のフライホイールの上に立つのはスターターモーター。車両重量は水冷エンジン車に比べ98kg軽いが、価格は200ドルも高く、最も安価な5人乗りツーリングでは水冷エンジン車の495ドルに対し、空冷エンジン車は695ドルと高価であった。

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「働く女性のためのクルマ」のコピーを付けて、働く女性をターゲットにした1923年型シボレーの広告。1920年代のはじめは米国でもまだまだ女性の社会進出は少なかったが、クローズドボディーの電気自動車がお気に入りだった女性たちを、ガソリン車に誘導しようという試みであろう。
 シボレーの生産は1921年に前年の半分、約7.6万台まで落ち込んだため、1922年にドラスティックな値下げが行なわれ、価格帯は1921年の795~2075ドルから510~1395ドルとなった。その後、1922年24.4万台、1923年48.1万台、1924年30.8万台、1925年51.9万台と推移している。

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上の3枚は1923年に発行されたジョーダン(Jordan)の広告だが、従来の広告がクルマの外観がはっきり分かるイラストに特徴、仕様、価格などをちりばめたものであったのに対し、まったく異なる斬新な方法で広告展開を行なった。その中でも最も有名なのが一番下のジョーダン・プレイボーイ(Jordan Playboy)ロードスターの広告「ララミーの西のどこかに(Somewhere west of Laramie・・・)」であろう。「ララミーの西のどこかに、投げ縄を振り回して野生馬をならしている若い女がいる。・・・実を言うと、ジョーダン・プレイボーイは彼女のために造られたのだ」という調子。いまでは当たり前になった、塗色にしゃれた名前を付けたのもジョーダン。たとえばBriarcliff Green、Copenhagen Blue、Burgundy Old Wineなどなど。また、社員持ち株制度を導入した点でもジョーダンはパイオニアであった。ホイールベース3048mmのシャシーにコンチネンタル製4028cc直列6気筒26.3馬力エンジン+3速変速機を積み、価格は1850ドルであった。
 ジョーダンは1916年にエドワードS. "ネッド" ジョーダン(Edward S. "Ned" Jordan)によって設立された会社で、独立前はランブラーとジェフェリーを生産していたトーマス B. ジェフェリー社(Thomas B. Jeffery Co.)の広告、広報、販売の部長を務めていた。革新的な宣伝効果もあり1926年には1万1000台の販売記録を達成するが、1926年に8気筒エンジンを積んだ小型高級車に路線変更したのが裏目に出て大量の在庫を抱え、折からの大恐慌により1931年に倒産してしまった。

 今回は1923年という半端なところで終えるが、当初1929年まで載せるつもりであったが、あまりに重くなりすぎたので、2回に分けることにした。次回は1924~29年でまとめる予定です。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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