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第5回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その1)
2012.3.27

 1945年8月、敗戦を迎えGHQ(連合国軍総司令部)の支配下に置かれた日本は、乗用車の生産も禁止あるいは制限を受けてきたが、1949年10月に乗用車の生産制限が解除され、1952年4月には対日講和条約が批准され、日本は6年8ヵ月ぶりに独立を回復した。   
 しかし、戦前から日本の自動車工業は商用車主体に進められており、乗用車の生産に関しては欧米に比べ著しく遅れていた。1950年には当時の一万田日銀総裁が自動車工業育成不要論を述べるほど、輸入車の存在は大きく、1953年には国産車の生産台数8789台に対し輸入車は譲り受け中古車を含め1万8637台で、乗用車の輸入車比率は68%に達していた。しかし、国産乗用車を育成しようとする動きは政・財界にも強く、通産省は国内市場保護の立場から、外国の技術を導入するため、欧米車の輸入組立、国産化を優先させ、完成車の輸入は極力制限する方針が決定された。当時の官僚は国家のためにはつらつと仕事をしていたのである。
 この方針を受けて日産自動車は英国オースチン、いすゞ自動車は英国ヒルマン、日野ヂーゼル工業は仏国ルノー、そして三菱は米国カイザー・フレーザーとジープをKD(ノックダウン)生産から国産化へと転換する過程で技術を吸収すると同時に一層の磨きをかけていったのである。現在の日本の自動車工業の姿からは想像できないかも知れぬが、60年ほど前のはなしである。
 今回は三菱と日野ヂーゼルについて紹介する。

◆ ヘンリーJ
 1950年9月、米国のカイザー・フレーザー輸出会社(Kaiser-Frazer Export Corp.)と提携して乗用車「ヘンリーJ」のノックダウン生産を東日本重工業(1952年6月、三菱日本重工業に改称)の川崎製作所で行なうこととなり、1951年6月、1951年型2ドアセダン第1号車が完成した。そして販売会社として、1951年1月15日、東日本重工業の全額出資による東日本カイザー・フレーザー株式会社を新設した。1952年8月からは前後のデザインを改良し、デラックス車には6気筒エンジンを搭載した1952年型を発売した。
 当初の計画はノックダウンにより年3000台を生産し、500台は国内向けとし、残りはフィリピン、タイ、香港等のアジア諸国ならびにアルゼンチン、ブラジル、ウルグァイ等の南米諸国に輸出するという、カイザー・フレーザー社の海外拠点の一つと位置づけられていた。しかし、販売はまったく振るわず、通産省の許可を得て国内日本人向けの販売も試みたが、当時個人需要は少なく、法人需要が中心であり、2ドアで左ハンドルであることが難点であった。後に右ハンドル車も生産し、4ドア車も数台試作したが、1953年3月、カイザー・フレーザー社がウイリス・オーバーランド社と合併し、ヘンリーJの生産を中止したため、提携は解消した。東日本カイザー・フレーザー株式会社は1953年4月、三菱ふそう自動車に吸収合併された。生産台数は沖縄、タイなどへの輸出185台を含め509台であった。約2年間ではあったが、戦後日本の外車組立販売の先駆けとなった。
 ヘンリーJの組立に際しては、米国からスポット溶接機を導入、塗装は赤外線焼付けを行なうなど、当時最先端の生産技術を採用していたので、同業他社から多数の見学者が訪れたと言われる。
 ヘンリーJの米国での生産台数は1951~54年型まで合計12万3305台で、さらに、シアーズ&ローバック社からグリルデザインを多少変えて「オールステート(Allstate)」の名前で1952、53年型が2363台通信販売されている。

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日本で発行された1951年型カイザーの英語版カタログで、ヘンリーJとフルサイズのカイザーが併記されている。ヘンリーJのエンジンは80hp Lヘッドと記されているが。これは6気筒エンジンの出力であり、1951年型としてKD生産されたのは4気筒モデルのみであり68hpが正しい。

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これは米国で発行されたカタログ。サイズは全長4430mm、全幅1780mm、全高1572mm、ホイールベース2540mm、エンジンはウイリス製で、2.2ℓ直列4気筒Lヘッド68ps/4000rpmと2.6ℓ直列6気筒Lヘッド80ps/3800rpmがあり、3速マニュアルトランスミッションが積まれていた。オプションでオーバードライブ付きも選択できた。

