この本を見れば、現在では世界に誇る日本車も、終戦直後から昭和30年代初期にかけての黎明期にはまだまだ発展途上国にすぎなかった事が実感できます。「日産」ではブルーバード以前のモデルはスリフト・セダン、デラックス・セダン、コンバー・ピックアップ、110セダン、112セダン、210セダン、1000セダンが登場します。スポーツ・タイプでは1952年のダットサン・スポーツ(DC3)やフェアレディを名乗る前の1959年ダットサン・スポーツ(S211)も街で捕らえたナンバー付きの現役の姿を見ることが出来ます。そのほか戦前のダットサンの各種モデル(ロードスター、クーペ、フェートン、セダン、コンバーチブル・バン、スポーツカー風改造車)が網羅されています。また、合併前の「プリンス」では、そのルーツ「たま電気自動車」時代のたま・セニアから1955年プリンス・セダン(AISH-Ⅳ)、(AMSH-Ⅱ)に始まって、初代のスカイライン、グロリアや、スズカの第2回日本GPで今や伝説となっている生沢の「スカG」と式場の「ポルシェ」の死闘もばっちり入っています。「トヨタ」では戦後初の小型乗用車「トヨペットSAセダン」から始まり、「SBセダン」では関東自工製と中日本重工業製の異なるボディや、アメリカ車そっくりのSFセダン、トヨペット・スーパーを経て、トヨペット・クラウン/マスターに至る経過が良く判ります。「ホンダ」では最初の市販4輪車となったT360トラックから始まり、N360や、靴のようなZ、ライフ、ステップバン、バモス、などの軽自動車群、S500、S600、S600クーペ、S800、などのスポーツカー、F1(R273,RA300,RA302)、F2(ブラバム・ホンダ、1966年シーズン13戦中12連勝した史上最強の車)などのレーシングカーを見ることが出来ます。
珍車編では主に東ヨーロッパ諸国の車が登場します。当時のソ連、チェコスロバキア、ポーランドなどです。これらの国の自動車は一般の日本人が買うことは出来ない状況にありましたから、その大部分は青ナンバー(外交官用)で、各国の大使館が使用するため持ち込んだもので、台数も1台か2台しかなかった筈です。ですからこの場合の「珍車」は「形が面白い」のではなく、「希少価値のある車」という意味です。
平成18年3月28日 浅井貞彦
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1959 ダットサン・スポーツ(S211)
この車は僅か7ヵ月でモデル・チェンジし、それまでに20台しか作られていない。ニューモデルはこの車を左ハンドルにしてアメリカ輸出を目指したものだった。当時国内にはまだスポーツカーの需要が少なく、その上数少ないその購買層には外車崇拝の雰囲気が強くあって、国産のスポーツカーなんて、という風潮が一般的だったからだ。国産車の性能が「日本人」に認められるようになるのは、第1回・第2回の日本グランプリで大活躍した1963〜1964年以降の事だと思う。作られた20台の内何台かは、市場調査のためアメリカに輸出してしまったので、国内には僅かな数しかなかったはずだ。写真の車はその中の1台で、現役のナンバー付で右ハンドルだ。価格は東京渡し79万5千円で、ブルーバード1200は69万5千円だった。(1961年2月 港区六本木・俳優座劇場前にて) |
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1959−60 トヨペット・クラウン・カスタム/デラックス(輸出仕様)
僕が東京で車の写真を撮り続けていた頃、珍しい車の大部分は青ナンバーの大使館のものだった。その大使館の車の中で、はじめて出逢った国産車が写真のクラウンだった。青ナンバーがよく似合い、“国産車も中々やるワイ”と、とても嬉しかった。多分アメリカ大使館のものだろうが、このあと各国でも国産車のお買い上げが増えたから、珍しい車の写真を撮りたい僕の立場からすると、少々機会が減る事になってしまった。輸出仕様のこの車は左ハンドルで、モールドも国内向けとは異なるので資料が中々見つからず、アメリカ版の輸入車のリストでやっと確認できた。2台は後がデラックス、前がカスタムでホイールやモールドに差があるが、このグレードの違いは使う人の身分の違い?(1961年2月 港区一之橋付近にて) |
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1959 タトラ603 4ドア・セダン(空冷V8 リア・エンジン)
タトラは長い歴史をもつ自動車メーカーで、そのルーツは1850年、当時のオーストロハンガリー帝国で馬車製造からはじまった。最初の自動車は1897年ごろのベンツを真似たもので設計者は後年航空機でも有名になったルンプラーだったが、そのあとを引き継いだのがポルシェ博士と並び称されるリア・エンジンの権威ハンス・レドヴィンカで、1934年には空冷V8、3.6リッターのリア・エンジン車「タイプ77」という、大型高性能車を完成している。この基本構想が第二次大戦後の1956年の「603」に受け継がれている。車名は創立当初は工場の所在地から採った「ネッセルスドルフ」だったが、第一次世界大戦で敗れ、チェコスロバキア領となると町の名前も変わってしまい、新たに国内で1番高い「タトラ山脈」から付けたものだ。「タトラ」はこの写真を撮った時は「チェコスロバキア大使館」のものだったが、今はどちらに属しているのか気になったので地図で調べたらタトラ山はスロバキア側の北部にあった。念のため「スロバキア大使館」に問い合わせたら、スロバキアにも工場はあるが本社は「チェコ」にあることが判った。タトラでは、1930年代に「77」と同時に空冷フラット4、1.8リッターのリア・エンジン車「97」も造られていたが、これはヒットラーの国民車構想(フォルクスワーゲン)にあまりにも似ていたことからナチスから製造を禁止されてしまった。しかし、構想を実現させたのはこちらの方が早かった。(1959年12月 港区一之橋付近にて) |