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上の2枚は米国で発行された1952年型のカタログ。マイナーチェンジでフロントグリル、テールランプなどが変更され、全長が6気筒モデルで+196mmの4626mm、4気筒モデルで+186mmの4616mmとなった。イラストではトランクリッドをあげて荷物を積み込んでいるが、トランクリッド付きは1952年型の途中までオプションで、標準は室内から荷物の出し入れを行なった。このイラストは、のちに背景を担当するヴァン・カウフマン(Van Kaufman)との共同作業でポンティアック1959年型から71年型まで、13年間にわたってすばらしいイラストを展開するアーサー・フィッツパトリック(Arthur Fitzpatrick)の初期の作品である。

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1953年型ヘンリーJの日本語版カタログ。カタログというより1枚のシート。日本語版カラーカタログは見たことがなく、作成されなかったのではないかと推察する。ヘンリーJという車名は、共同設立者の一人ヘンリー・ジョン・カイザー(Henry John Kaiser)の名前から命名された。

◆ ジープ
 第二次世界大戦の戦場で大活躍したジープであったが、終戦と同時にその販路を民需に求めなければならなくなった専業メーカー、ウイリス・オーバーランド社は1949年に倉敷レイヨンとの共同出資による倉敷フレーザーモータースを設立し、駐留軍人、軍属、在留外国人向けに輸入販売を行なっていた。
 一方、1950年8月、わが国に警察予備隊(1952年10月、保安隊に編成替え)が設置され、その装備にジープを採用することになり、また、戦後の復興活動が活発になると、多用途に使えるジープは魅力的な存在であった。しかし、当時の日本は外貨も乏しく、国内産業保護政策等の事情があり、完成品を多量に輸入することはできず、先に記したように通産省の指導もあり、KD生産から国産化へと進んだのである。
 第一段階は、倉敷フレーザーモーター社がウイリス社から輸入する部品を新三菱重工業の名古屋製作所大江工場で組立てる、KD方式による組立下請け契約が1952年7月に成立、1953年2月にCJ3A型第1号車を完成した。この方式で組立てたのは林野庁向けに54台(J1型と称し、6V電装)、保安隊(J2型と称し、12V電装)に500台であった。
 その間に技術援助による完全国産化の準備を進め、1953年9月、ウイリス・オーバーランド輸出社とジープを中心とする4輪駆動自動車に関する技術援助契約および販売契約を締結、正式に政府認可を得た。
 1953年7月以降生産されたモデルは新しいFヘッド70馬力のハリケーン・エンジンに換装されたCJ3B型となった。三菱の形式名は民間用がJ3型(6V電装)、軍用化したものをJ4型(12V電装)と称した。
京都製作所ではハリケーン・エンジンの国産化に取り組み、1954年12月に第1号機を完成、型式名をJH4型として1955年から生産開始され、1956年1月にはウイリス社の型式認定試験にも合格した。このエンジンは三菱のKE31型ディーゼル、コルト1000用のKE43型、デボネア用KE64型エンジンなどへ発展の技術的基礎となっている。
 国産化が完了した1956年には約1900台、1957年には約4000台、1961年には9000台を突破しており、多用途性が認められるとともに、用途に対応するいろいろな仕様が要望されるようになり、積極的に開発を進めていった。基本型である4人乗り幌型、メタルドアとした7人乗り/9人乗り、メタルトップ、ワゴンスタイルのジープ、各タイプには右ハンドル、左ハンドル、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジン等を設定し、1964年5月末までに25型式が生産された。
 ジープの日本国内での販売は、新三菱重工業が製造権とともに販売権を取得した時点で、倉敷フレーザーモータースは解散し、新たに、新三菱重工業と倉敷レイヨンの共同出資による菱和自動車販売株式会社が1954年5月に設立され販売活動に当たった。同社は1963年5月、新三菱自動車販売株式会社と社名を改め、新三菱重工業が生産するすべての自動車を扱うようになった。
 1998年6月に限定販売されたジープ最終生産記念車を最後に、1953年発売から45年間に20万2765台を送り出し三菱ジープの生産は終了した。ちなみに、本家ウイリス・オーバーランド社が1941~1945年に生産した軍用ジープは約36万台、第2サプライヤーのフォード社から約28万台、合計約64万台が戦場に送り出されていた。

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1955年CJ3B-J10型のカタログ。「ジープはあなたのお嫁さん。丈夫で 元気で 働き者で おまけに お化粧が 大きらい!」のコピーは、いま使うには勇気が必要。全長3390mm、全幅1655mm、ホイールベース2032mm、車両重量1085kg、エンジンは2.2ℓ 76馬力を積む。

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上の3枚は1956年に名古屋中重自動車株式会社が発行した冊子「ジープはこうして役に立った」と、中に記載された、仙台市の堀田自動車株式会社提供の興味深い比較表。一つは林業における馬車とジープの仕事量の比較で、100石の材木を搬出するのに要する経費、所要日数、搬出回数を比較したもので、馬車だと10日、2万3000円掛かるが、ジープだとわずか1.5日、4120円で済むという夢のようなはなし。この頃、荷役も馬車からクルマへと移っていったのである。戦時中、私は東京・京橋にいたが、大通りの中央には馬の落し物がたくさんあり、背が伸びると言われて(もちろん迷信)よく踏んだものだ。育ち盛りの時期に食糧難であったにもかかわらず178cmまで成長したのは、そのおかげ?
もう一つの表はジープと乗用車を花嫁候補に例えて比較したもので、このころ乗用車は美人だが病気がち(故障が多い)な贅沢品だと、散々な評価を受けている。
ちなみに石(こく)というのは、材木の材積を表す単位で、1石は10尺×1尺×1尺=10立方尺=3.03m×0.303m×0.303m=0.278㎥となります。

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上の2枚は1956年に発売されたJ11型ジープ・デリバリ・ワゴンのカタログ。階段を駆け上がるワゴンの後方に見えるのは国会議事堂だが、まわりには高い建物は無く、現在とはまったく異次元の世界が広がっている。

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1998年6月に限定販売されたジープ最終生産記念車のカタログ。エンジンは4気筒2.7ℓインタークーラーターボディーゼル100ps/3300rpm、22.5kg-m/2000rpmを積む。1953年に発売されてから45年間造り続けた三菱ジープ最後のモデルであった。

◆ ルノー4CV
 大型バス、トラックメーカーであった日野ヂーゼル工業も、通産省の国産乗用車育成の方針を受け、乗用車の将来性に着目し、1952年7月にフランスのルノー公団とルノー4CVの製造・販売に関して提携し、翌1953年2月、組立ならびに国産化に関する7ヵ年(後に2回にわたって2年づつ、合計4年延長)の技術援助契約を締結した。そして、3月には1号車を完成し、4月には外車ディーラーの「中外ルノー」を吸収合併して「日野ルノー販売株式会社」を設立し販売を開始した。
 日産自動車のオースチン115万円、いすゞ自動車のヒルマン102.5万円に対し、ルノーの85万円は魅力的な価格であり、コンパクトで乗心地がよく、「コップ一杯で4キロメートル」のキャッチコピーも効力を発揮し、販売は好調であった。とりわけタクシー需要が多かったが、組立車の外貨割り当てで生産が規制され、需要に応えられない状態が続いた。その後、1957年9月には国産化を完了している。
 本家ルノーでは110万台以上生産して1961年7月に生産終了したが、日野では1963年まで生産が継続されていた。日野での生産台数は約3万5000台であった。
 ルノー4CVを国産化する過程で習得したノウハウを活かし、自社開発したコンテッサ900を1961年4月に発表。更に、1964年9月にはグレードアップしたコンテッサ1300を発表した。
 その後、1966年10月、トヨタ自動車工業、トヨタ自動車販売と日野自動車工業、日野自動車販売の4社業務提携を機に、コンテッサの生産は1967年に終了。大型バス、トラックの製造に集中するとともに、1968年には日野自動車工業の羽村工場に小型車専用工場を造り、トヨタハイラックス、パブリカバンの受託生産を開始した。

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1949年に発行された4CVのカタログ。初期の4CVは760cc 直列4気筒OHV 19ps/4000rpmエンジンを積むが、1951年にモータースポーツの750ccクラスへの参加を可能とするため、1951年1月発行のカタログではボアを0.5mm小さくして748cc 18ps/4000rpmとなった。4CVは軽快なフットワークを活かしてモンテカルロ・ラリーやルマン24時間レースをはじめ数多くのラリー、レースで活躍した。
1946年10月のパリ・モーターショーで発表され、翌年発売されるとコンパクトな車体に秘められた素晴らしい運動性能に魅了され、購入希望者が殺到して膨大なバックオーダーを抱える。フランスの単一車種として初めて100万台を超え、1961年7月の生産終了までに110万5547台生産された。
4CVを大量生産してルノー発展の原動力となったのが、電気と圧搾空気で制御するトランスファーマシンの発明である。ルノー製トランスファーマシンは世界中に輸出され、ルノーは生産技術面でも世界をリードしていたのだ。

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1953年に発売された日野ルノーのカタログ。「あなたはこんな車が欲しいと思いませんか!」のキャッチコピーと、「世界的優秀車ルノーは今や日野ヂーゼルの工場から安價大量に生み出されつつあります。」とある。748cc直列4気筒OHV 21ps/5000rpmエンジン+3速MTを積み、サイズは全長3610mm、全幅1430mm、全高1480mm、ホイールベース2100mm、車両重量560kgで、コイルスプリングによる4輪独立懸架であった。

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これは日野ルノーが配布した1954年型のカタログ。グリルがアルミの太い3本ひげになり、中央に丸いエンブレムが付く。カタログは日本語だがフランスで印刷されたもので、左上のモデルはスタンダードでひげが1本しかない。左下はカブリオレ、右下にはスライディングルーフが見えるが、これらのモデルを日野ルノーで販売していたのか定かではない。エンジンは21ps/4000rpmとなり、サイズは全長3845mm、全幅1435mm、全高1440mmとなった。特に全長は当時3.8mを境に最高速度が異なっていたため、わざわざ前後バンパーを伸ばして全長を稼いでいた。

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上の2枚は1955年型のカタログでエンブレムがダイヤモンド型に変更された。1954年4月、フランスで累積生産台数50万台達成したのを記念して、子供たちに改良点を探させる競技を行なった様子をカタログにしたもの。実際には数週間にわたって学校で4CVの新旧の写真を見比べて違いを探すという方法がとられたが、32万7000名の少年少女から回答が寄せられたという。

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1958年に発行された「24 heures à la régie renault(ルノーの24時間)」と称する冊子に紹介された、日野ヂーゼルにおける4CVのボディー組み立てラインの様子。「ルノー4CV発表披露会場」の看板はあとから書き込んだように見え違和感があるのだが? 作業者が素足に草履履きなのも時代を感じさせる。

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1957年後期からこのグリルに変更された。このグリルは日野ルノー独自のもので、フランス製ルノーには存在しない。当時の悪路にも、タクシーの酷使にも耐えうるように足回りの改良、強化が施されていた。このカタログの中身はすべて英文だが、なぜか表紙には「世界の経済車 日野ルノー」の日本語が入った珍しいもの。

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1962年6月に発行された、おそらく日野ルノー4CVの最終版カタログから。当時は日本の乗用車普及率は106人に1台(現在はほぼ2人に1台)で、クルマを所有することがステータスであった時代であり、フロントドアの巻き上げ式ウインドーやシートの改良などデラックス志向であった。一方フランスではシトロエン2CVに対抗するために光物を極力排除し、シートも2CV式のパイプに布を張ったハンモック式にした廉価版「アフェール(Affaires)」を設定するなどお国柄の違いが見られた。そして1963年8月、日野ルノーの生産終了が発表された。前月には名神高速道路(尼崎~栗東間)が開通し、翌1964年8月には東京の首都高速道路1号線と4号線、10月には東海道新幹線の東京~新大阪間が開通し、第18回オリンピック東京大会が開催された。

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上の2枚は1961年3月に発表された日野コンテッサ(伯爵夫人を意味するイタリア語)のカタログ。ルノー4CV国産化の過程で吸収したノウハウを基に独自開発したクルマで、893cc直列4気筒OHV 35ps/5000rpmエンジン+3速MTを積み、サイズは全長3795mm、全幅1475mm、全高1415mm、ホイールベース2150mm、車両重量720(デラックスは750)kgで、酷使にも十分耐えられるようリヤサスペンションにはラジアスアーム式が採用された。価格はスタンダード58.5万円、デラックス65.5万円であった。コンテッサ1300の発売に伴い1964年9月に生産を終えている。

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1964年8月に発表され、9月発売されたコンテッサ1300。ボディーデザインをイタリアのジョバンニ・ミケロッティに委託し、1251cc直列4気筒55ps/5000rpmエンジン+3速または4速MTを積み、サイズは全長4150mm、全幅1530mm、全高1390mm、ホイールベース2280mm、車両重量890(デラックスは940)kgで、価格はスタンダード56.0万円、デラックス65.0万円であった。1964年9月に開催された第11回東京モーターショーでは1300クーペも発表された。

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1962年のトリノ・モーターショーで発表されたコンテッサ900スプリント。1963年の第10回全日本自動車ショーにも出展された。デザインと架装はイタリアのミケロッティが担当し、エンジンはナルディのチューニングによって45ps/5000rpmに強化されている。サイズは全長3830mm、全幅1470mm、全高1200mm、ホイールベース2150mm、車両重量650kgで最高速度は140km/h。イタリアで生産し欧州で販売する計画であったが、現地との調整がつかず残念ながら実現しなかった。このクルマは「日野オートプラザ」で見ることができる。その後1300スプリントも造られたが公表はされなかった。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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